月の村 いち
地球儀というものがある。それは僕達が生きる地球をサッカーボール程度の球体に書写したものだ。それには国境や大陸の輪郭が描かれ、くるくると回転させれば世界中の位置関係が簡易的にだが分かることが出来る。
月球儀というのは文字通り、それの月バージョンというわけだ。月の海と呼ばれる平原や、大洋、泉と呼ばれる地形が細かに書かれている。
僕はその名前を知識としては持っていたが、実物を見たことはなかった。しかし先日、偶然にもそれを見る機会を得た。
「で、その化け物が人を集めて作った村が、今から行く父さんの故郷……なんだって」
隣に座り趣味の悪いお伽話を語っていた少女、夜月の家に、それはあった。
想像していたよりも月球儀はつるりとしていて、素材は陶器に似ていたがそれよりも滑らかな表面をしていた。月というには白すぎるように思えたが、中々に神秘的で、教材用にはない奇妙な魅力があった。
どこで売っているのかと尋ねたところ、それは彼女の父親の故郷で作られているらしい。一般の市場には殆ど出回らず、一部の好事家の手にのみに渡るオーダーメイド作品。僕の興味はこれ以上ないほど惹かれた。
ぜひ伺いたいと言ったところ、丁度彼女もその村に向かう予定があったらしい。正に渡りに船というやつだ。
反対する夜月の幼馴染を押し切って、今僕たちはその村に向かっている。一週間に三本しかないバスには乗客は三人しかいない。そのうちの二人が僕たちだ。
「ふうん、ありがちな話だが……寝物語にするには随分と生生しいな。その美しい『化け物』の子孫だから、君は美しいとでも言いたいのか」
「うーん……叔母さんは、かぐや姫は自分の一族だと思ってたらしいけど」
なんとまあ不遜な話だ。
しかし、確かに彼女は美しい。窓の外の竹林を眺める夜月の横顔は、僕が見た中で一等美しいと言っても過言ではないだろう。夢の様な美貌は、火鼠の皮衣を探しだしてでも手に入れたいと思わせるには十分だ。
「まあ古くからある山村なんだろう? そういう場所には伝統だの言い伝えだのがあってもおかしくはない、か。聞くのを忘れていたけれど、その村はなんていう名前なんだ?」
夜月はこちらを振り返り、驚いたようにまばたきをした。
「……あ、そっか、先生には言ってなかったね。あの村では私の家、皇家以外は名前をもっちゃいけないんだよ」
そしてなんてことのないように言う。
「一家以外に、名を持てない村だって?」
「そう、だから村にも名前はないんだ。先生が欲しいって言ってた――月球儀だっけ? あれもうちの村じゃあ名前はないんだよ」
僕の背にぞっと寒気が走る。
不快な感覚だが愉快だ。
名前の無い村を統べる佳人の一族。まるで、古めかしくも由緒あるミステリ小説の舞台のようじゃあないか。
額にじわりと浮かんだ汗を拭って、続きを聞こうとすると、後ろから女の声がした。
「失礼。話に聞き耳を立てるような真似をして申し訳ないのだけれど、もしや貴方たちも『月の村』に向かっているんじゃあなくって?」
僕たち以外の唯一の乗客。ショートヘアに帽子を被った、気の利いた感じの女性だ。年は僕より少し上。こちらを諭すような話し方には、秘書や教師をしている人間特有の、ゆっくりとして柔らかだが有無を言わせない迫力があった。
「『月の村』?」
夜月が怯えながら尋ねる。彼女は女性恐怖症なのだ。とくに年上の女にはあからさまな恐怖を見せる。
「あたりの人は、そう呼んでいるって聞いたわ」
「そうです、か」
そう言ったきり、夜月は黙りこんでしまった。何を考えているのか読めない横顔は月のように青白い。僕は女の方を向き直って、目を合わせる。
「あなたは?」
「あら、不躾にごめんなさいね。私も月球儀を買いたくてその村に向かっているの。小学校の教師をしていて、ぜひ教材に『本物』を取り入れたくて」
やはり教師だったか。
「『本物』、ですか」
「ええ、あそこの土地では月と同じ成分の石が取れるらしいのよ。それを加工して、月球儀を作っているのだって」
「隕石の産地……というのも妙な話だな」
「とっても神秘的でしょう? 子どもたちに宇宙への興味を持たせるのにピッタリだと思うの」
女は興奮気味に言う。今どき珍しい教育熱心さだ。
「それで伺いたいのは……『月の村』、ああごめんなさい、その村には宿や民宿とかはあるのかしら。ないのなら迎えを頼まなくっちゃいけないわ」
ここのバスは次に来るのは明日の早朝、その次は三日後でしょ。と顔を近付けてくる。馴れ馴れしいやつだ。
僕がそんなことを知るはずもなく、夜月に「おい」と声をかけた。それと同時にぴたりとバスが停まる。不意打ちのそれに、僕と女の肩がぶつかった。
無愛想に、扉が開いた。
「ちぇっ、アナウンスもなしかよ」
「言っただろ、名前がないんだって」
荷物を手にして、僕たちはバスから降りた。降りた瞬間、一秒でもここに居たくないという様子でアクセルが踏まれる。走り去る薄汚れたバスを眺めながら、僕はもう一度夜月に問いかけた。
「こちらさんが、宿はあるか、だそうだ。どうなんだ?」
「あるわけがないじゃあないか」
夜月らしくない、冷たい声だ。しかし女教師は気にした風もなく、「それじゃあ電話をしなくちゃあならないわね」とハンドバックからピンクの革カバーがかけられたスマートフォンを取り出した。すぐに、その顔から血の気が引く。
「電波が……!」
「入るわけがないよなァ」
「適当な家に泊まれるよう、言いつけますよ」
「そうして、くれると……ありがたいわ」
女は不測の事態が苦手らしく、さきほどまでの自信に満ちた笑みとは一転、弱々しく口角を上げた。
そもそも行き当たりばったりにも程がある。目的地が山村だと分かっていただろうに、足元は洒落た黒のメリージェーン。町中でなら優雅に見えるが、今ここでは場違いすぎる。ひなびた村へ出向くのでも見た目に気を使うのは見上げた根性だ。褒めてもいい。
しかし、同伴者としては――。大方、教育の方も熱心さはあるが爪が甘いのだろう。
塗装されていない道――ほとんど獣道だ。――をつっかえつっかえ歩きながら、女は僕たち二人の後を着いてくる。辺りは殆ど森。
夜月の足元もいつものヒールのあるアシンメトリーなエンジニアブーツだったが彼女は慣れたものですいすいと進んでいった。正直なところ、僕も着いて行くだけで精一杯だ。
段々と斜面がきつくなっていくにつれて、息が上がりはじめる。
「……せんせーたち大丈夫? 少し休もうか」
夜月がそういった頃には、僕のグッチのスニーカーも泥まみれになっていた。
「そう、しましょう……ッ!」
気づくと、女は随分と後ろを歩いていた。
けれど僕は逸る気持ちを抑えられず、「もう少しだろ? さっさと行っちまおうぜ」と言った。
「でも、まだ半分以上あるよ?」
時計を見れば、バスから降りて一時間も立っていなかった。どっと、体の力が抜ける。そのまま適当な石に腰を下ろした。女も同じように、その場にへたり込んだ。
「おつかれさま」
休む必要のないほど涼しい顔をした夜月が、僕に手で風をおくってくれた。歩いているときは気にならなかったが、立ち止まるとどっと汗が流れでた。山自体は肌寒い程だが、体は全身の筋肉を動かしていたらしい。
もう十月も終わる頃だというのに汗まみれというのは嫌な話だ。山登りは予想をいつでも裏切ってくる。
「ついでだ。夜月、もう少し村と君の一族について話してくれないか」
「話し、ねえ。特にないんだけど……自分じゃあ当たり前すぎて、なにから説明したものやら」
「なんでもいい。君の一族、これも仰々しい言葉だな。では、やはり君が一番美しいのか?」
ほんの水向けのつもりだった。この美しいだけの少女にかかれば、モナリザもオフェーリアもキリストも、みな髪の長い女にしか見えないのだから。美的感覚には到底期待できない。
「まさか。私の叔父さんと比べるのも怖いよ」
はずだった。
慌てて否定する夜月。この少女に謙遜なんて器用な真似は出来ないだろう。僕は疲れも忘れて、彼女に詰め寄る。
「その叔父というのは、君の父親の兄か? 弟か?」
「弟だよ。父さんの十個下って言ってたから、先生と同い年くらいじゃあないかな」
いわく、彼は現皇家の党首で、直視するのも憚られる、神々しいまでの美しさだという。
目の前の夜月の顔は、それこそ髪の最高傑作と言えるまでに美しいというのに。
これ以上の『もの』が存在するのか。
「その彼に会うことは出来ないのか!」
「無理だと思うなァ。叔父さん人嫌いで、滅多に人と会わないから。ずーっと家に閉じこもってて……私だって二三回しか会ったことないもん」
「家というのは、今から行く村にあるんじゃあないのか? 党首と言うのならそこに住んでいるんだろ」
「違うよー。もう何も住んでない。ただ、たまには使わないと増えすぎちゃうから」
今回は私の番なんだよーと続ける。
――増えすぎる?
「それは一体、」と言いかけると、
「きゃああああああああッ!」
女の、絹を裂いたような悲鳴が木々に反響する。僕と夜月は一斉に振り返った。
すると、ジタバタとスカートをはたいていた女は手を止め、オホホと笑って見せた。
「まあ、ごめんなさい。急に上からムカデが降ってきたものだから……。もう休憩は結構よ」
「……」
「……じゃあ、行こうか」
僕はまだそこらにムカデがいないから探してみたが、件の悲鳴で逃げてしまったのだろう。影も形もなかった。この地域のムカデは見たことがなかったので、ぜひ体のつくりや味を見ておきたかったのだが。
そのまま進んでいくと竹林に出た。
先が見えないほど群生したそれの間を、縫うように進む。
「ここを抜けたら、到着だよ」
「随分と深いところにあるんだな」
竹の葉で頬を切らないように気を使いながら、夜月の背を追った。坂を登るのも疲れるが、こういう不規則に曲がりくねった道というのも息をつく隙がない。
「まだ、か」
「もう少しだよ。ほら、声が聞こえてきた」
言われた通り、耳を澄ませば子どもたちの遊びまわる声が聞こえてくる。
「子どもが、いるの、ね」
女教師は息を弾ませながらも、嬉しそうに言った。
「学校は、どうしているのかしら」
「さぁ」
竹林を抜けると、それまで聞こえていた声が――止んだ。
ざあっと吹いた風が頬を打つ。
「……一体、どういうことなの……ッ!?」
「……本当に、奇妙な村だ。これで、わらべ唄の一つもあればいいんだけどな」
「どうだろ。ここの人たち、口が利けないから」
生きているものは、僕たちしかいないんじゃあないかと思うほどの静けさ。
開けた平地にいくつもの木造建築、いや、それは掘っ立て小屋と呼ぶのが相応しい。それらが立ち並ぶ村を二分するように続く道。
それに沿うように、数十人、もしかしたら百はいるかもしれない。そんな数の人間が、地面に座り込み、頭を深々と下げている。
どこまでも、その黒い塊は続いていた。
「だから私は、この村に伝わるわらべ唄なんか知らない」
道の中心には月を頭とした黒スーツの女が、まるで道を照らすように立っている。
その先に遠近感の狂うような巨大な屋敷。
それはまるで、一枚の歪な絵画のようだった。
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