月の村 に

 衝撃的な光景に言葉を失う僕たちを置いて、夜月はなんてことのないようにその道を歩いて行く。月頭が恭しく頭を下げた。
 夜月は戸惑うことも怯えることもせず、それの横を通り過ぎる。
 奇妙としか言いようがない。
 僕たちから二三十m離れたところで、彼女はくるりとこちらを振り返った。
 長い黒髪とセーラー服が翻る。

「ほら、早くおいでよ」

 いつもの様に明るい声で呼びかけてくる。
 それが、一層恐ろしい。
 聞き慣れたはずの彼女のうつくしい声が、耳に詰まる水のように響いた。
 僕は鼓動が高まるのを感じる。
 好奇心は猫をも殺すというが――僕は猫なんかじゃあない。
 言い聞かせながら一歩を踏み出してしまえば、もう後には引けない。

 夜月が月面の女がなにかを囁きかけている。
 どうやら面は被り物になっているようで、後ろから見ても正面から見た時と同じ、見事な満月だ。
 後ろから足音がする。あの女教師も歩き出したようだ。なかなか根性が座っている。少しだけ、見直した。

「一人でさっさと行くなよ。説明くらいしてくれ」

 夜月に追いついた僕は言う。

「まぁまぁ、家に着いたらゆっくり話すよ」

 形良い唇をにこりと曲げて、彼女は答えた。杜王町で見る笑顔と同じもののはずなのに、どうにも違和感を覚える。
 原因を見つける前に夜月は後ろを振り返り、「あと、そっちの先生」と女を呼ぶ。そして月頭を指さした。

「『これ』が今日泊まれる場所まで案内しますから、ついていって下さい」

 女教師の顔には血の気は戻っていなかったが、「わかったわ」とはっきり頷く。月頭は無言のまま女のもとに近付いて、先導するように歩き始めた。
 女も大人しくその後を追う。

「私たちも行こうか」

 道の端はやはり延々と平伏した人間が並んでいる。
 まだ十五歳になったばかりの少女を、彼らは心から敬い、また恐れているようだ。

「ああ……」

 その異様さに誤魔化され気に留めていなかったが、彼らの格好はまるで時代錯誤だった。
 女はすその短い簡素な麻の着物、男や子供も似たような服装で、この村だけ外界から置き去りにされているようだ。いつの時代から時が止まっているのだろうか。明治や大正なんてものではない。江戸、いやもしかしたら――この村の出来た頃から、この村は時を進めていないのかもしれない。
 視線を、人から道の果ての屋敷に向ける。冷えた無数の手が背筋をなぞった。

「あれ、先生寒いの?」

「大丈夫だ。あの屋敷が、君の家なのか?」

「そうだよ。おっきいよねー」

「そう、だな」

 大きいなんてものではない。
 平屋のそれは進めど進めど辿り着かない。僕は狸か狐か、それとも月に化かされているのではないだろうか。

 秋晴れの空を見上げれば、まだ太陽はほとんど真上だというのに白い月がうっすらとだが浮かんでいる。
 そうか、随分と時間が立ったと思っていたがまだそんなものか。
 隣を歩く夜月が、あくびをしながら眠たそうに目をこすった。

「一本しかないバスが九時出発とかなんだもんなあ」

 僕のスケジュールの都合で、今日と明日しか日にちを開けることが出来ず、僕たちは住んでいるM県を始発で出発した。――車で来てもよかったのだが、週に二本しかないバスの雰囲気というのも知っておきたかった。六回の乗り換えを経て、鈍行でしか止まらない過疎村に降りた。そこからバスで二時間、山を歩くこと再び二時間。
 体は疲れきっているのに、眠気は少しも感じない。むしろ見渡した辺りの風景は、網膜に焼きつくように鮮やかに飛び込んできた。
 山腹に位置する為、村全体がなだらかな斜面になっている。そのせいであの屋敷はより一層化け物じみたスケールで見えるのだろう。
 立ち並ぶ民家の奥には何が植えられているのか分からない田園。
 それから――。

「湖があるのか」

 水も何も入っていないのではないかと思うほど水質が澄んでいることが、五十メートルは先にあるだろうによくわかった。
 更にその奥には、漆塗りの鳥居と社。

「夜月、あれは何を祀っているんだ?」

 指差して問掛けるも、遮るようにあっと声が上がる。

「ようやくついたー! つかれたよー!」

 前を向けば言葉の通り、柿葺の数寄屋門がもう数メートル先に見えた。

「本当にすごいな」

 近くに来ると益々圧巻の一言で、家を囲み長く続く石塀はどこまでも終わらないように思える。

「すごいな? すごいね? そうですね? そうですかー」

 意味のない言葉の羅列を歌うように呟いて、夜月は大きく伸びをした。
 門に手を掛けると呆気無いほど簡単にそれは開く。鍵や錠がかかっている様子はない。普段は誰かが、先ほどの月頭かが管理しているのだろうか。

「君も、充分『すごい』がな」

 門をくぐり抜けると、古くゆかしい日本庭園と玄関。
 椿の生け垣、白梅と立派なサルスベリの木が植えてある。時期が時期ならば鮮やかな色取りだろう。
 生憎今は、季節外れの大輪の牡丹が一つ。
 狂い花と呼ぶに相応しい、毒々しいまでの赤だ。

「露伴せんせも『すごい』よ」

 敷かれた玉砂利を踏み、夜月は花にも緑にも目をくれることなく玄関へと向かった。最近では見ることも減った引き違いの扉にも、やはり施錠は見られない。

「随分と不用心だな」

「別に、誰も入らないからいいんだよ」

 そう言いながら、夜月はようやく僕の顔を見た。
 あからさまに眉をひそめ「うーわ、なんか色々聞きたいことが溜まって爆発寸前って感じだね」と笑う。

「当たり前だろ。いちいち意味ありげに言うのはよせ」

「はいはい、どうぞお入り下さい」

 促されるまま中に入れば、三畳分程の玄関の間が広がっていた。靴を脱ぐだけには勿体無い空間だ。
 家の空気は思っていたよりも埃っぽくはなかったが、予想していたよりもこもっていた。
 てっきり、また奇妙な出来事の一つや二つあるだろうと期待していたのだが。

「スリッパ、は……いる?」

「あるのなら出してくれ」

「はい」

 出されたスリッパに足を入れ、磨かれた廊下を再び夜月の後を追うように進む。ぱこぱこと間の抜けた音が静かな屋敷に響いた。
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