学び
それからあたしは昼夜問わず何度も、メローネの秘密基地にお邪魔した。三回目には場所もしっかり覚えて、今では一人でもココにくることが出来る。一人でいるならココにいる必要はないけれど、大体彼はここにいたし、いなくてもちょっとぼおっとしていればすぐに帰ってきた。その時彼は、いたの?とも形だけの挨拶も言わないで、少しだけ唇を曲げる。
あたしとメローネはたくさん話して、あたしはたくさんのことを知った。あたしとメローネの関係は"似たもの同士"の"傷の舐め合い"と言うらしい。
そう教えてくれた声があんまりにも平坦だったから、その言葉の意味が悪い意味なのかいい意味なのか分からなかった。舐め合いというくらいだから、ちょっぴりは仲良しになれたと思っていいのだろうか。
少なくとも、家にも学校にも居場所のないあたしにとって、メローネの傍は、唯一しあわせな場所だった。
「赤い髪の毛なのはね……お母さんの、お腹を裂いて、その時にいっぱい血を浴びたからなんだって」
今日も立派な画集を捲るメローネの横、彼が淹れてくれたホットショコラを、ソファの上で膝を抱えながら飲んでいた。
「……君の父親ってさァ、魔女狩りとかの時代の人?」
「魔女、狩り?」
「別にいいけど。……髪の色、どうなの?」
「え?」
「君の父親と母親の話」
「えっと……お母さんは、ブリュネット(栗毛色)で……お父さんは……確か……」
「ああいい、いい。そういうの、あんま関係ないんだよね。特に赤毛って劣性遺伝だし」
「レッセイイデン?」
「珍しい、ってこと。でも血で染まったなんて嘘も大嘘! あり得るわけないぜ」
「でも……」
「君、俺と父親どっちを信じるわけ?」
そんなことは、悩む必要もない。決まっていることだ。
「メローネ」
真っ直ぐ目を見て告げれば、メローネは珍しく満足そうにすみれ色の瞳を細める。
メローネはそうやって、あたしの心のなかでこんがらがっていた糸を一本一本解いていってくれた。
こんなこともあった。あたしが父親に殴られて頬を真っ青にしていた日。メローネは何も言わずに真っ白なハンカチを濡らして、あたしの頬を冷やしてくれた。
そして彼の膝の上に頭を乗せて寝転がるあたしに、本を開いて見せる。
「これは知ってる?」
首の長くて黄色い動物を指差して、メローネは目を合わせてきた。あたしは少し頬をむくれさせる。いくらなんでも馬鹿にしすぎじゃあないだろうかと、珍しく腹が立ったのだ。
「キリン」
「ベネ! それじゃあこれは?」
つい吐き捨てるようになった声の調子を気にもかけず、メローネはあたしの髪を褒めるように撫でた。メローネは時々、この国以外の言葉で話す。
次に指さされたのは、白と黒がまるで塗り分けられたようにはっきりと別れている動物だった。丸々としたフォルムは確かに愛らしいのだろうけど、黒くぬりつぶされた目元で光る瞳は肉食動物のそれだ。
これは知らない。
そう言えるようになったのも、メローネのお陰だ。知らないことは恥ずかしいことじゃなくて、知ろうとしないのが恥ずかしいことなのだそうだ。けど無知が罪でないのかと言うとまた別でーーと、ここからはよくわからなかった。また今度、それについては教えてもらう予定だ。
「これは、パンダ。シーナの動物。笹を馬鹿みたいに食べる動物で、その癖、他の国に貸し出しされる時は馬鹿みたいな値段がつくんだ」
シーナ、とはどこだったろうか。思い出そうと頭を捻っていると、メローネは一旦図鑑を閉じて、一番最後のページを開いた。そこには世界地図が書かれていて、メローネはここだと大きな国を指差した。
「へぇ……パンダは、売るんじゃあなくて貸すだけなの?」
「どうだろうな。売ったり買ったり貸したり返したりなんじゃあないのか」
「なんか、変なの」
そうだなと気のない相槌を打つメローネの目は、どこか夢見がちな視線で地図をなぞる。あたしはそういう顔をするメローネを見ているのが好きで、それでいてなんでだか胸がきゅうっとなった。
そのままぼんやりと彼の横顔を眺めていると、ある一点に視線が定まった。少し体を起こして手元を覗き込めば、彼の瞳は長靴に似た形の国を、真剣にみつめていた。
「ここは、どこ?」
「イタリア」
「メローネはここに行きたいの?」
「フランスにもたくさん美術館はあるけど、俺が見たいものはここの方が多いかもなァ」
「見たいもの?」
「フィレンツェに飾られてる……なんて言ったかな。まァ、なんとかって言う絵が見たい」
「見たいのになんとかなの? それじゃあ見ても見たかったものかわからないよ」
「分かるんだよ。一目見れば、欲しかったものっていうのは、すぐに分かる」
そう呟いた言葉はひとりごとによく似ていて、殴られた頬なんかよりもずっと胸が痛かった。でも嬉しかった。
父親を憎いと思う気持ちよりもずっと、あたしはメローネのことが好きなんだと、なにかに証明出来た気がしたから。
メローネは苦しみを解いてくれた。メローネは痛みを忘れさせてくれた。
メローネは、あたしの傍にいてくれた。
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