それはその村にとって神話に等しかった。


 ある貧しい漁村に醜い女がいた。
 まだ女と呼べる歳であるのに背は曲がり、短い手足は芋虫のようにぶくぶくと太っていた。落ち窪んだ瞳は赤茶け縮れた前髪の隙間から伺うように覗き、その顔は痘痕だらけで見られたものではなかった。薄い唇はひしゃげ、平らな顔の中で鉤鼻だけが異常な存在感を放っていた。
 それを産み落とした母親ですら、女が三つになった頃、その醜さに耐えかねて女を捨てた。

 女の人生は野良犬のようなものだった。
 水溜りの泥を飲み、踏み潰された、あるいは腐り落ちた作物を食べた。女はどこにいても疎まれたが、どこにでも善意と偽善は存在した。見るからに哀れで見窄らしく『不幸』な醜女は、施しと嘲笑を糧とした。女はその醜さ故に捨てられたが、しかしその醜さ故に生きていた。
 短い指は不器用で、知能は人並み以下。三つの頃から畜生のように生きてきた女は、まともな言葉を話せなかった。子供は女に石を投げた。大人たちは一時は女に同情したがすぐに女を追い出した。
 村から村へ。彷徨うように女は生きているだけ。
 山奥の村にたどり着いた女は、寺の軒下で雨を凌ぐことを許される代わりに、日々雑用を言いつけられていた。その坊主どもも女の姿を見ると胸底から苛立ちが沸き起こった。
 浅ましい、悍ましい、なんて醜い。
 女にとって坊主どもや辺りの村人が囁くそんな言葉は、生まれた頃から聞かされていた。

 ある日、女は住職に言いつけられ山に野草を取りに入った。渡された籐で編まれた籠をいっぱいにするまで帰ることはできなかった。
 女は、石を投げるものには人のものではない言葉で呪詛を掛け、施しを投げるものを反吐を吐くほど嫌った。働くことをなによりも厭い、見張られていれば暴露ないように手を抜き、見張られていなければ直ぐに休んだ。生まれついてなのか育ちがさせたのか、女は見た目だけではなく中身も醜かった。
 醜い女はその日も籠に適当にむしった葉を三枚ほど入れて、すぐに地面に横たわった。すると女は視線の先に、岩壁が避けているのに気が付いた。
 なにかに誘われるように、女はその裂け目に這いずり寄る。体を捻りながら、その体躯をねじ込んだ。中は暗く、何も見えない。ひんやりとしていて、外からの音が一つも聞こえなかった。
 女がようやく全身を洞窟の中に押し込めると、静謐な空気がぐりゃりと歪む。それと同じように、これはいいと女はひしゃげた唇を歪ませる。ここも寺の軒下も大した代わりはない。それどころか、喧しく神の法だのを解く坊主もいないのだ。畜生に人を救う言葉など通じない。
 女の喉から、この世のものとは思えない、醜い笑い声が零れた。

「きさまは、全てを持つものだ」

 誰も聞くはずのない嬌笑を、男の声が遮る。
 男、否、それさえも超越した美しい声だ。静かな、声だ。
 女の肌が粟立った。
 そこには自分以外の生き物は存在しないと確信しきっていた矢筈のことだった。女は畜生並みの知能と、畜生並みの五感を有していた。それでも捉えることの出来なかった、『何か』。声がした今も、人語を話す存在があるとは思えなかった。
 暗闇に目が慣れるよりも先に、女に腕が伸びる。
 絡めとるそれは冷たく、女の肝は芯から冷え切った。抵抗も出来ない。体全てが凍てついたようだった。なにかの舌が、女の垢だらけの首を舐めた。

 女はほどんど服として用をなさないボロ布を掻き合せながら、転がるように藪を駆け抜けた。
 草を取ってくるどころか籠さえ持ち帰らなかった女を、坊主はきつく折檻した。しかし女にとってその程度の苦しみは痛みなどではなかった。あの美しい化け物に舐められた首の痛みが、なにをも凌駕した。
 それから女の腹は、月と同じだけ日夜膨らんでいく。
 寺の坊主どもはそれを酷く気味悪がり、女を蹴飛ばすように追いだした。女は再びあてもなく彷徨うことになった。通りがかりの無作法ものに襲われようとも、満足な食事を取らなくとも、まるで女の体を内側から食うように、腹の子供は育っていった。
 そして女が化け物とまぐわってから丁度一度目の満月の夜。月光に照らされることを望むように、母の死と引き換えに、『それ』は生まれ落ちた。

 目を覆いたくなるほど、美しい化け物だった。


岸辺露伴は動かない
−月の村−



 あなたは、月球儀というものを知っているだろうか。
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