母を殺して
いわく、あたしは母の腹を裂いて生まれてきたらしい。
だからあたしの髪は血のように赤く、だからあたしは父に恨まれていて、だからあたしが殴られるのはトウゼンなのだそうだ。
生まれて十年、毎日のように繰り返されれば、いくらバカなあたしでも覚えることが出来た。
そして今日も今日とて盛大に蹴られ投げられ家を追い出されたあたしは、いつものようにドアの前でしゃがみこんでいた。
「母殺しのナマエって、君?」
すると冷えた手を擦っていたあたしの顔を、ブシツケに覗きこむ存在が現れた。
なにそれ、変なの。
「だよなァ、サイコーなセンス!」
その子はキレイなハニーブロンドを楽しげに掻きあげて、そのくせ無表情だった。
同い年くらいだろうか。でも学校にいる子たちとは違う。汚れ一つないシャツと、なまり一つないキレイなフランス語、キレイなすみれ色の瞳には気品というものが備わっていた。
返事をしないままでいると、傷一つない手があたしのあかぎれだらけの手を引いた。
なんだかすごく恥ずかしかった。
「体弱かったんだって?」
主語のない問いかけに、そうだよと小さな声で答える。話の流れとして母さんのことを言っているのだろう。さすがにそれくらいはわかった。
宵闇に覆われた通りでは、蝶のようなドレスの女の人が酒焼けしてざらついた、それでいて甘い声で男の人を誘っている。
「子供生んだくらいで死んじまうなら、最初っから中出しなんかしなきゃあいいんだよ。君もそう思わない?」
この子には似合わない町だな、と思う。
中出しの意味がよくわからないまま、あたしは頷いた。
それからしばらく返事がなくて、だんだんと不安になってきた。しかし、そういえば男の子は私の前を歩いているのだから、黙って頷いても伝わるわけがないのだ。
また、恥ずかしくなる。
そうしてチンモクのまま、あたしと男の子は夜を歩いた。なんの考えもなしに付いてきてしまったけれど、これからどこへいくのだろう。
「ここ」
まるであたしの頭の中が見えるかのようなタイミングで、男の子は口を開いた。
市のあるような大通りから一つ脇道に逸れて、さらに奥まった場所の路地裏。そこにぽつんとある扉は、ブーツの足跡やなにかで殴ったような凹みがたくさんある。表の通りはやはり娼館通りだ。
男の子は、すでに半分くらい開いていた扉を押した。手を引かれるまま中に入れば、そこは倉庫のようだった。ひどく、埃っぽい匂いがする。
床の上にはごちゃごちゃと色んなものが散らばっていたけれど、男の子はためらいなくその色々を踏んで、部屋の一番奥にあるソファに腰を下ろした。あたしはどうすればいいのか分からず目をきょろきょろとさせる。すると、男の子は軽く手招きをした。
「――それとも避妊具つけててもデキちゃったってやつかな? だとしたらとんだアンラッキー」
緊張しながら隣に座ると、再び先ほどの会話がはじまった。あたしはやっぱり避妊具の意味がわからず、曖昧に首を振る。
けれど、アンラッキーだということは確かだろう。父はいつも不幸だ、俺は不幸だと呟いていた。
「あ、知らない? えっとねェー」
バカだと思われてしまっただろうか。男の子の声にアザケるような色はないけれど、あたしの心臓は少しだけ速まった。
ごさごそとポケットを探ってから、男の子は包装されたチョコレートに似た包みをあたしに見せる。
「これこれ。これ使うとさ、子供出来ないんだって。100%じゃあ、ないらしいけど」
小さな小さなそれに、どうしてかあたしは涙が出そうになった。俯いてそれを直視出来ないでいると「ねぇ、」と少し苛立ったような声で呼びかけられる。
怒らせた!
心臓が一際大きく嫌な感じに跳ねるのと同時に顔を上げれば、強い力でソファに倒された。男の子はキレイな顔に不釣合いな力であたしの肩を抑え、上に覆いかぶさってくる。
何が起きたんだろう。
「試してみようか」
なんだか泣きそうなのはあたしなのに、どうしてか男の子も泣きそうな目をしているように見えた。
「なんで、君に声かけたと思う? 別に誰でもよかったんだけどさァ、調度良い所にいたし、同い年くらいだったし、寂しそうだったから簡単そうだったし、それに、それから……君の髪の色、嫌いじゃあないぜ」
これも、カンタンなところだろうか。あたしは堪えていた涙が一気に引っ込んでいくのを感じた。その代わりに、引っ込んだ熱い涙が胸と胸の間にじんわりと広がる。
「なにその顔」
よほど間の抜けた顔をしていたのか、男の子の赤い唇は笑った時とも怒った時とも違う、なんとも形容しがたい形を象った。背中に当たる真っ白なソファは思うよりふわふわだし、目の前の男の子は絵みたいな表情だしで、あたしは雲の上で寝っ転がって天使に顔を覗きこまれているような気分になった。
「……あたしもね、あなたの髪の毛の色……好きだよ」
天使の髪に手をのばす。
嫌がられるかなと考えると少しドキドキしたけど、そんなことはなく、いっそ呆気無いほど手からサラサラとした感触が伝わった。
「美味しそうねぇ」
彼は子供が出来ない道具を使って、あたしと何を試してみるつもりなんだろうか。もしかして、もしかするのかな。
男の子は男の子で、あたしの髪の色が好きだと言ってくれた。あたしも日にかざした蜂蜜みたいな色は好きだ。それなら……とわくわくとしていると、そんな期待も「白けた」と男の子があたしの上から下りると同時に、あっという間に砕け散ってしまった。
「……そろそろ、帰らなきゃ」
あたしはがっくりと肩を落として、気が重いまま立ち上がる。
「……また、来れば?」
男の子はぶっきらぼうに言った。あたしはそれに首を横に振る。
するとすみれ色の目が、みるみるいっぱいに開かれた。
「なんで?」
「……道、わかんない……」
今度こそ、絶対に呆れられた。顔に火がついたように熱くなる。けれど男の子は、くしゃりと顔を歪ませて、
「それじゃあ、迎えにいくよ」
そう、言ってくれた。
言葉通り、彼は次の夜も家の前でしゃがんでいたあたしの手を引いた。
「あ、の!」
その道の途中、あたしは思い切って口を開いた。
握られた手から、ドキドキが伝わってしまわないか心配になる。
「なに?」
「あなた……名前、なんていうの?」
気のせいかもしれないけど、男の子の手からも早い鼓動が聞こえた気がした。彼はメローネ、と聞き取れるギリギリの声で答える。
それから「君は?」とわざと興味がなさそうに問われるので、どうしてか私も、小さな声で自分の名前を呟いた。
「ナマエ」
確かめるようになぞられたそれは、いつもより特別なものに思えた。
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