行進曲第五番ハ短調作品67
「ただいま」を言う暇もなくみぞおちに叩き込まれる拳。崩れ落ちそうになる体を、誰かが後ろから羽交い締めにしてきた。頭になにか鈍器のようなものが打ち付けられ、そのまま床に押さえつけられる。弾けるような衝撃に一瞬我を忘れた。
混乱と共に額を伝う生温い血、冷たいフローリング。
――日常からの突然の転落に、声も上げることが出来ない。
「こいつが『コアントロー』のガキですかい? あんまり似てやせんね」
俺に馬乗りになった誰かが言う。声とかかる重さからしてかなりの体格をした壮年の男だろう。
後頭部に突きつけられている固い『なにか』の正体を、俺は必死に考えないようにする。
痛い重い怖い。それよりも、熱い。恐怖はある点を超えると、背筋を凍らせるような冷たさから身を焦がすような熱に変わるらしい。熱い。熱い。鼓動で心臓が張り裂けそうだ。
「クソッタレの親父から送られてきたもんがあるだろ。これ以上痛い目見たくなかったら、さっさと出すんだな」
地を這うような声が、鼓膜を震わせる。先ほどの声とは別ものだ。
血の気も体温も感じさせない声の主からは、懐かしいタバコの匂いした。廊下に顔を突っ伏したままでは、そいつの鈍く黒光りする靴先しか見えない。
親父から……送られてきたもの? コアントローのガキ?
わからない。わかりたくない。一体、何が起きているっていうんだ。
「死んじまったか?」
吐き捨てるような言葉。零れ落ちそうな涙を堪えていると、髪を鷲掴みにされる。
頭を持ち上げられた、その先には――。
「……それとも、泣いてんのか。嬢ちゃん?」
死神だって、きっともう少し可愛い気がある。
目深に被った中折れ帽と前髪で、目元はほとんど影になっていてわからない。けれど頬は幽鬼さながらに痩け、肌は土気色。顎先は尖り、鼻筋は高く細い。神経質そうな長い指にはゴロワーズ・カポラル。
長い銀髪に紫煙を絡ませた黒衣の男は、膝をついてじっとこちらの顔の覗き込んでいる。
その酷薄そうな色のない唇には、残忍な笑みが浮かんでいた。
「……あんたら、なんなんだよ……っ!」
喉から、みっともないくらい震えた声が出る。体温は未だ際限なく上がり続けていた。出来ることなら、無様と言われようと泣いて命乞いしてしまいたい。
背でまとめられた両手首が、強く締め付けられる。目の前の男は何も答えないまま顎をしゃくり上げ、タバコを咥えた。
男はたっぷりと時間を掛けて、深く煙を吸い込む。ダボついたハイネックから覗く白い喉が、ゆっくりと上下する。
俺はそれを、馬鹿みたいに見つめていた。
そしてスと小さく息をついたかと思うと、真っ白な煙を吐き出す。独特な匂いと共に煙は俺の眼前を覆った。
「テメエが流すべきは、涙じゃあねえ」
瞬間――刃物のように鋭利な瞳が、俺の心臓を射抜く。
こちらから視線を逸らさない、爛々と輝く深緑色の瞳は悪夢のように美しい。
――なるほど、運命はこんなにも悍ましい姿をしていたのか。
「真紅の鮮血だ」
突きつけられていた『なにか』が、カチリと音を立てた。
▼
昼休みの教室は、つかの間の開放に賑わっている。
俺は自分の席でカレーパンを齧りながら、工藤の話に耳を傾けていた。新作の探偵小説がすごかったようで、彼らしくない語彙のなさで説明してくれている。『愛妻弁当』は、気もそぞろに食べられて不満そうだ。
「来栖は『左文字』シリーズ読んでねーよな。貸してやろうか!」
「ご自慢の記憶力で数えてほしいんだけど、それ何回目?」
「……む」
推理オタクで推理小説オタクの友人は、仲間に飢えているらしい。
アガサ・クリスティまでは付き合って読んだけれど、さすがに現行で発売されている長編小説を追うほどの友情は見せられない。読書よりも、体を動かす方が性に合っている。
「こっちが興味なかろうが、勝手にペラペラ話すくせに」
「なんだよ。トゲがある言い方だな」
「……ぐ」
今度は、こちらが言葉を飲む番。
確かに工藤がしつこいのもいつものことだし、いつもなら流せていた。
嫌味っぽい言い方になってしまったのは、今朝のことが気にかかっていたせいだ。……八つ当たりの自覚は、ちょっとある。
授業が終わる度に鞄から取り出しては、タブレットを握りしめていた。勇気が出ない自分に、苛立つ。
「――卵焼きもーらい」
「あっ! てめー!」
素直に謝るのも癪なので、誤魔化すように工藤の弁当に手を伸ばした。蘭ちゃんお手製の卵焼きはほんのり甘くて、冷めてても美味しい。
――結局、俺はその日一日、タブレットの中身を見れないままだった。
鞄から胸ポケットに移したそれがやけに重い。
晴れない気分のまま、家の扉を開く。
これが絶望へと至る、螺旋階段の一段目だった。
▼
俺の目にどんな色を見たのか。命を刈り取る鎌に似た、切れ長の瞳が煩わしそうに歪んだ。
髪を掴んでいた手が離れ、俺は再び地面に突っ伏すことになる。間髪入れずに頭を強く踏みつけられる。鈍い衝撃。鼻血がフローリングを汚した。
「気に食わねぇ……。さっさとブツを寄越せ!」
人殺しの目をした男が、声を荒げる。
俺は後ろ手に掴まれていた腕を払って、シャツの胸ポケットからタブレットと手紙を取り出した。投げ捨てれば、床にぶつかってカタンと乾いた音を立てる。
「――これ、あんた達が送ってきたんだろ。息子への手紙にわざわざ暗号作る必要なんてない……。あのくそ真面目な父さんが紙をこんな風に千切るはずも」
謎が、少しずつ解けていく。
『コードネーム』で呼ばれる父親、不可解な暗号。乗り込んできた、どう考えても真っ当な人間じゃない二人組。――父の遺品。
俺を殺してしまえば、目的のものを探し出すのは容易なはずだ。
返事を待たずに、タブレットに手を伸ばす。震える指先でパスコードを入力した。
『9321』。父さんの置き土産。ひらがなよりも先に教わった、俺の名前だ。
「なんで、こんな面倒なことしたんだ」
問いかけた先は、目の前の男じゃない。
018194087750289196848337
009003002001339203384720
379352001556135494221012
158123055479954328597050
378032229291989554162884
078427143465637272139393
340097602063947638445920
開いたままのメール画面が、タブレットの液晶に表示される。
――父親が俺に教え込んだ暗号は、至ってシンプルだ。
ひらがなに対応させた、三桁の数字配列。それはすべてランダムな組み合わせで、解き方はただ一つ。丸覚えするだけ。濁音、半濁音、長音、促音、撥音、拗音、そして数字。全て合わせれば百以上の無作為な数字を記憶することは、子どもながらに酷く難しかった。それを四パターン。
009003002001、346857982398、483568298313、093349293598を見つけ出して、それに対応する読み方をすればいい。
これが、絶対に俺にしか解けない、父さんの
ダイイング・メッセージ。
「試験、だから……?」
口に出してしまうと、喉がヒュッと狭まった。この狂った状況が、試験?
銀髪の男は、さぞおかしそうに鼻先でせせら笑う。
「俺が、テメエの親父を殺したからだ」
父親は犯罪組織の一員で、裏切り者の疑いを掛けられ殺された。『石橋を叩きすぎて壊す』トップの指針により、家族も消される。
生かしておく価値がなければ。
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