なんだこれは!

 すっかり体が元通りになったパーンを待っていたのは、山のような書類と、山のようなお小言だった。
 それを一つ一つ消化し、一つ一つ頭を下げた。
 明けない夜はないという。きっと、終わらない仕事もない。パーンは自分を奮い立たせた。

「しんどい。っス」

 しかしそれも限界が近い。承認の判子をつく上司に、弱音をもらしてしまうほどに。
 毎日はやく帰れとどやされながらも居残れば、山のような書類は、ようやく丘ほどまでになった。まだ丘がある。

「頑張れ。これが終わったら、しばらく非番なんだろ?」

 ロシナンテは手元から目を上げることなく、それでも優しげな声音で言った。
 そうだ! これが終われば、半年ぶりの里帰りが待っている。パーンの目の前が少しだけ明るくなった。あとほんの一息だ。
 どうにか気持ちを立て直したパーンに、ロシナンテは「出来たぞ」と書類を返し、「追加分だ」とそれと同じくらいの書類を渡してきた。

「うそ、増えた」

「こっちは反省文みたいなもんだ。これに懲りたら、勝手な行動は慎むんだな」

 仕事は減らず、小言を一つ消化。
 声が優しげだからといって、優しいとは限らない。いやいや、彼もこれが職務なのだ。ロシナンテだって、こんな遅い時間まで仕事をしている。恨むのはお門違い……。
 パーンは様々な感情を飲み込んで、肺にある空気をすべて吐き出すような、深いため息をついた。
 ――それでもやはり、明けない夜はない。



 パーンが生まれたのは、北の海に浮かぶ小さな島、ファーブラ島だ。そこは緑豊かで、まるで童話に出てくるような美しい国があった。
 あったというのは、パーンが7歳の頃に、海賊たちの手によってその大部分が焼き払われたからだ。十年経った今でも、爪痕はそこかしこに残っている。

「ロシナンテ中佐、そろそろつくっス」

 船の甲板に寝転がり、『休暇中の昼寝』という最高の時を過ごすロシナンテ。彼を揺り起こすパーンの声は、いつもよりも柔らかい。
 偶然にも、二人の非番期間は被っていた。「どうせヒマでしょうから、ついてきてもいいっスよ」とパーンがからかい半分で誘えば、ロシナンテは逡巡してから、「のんびりバカンスっていうのも、悪くないかもしれないな」と頷いた。パーンは、『ゆっくり出来る』とは言っていない。

「ん? ああ……そうか」

 ロシナンテはのっそりとその巨体を起こし、ぐっと背を伸ばす。パーンはうっかりその横顔に見とれてしまうという失態を隠すように、わざと小憎たらしく「ヨダレたれてるっスよ」と言った。
 ロシナンテは慌てて口元を拭って、青い空と青い海原を見渡す。

「いい天気でよかったな」

 向けられた屈託のない笑顔が眩しくて、パーンは顔を背けた。それから、そっけなく頷く。

 どうも最近の自分は変だ。
 パステルカラーのタイルで覆われた、島に一つしかない船着き場。荷物を抱えてそこに降りている間も、パーンは己の奇妙な変化に胸を曇らせていた。

「可愛らしい島だなー」

 そうのんきにキョロキョロとしているロシナンテが、可愛くて仕方がない。足元がお留守になっていた彼は、案の定なんの段差もないところで盛大に転んだ。
 「なにやってるんスか」と手を差し伸べる自分の顔には笑みが浮かんでいて、しょうがないなと思いながらも、まんざらではないと思ってしまう。

「すまねェ」

 照れ笑いとともに握り返される、無骨で大きな手。いつまでも触れたままでいたいような、心臓に悪いから振り払ってしまいたいような――。
 なんだこれは!

 医務室で彼の泣きそうな笑顔を見てから、自分はどうにも変だ。
 パーンはいたたまれなくなって、足早に港町を抜けようとする。故郷の町並みを、眺める余裕もない。

「おいおい、置いてくなって」

 何を勘違いしたか、後ろをついてくるロシナンテは小さく笑い声を上げて、「本当に子どもが好きなんだな」と言った。

「嫌いっスよ、子どもなんか。すぐ泣くし、すぐ死ぬし……あんなもの好きな人の、気が知れないっス」

 振り返ると、彼の目はパーンの手元の大きなカバンに向けられていた。中は弟や妹へのお土産でいっぱいだ。
 ロシナンテの微笑ましいものを見るようなその目に耐えきれず、パーンは思いっきり首を回した。そしてまた、足を早める。

「放っておけなくて、そばにいたくて、笑っててほしいってのは――好きってことだろ」

 つぎにどんなドジをするか心配だから放っておけなくて、わざわざ里帰りに誘ってまでそばにいたくて、太陽みたいな笑顔が直視出来ないくらい眩しい。

「……ぜーんぜん違うっス! バーカ!」

 パーンは無性に走り出したくなった。考えるよりも早く、足は歩くという速度を越えて駆け出していた。

「お前! 上司に向かってバカはないだろバカは」

 けれどどれだけパーンが急いで足を動かしたところで、コンパスの差は埋まらない。あっという間にロシナンテはパーンの横に並んで、不満そうに頬を膨らませた。

「バカ、バカ中佐。そういうのはね……き、気付いても言わないもんスよ! もう!」

 ああ、我ながらなんて青臭い。
[ 7/11 ]
[*prev] [next#]
[ back to top ]
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -