「あぁ! やはりアバズレの子は売女だ! 俺はなんて道化で、なんて不幸なんだ!」
世界が足元から崩れるよう、とはこの間メローネに読んでもらった本の一説だ。
不躾にドアを蹴破って、高らかにそう読み上げた声には――あたしには父さんが演劇かなにかをしているようにしか見えなかった――張りも勢いもなく、ただガラガラとみっともなく喉を鳴らしているだけ。
これがあれだけ恐れ敬っていた父親の姿か。なんて小さく、情けない姿だろう。
「ご、ごめんなさいメローネ」
「なにをこそこそ話しているんだ! ナマエ! 帰るぞ!」
あたしは父親への恐怖よりもずっと、メローネへ迷惑をかけて嫌われることのほうが怖かった。縋るように彼の服を握りしめると、メローネは笑っていた。
「――ッ!!」
それは絶対的上位者の笑みで、負け犬の父さんを激昂させるには十分だった。顔を真赤にした父は必死にメローネを守るように手を広げたあたしをなぎ倒して、メローネの上に馬乗りになった。お前のせいだとか殺してやるとか、まるで獣のような息を噴きかけながら、父だったものはメローネの細い首をソーセージのような指で絞めはじめた。
それからのあたしはやけに冷静だった。
火に熱された鉄の棒を心臓に当てられたような激情を持ちながらも、習ったばかりの力を込めなくてしっかり握り込めるナイフの持ち方、心臓の場所、人が気を抜く隙、そんなものを瞬時におさらいをして、テーブルの上の果物ナイフを手にする。
敵はメローネが引きつけてくれている。
心臓の場所はわかる。
暑い脂肪が背中側にもついているだろうから、習ったよりも強く突き立てなければならない。
それには――、
「お、おい、何をして、」
飛び降りる勢いで"実行"しようとソファの背もたれに登れば、流石に気づかれた。それは体を起こして、あたしの足首を掴んで引きずり下ろそうとしてくる。
こういう時はどうするのだったか、考える前に体が動いた。
きたならしい血が、父の口から吐き出される。
あたしの体を引く力に抵抗するのはやめて、そのままの勢いでそれの胸目掛けてナイフを突き立てる。そして出来るだけ傷を広げるように抜いて、
「ベネ」
もう一度突き刺す。
脂っぽい肉を断つのは中々難しかったが、角度を守れば果物ナイフでも十分だった。胸に刺したナイフを、上向きに斬り上げる。
どさりと鈍い音を立てて、父だったものは床に倒れた。
「……」
あたしが、殺した。
一気に恐怖が押し寄せてくる。でも私がしなければならないのは肩を震わせて泣き叫ぶことではなく、"死"を確かにすることだ。
あたしは無我夢中で何度も何度も父親にナイフを刺す。何度も、何度も、何度も、何度も、何度も。
10を越した辺りで、メローネがあたしの手を掴んだ。
そうだ、確実に仕留めたら、それ以上血を流す必要はない。そう学んだ。
「……これから、どうするんだ? どう死体を処理したって何れ見つかって、あっという間にお縄だぜ。まァ君も俺もまだ子供だし、ちょっと反省した真似をすればすぐに出てこれる。でも出てきたってどうする? 結局状況はなにも変わらない」
首を絞められていたせいで、掠れてしまった声のメローネが言った。
メローネはあたし以上にあたしのことを知っている。あたしは頭ではメローネから慰めの言葉が欲しいと思っていたけれど、実際こうやってバッサリ切られると、本当はこうして欲しかったんだと気付く。
「……逃げる」
どうしよう、と首を傾げるはずのあたしの口は脳味噌をすっ飛ばしてそう呟いていた。
逃げる。どこへ。逃げる。なにから。逃げる――、
「一緒についていってほしい?」
誰と。
変な形に眉毛を曲げてメローネはそう言った。あたしはすぐに頷く。どんな不幸よりも、メローネと離れるほうが嫌だった。凍っていた涙腺が、鮮やかに溶かされていく。
離れたくないと、しゃくり上げながら訴えた。
「め、ろーね……」
「いいぜ。俺も、逃げてあげる」
するとメローネは、はじめて会った時と同じように、なんでもないふうにあたしの手を取った。それから今度は力一杯地面を蹴って部屋から駈け出す。目的地は一つしかない。頬を切る冷たい風が気持よくて、痛くて、あたしはぼろぼろ泣きながら大声で笑った。
前からは、狂ったようなメローネの笑い声も聞こえる。
その後あたし達がフィレンツェでなんとかとか言う絵が見れたか、それはオシテシルベシというやつだ。
FIN
(改稿:2013/10/15)