こい、いなびかり、りそう2
雨の道を真っ直ぐと進んで、前述の会話から五分もすれば露伴邸に到着した。一人暮らしをするには立派過ぎる程だが、手入れはどこもしっかりとされている。
扉を開き、二人は無言のまま家に入った。はじめこそのべつ幕なしに口を動かしていた露伴だったが、段々と口数が少なくなり、家が見える頃にはついに一言も話さなくなった。手を引かれていた夜月も、それに倣って口を閉じた。強引な誘いを受けた混乱はすでに収まっていた。けれど、特別話すこともなかったからだ。
雨粒に濡れた頬を拭いながら、凝った作りの玄関を見渡す。そうして彼女が小さく「お邪魔します」と呟いた瞬間、露伴は背後から攻撃を受けたかのように勢いよく振り返った。
「あんまりなインパクトに目が眩んでいたが、僕だって恋の一つや二つしたことがある。その時は今思うと恥ずかしいくらいに青臭くて、彼女とまともに話すことも出来なかった。それでも目が離せなくて、胸は苦しくて、冗談みたいな甘酸っぱさが僕を阿呆にした」
黙り込んだ彼は、今の感情と、彼が十七歳の時に味わったそれを比較していた。夏休みの出来事。あの時見た涙の美しさに名前をつけるのなら、『恋』というのが一番ふさわしく思えたのだ。
確かに今も、一度見てしまえば露伴は夜月から視線を逸らせない。まともに頭を働かせることも出来ない程意識を奪われ、心拍数は上がり続ける。しかし決定的な差は、彼女を見る己の目だった。あの時のようなひたむきさの影に、――どこかどうだから美しいとか、この動作の意味するところはとか、肌の色を表現するにはどうすればいいとか、瞳の輝きは僕の絵に馴染むだろうかとか、冷静に観察する自分がいるのだ。
「頭が冷えてはっきりしてきたぞ。ああ、まるで僕らしくない。思いつきを深く考えずに言い切るだなんて! 『王子』とやら、僕が言いたいことが分かるか? わかるよなァ」
それは、美術品を鑑賞する時そのものだ。
「つまり君へのこの感情は、恋じゃあない」
「じゃあ帰ってもいいですか?」
「駄目だ」
「難しいなあ」
「難しいことなんかあるもんか。恋じゃあなくとも、僕は君に興味がある。しかしなんだ君は。目から魂吸い取り魔か」
そう言いながら漫画家は、ようやく靴を脱いだ。そして夜月の手を再び取る。少女も慌てて踵を踏んで靴を脱いで、露伴に引きずられるような形で廊下を進みだした。
「……君こそ、なんなんだい? 先生」
先生と呼ばれた男は、派手な音を立ててバスルームのドアを開いた。手を伸ばして、柔軟剤の効いたタオルを二枚手に取る。そして今度は普段通り静かにドアを閉め、リビングへと向かった。
「『先生』、だと? ようやく本性を表したな。いつ僕が漫画家だって君に話した。少なくとも君が著者近影まで目を通すほどのファンだなんて情報はないぞ。やっぱりそうだな。新手のスタンド使いか!」
「漫画家さんなんだ。あんまり読まないから分からないけど、本とか出てる? 折角だし読んでみたいなぁ」
手は相変わらず掴まれたまま。その間も夜月は、のんきに互いから滴る水滴で濡れた廊下を、振り返り見ていた。
「おい、僕は質問をしてるんだ! 質問に提案で返すんじゃあないッ! 単行本なら中の本棚にあるから勝手に読め!」
「タオルありがとう。スタンド使いか!……って、質問かい? 断言されてると思うけど。ところで『スタンド』ってなに?」
どうにも、いつまでも会話が噛み合わない。
噛み合わないままに、二人は目的の場所へたどり着いた。適当に座れ、と促されて、夜月は一番手前にあるロッキングチェアに腰掛けた。フローリングを傷めないようプラットフォーム・ロッカーを選ぶ辺り、家主の性格が伺える。
「……詳しい話は、幼馴染にでも聞けばいい。確か、東方仗助がそうだったな」
当の家主は濡れたバンダナを外して、ソファがシミになるのも気にせずにどっかりと腰を下ろし背もたれに全身を預ける。平常ならあり得ないことだ。露伴は病的なまでに神経質というわけではなかったが、それなりに几帳面ではあった。しかし今日は普段使わない『情緒面』に関わる脳機能を使った為か、駄目になってしまっただろうスケッチブックを鞄から出すことさえ億劫に感じられた。
「帰ったら、聞いてみるよ。仗助と友達なんだね」
それでも、観察することだけはやめない。
「友達ィ? 僕とあいつは不倶戴天の敵の関係だろうとなんだろうと関係を持ちたくないほど関わり合いになりたくない関係だ」
「ふーん。ん、……ん?」
「釈然としないか」
「釈然としないね」
「釈然としたいか」
「……いや、別に。あ、もっときょうむ? きょんだほうがいい?」
夜月は、長い髪をタオルで挟み水気を取りながら言う。
「なんだ、『きょうむ』って」
妖怪か?と露伴。
「興味をもつこと。興む」
「妙な言葉を作るのを趣味にでもしているんじゃあないのなら、二度と使うのはよせ」
「先生はこういうのお嫌いかい?」
「好ましくはないね。センスのない言葉狩りもナンセンスだが、若者言葉っていうのか? ああいうのも、頭の悪さが露呈するだけだ」
「見た目に似合わない、おっさん的反応だねー」
大袈裟に泣き笑うわけではないが小さくとも確かに変化を続ける表情、濡れたセーラー服が沿う白い腕、タイツ越しの指先。
やはり、美しい。露伴は夜月の取り巻く空気が壊れてしまわないように、細く息を吐いた。
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