すっぱい!

 パーンはため息をつくことが多いが、この島にいるときに限ってはそうではない。

「もう。服を汚したからって隠さない!」

「……ごべんなざい」

 というより、こどもに対して彼女がため息をついたり、呆れたような顔をすること自体がないと言ったほうがいいだろうか。
 ここに帰ってきてから、パーンは日が昇ってから沈みはじめるまで、こどもたちといることが多いので相対的に数が減る。

 泥と絵の具で汚れた服を両手に抱え、腕白坊主を叱るパーンの顔はわかりやすく怒りの形を示している。眉は釣り上がり、目は三角だ。それでもため息はつかない。
 親のため息は、こどもに多大なストレスを与えるらしい。
 庇護者に見放されるかもしれない。そんな恐怖に起因するのだろうか。 

 つまり逆説的に、彼女のため息は対等な相手への信頼の証と言えるのではないだろうか。
 上司だというのに、度々彼女を呆れさせてはため息をつかせるおれはそう思った。

「たらいと洗濯板もって、庭に集合」

「……はい」

 そんなことを考えながらパーンを見つめていると、ぱっと視線が合う。
 彼女はニ三度まばたきをして、「中佐、ジュースこぼれてるっスよ」と早速信頼のため息。



 休暇三日目にして、パーンの見たことのない顔をいくつも見ることになった。
 彼女があんな風に『お姉さん』の声を出すなんて。ここに来る前の自分に言っても信じてくれないだろう。
 まず纏う空気がいつもよりも柔らかい。故郷の島だからだろう。どことなく、自分を呼ぶ声さえ甘さを増している気がした。
 そんな風に考える己が気恥ずかしくて、無意味にキョロキョロと視線を彷徨わせてしまう。

 ここは先の事件で唯一焼け残った森だという。
 日は落ちかけて、木々はもう黒いシルエットとしてしか捉えることが出来ない。オレンジと紫の空とのコントラストが、おどろくほどきれいだった。そういえば、こんな風に目的もなく歩くのなんていつぶりだろうか。

「ロシナンテ中佐」

 やはり甘やかな声と共に差し出された赤い実。おれは反射的に口を開ける。

「……ッ食べてもいいけど、めちゃくちゃ酸っぱいっスよ」

 その顔がよほど間抜けだったのか、パーンはきゃらきゃらと笑う。オレンジ色の影が踊った。
 こんな無邪気な笑い方も、この島に訪れたから知れた顔だ。
 ずっとこうやって、幸せそうにしていてほしい。争いだとか、悲しみとか、そういうものから遠ざけてしまいたい。
 こんな考えはきっと部下に向けるべきじゃなくて、迷惑で、彼女に失礼なんだろうけれど。

「こうやって遊ぶんスよ」

 手のひらで潰した実を、おれの唇に塗りつける細い指。ワンピースから覗く華奢な肩。皮が剥けて豆だらけのお世辞にもきれいとは言えないちいさい手。それらは簡単に壊れてしまいそうで、おれは恐ろしくなる。
 海軍にいたときは押し込めていた感情が、簡単に溢れてしまいそうになった。

「パーン」

「ああもう、喋るからはみ出しちゃった……おや、中佐。なかなかの美人じゃないっスか」

 こちらの気も知らないで、滑稽なメイクに満足したのかパーンは声を弾ませる。
 ――おれは今、なにを言おうとしたのだろう。 

「まずい。パーンよりかわいくなっちまう」

「言ってろっス」

 パーンはニマニマと人の悪い笑顔を浮かべて――これは仕事中でもよくみる顔だ。――「ちいちゃいパーンちゃんのお化粧道具その一、でした」とまた歩きはじめる。
 その背中を見ていると様々な気持ちがぐるぐると渦巻く。その中に邪な気持ちがないと言いきれないのが困った。

 ここに来てから自分が分からなくなる。
 パーンが笑うと嬉しい。これが部下を思う気持ちなのか、そうじゃないのか。
 妙に彼女に触れたくて、でも手を伸ばしきれない。守ってやりたいだなんて不遜な考えが浮かぶ。知らなかった一面を知ると、もっと知りたいと望んでしまう。

 おれだってうすうす、これは恋だとかそういう類のものなのだろうくらいの察しはついている。
 いまいち踏ん切りがつかないのは、自分が知っている恋よりもわがままで、傲慢だからだ。
 ひょっとして父性が目覚めたんじゃないだろうか。そんな風に思ってしまうほど、おれが彼女に抱く感情は独善的だ。
 いい年してこんなことで悩むなんて。
 自分が情けなくなって、おれは乾いた唇を舐めた。すっぱい!

「すっぱッッ!!!!」

「……だから、酸っぱいって言ったじゃないっスか」

 ただこういう風に呆れながらも愛おしそうなため息を、おれは案外嫌いじゃない。それだけは確かだ。
 舌がビリビリして嫌な汗をかきながらもそんな風に思うのだから、多分『それだけ』じゃないのだろうが。
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