中編
il primo capitolo


 私は空っぽだった。喜ばしいことも悲しいことも、私には全て絵本の上の出来事のようで――母が亡くなっても泣けなかった時、私は自分の中の空洞を理解した。
 必要なものはわかっても、欲しいものはわからなかった。痛いことはわかっても、辛いことはわからなかった。そのぽっかりと開いた空白を埋めるように、私は『友人』を頭の中でいくつも作った。そしてその隙間に、『知識』と呼ばれるもの詰め込んだ。空白の友人に詰め込むのは空白と、数少ない人とのふれあいで手に入れた体温と、本から得た知識。けれど、それはいつまでも空白と知識のままで、私に歓びや実感を与えてはくれなかった。当たり前だ。空白と空白と空白でできた人形が、なんの役に立つというのだろう。

 幸か不幸か――空白も、人の体温も、ページを捲る時の紙の感触も、全て私には同じものだった。
 そんな私だったから、心をひらいてくれる人が現れても、その期待に答えることが出来なかった。空っぽなのだから、ひらいたところで何もない。そもそもひらく扉がないのに、私は何を彼女たちに見せたというのだろう。ナポリの小さな本屋の娘として生まれた私は、そのまま本に囲まれて成長していった。

「本屋の私が言うのもなんだが、たまには外に出たほうがいいんじゃあないか?」

 そう笑った父も、二年前、交通事故で亡くなった。
 そんな数少ない外出の中、私はあの人と出会った。彼は丁寧にものを見る人で、彼の言葉はそのものの輪郭なぞるように発せられた。私とは正反対の、常に何かが溢れ出しそうで、一滴でも雫を垂らされたらその何かがこぼれてしまいそうだった。
 ――彼との出会いは、市外の本屋で。

「大体よォ!」

 叫ぶような青年の声が、静かな店内に響き渡った。それは丁度となりの棚を見ていた私が、彼のいる方向を向いた瞬間だった。彼とその連れの男性は、一冊の見覚えのある絵本を手にしていた。
 淡いミントグリーンのキリンが表紙のあれは、私がこの間かいたばかりのものだ。ことわざを主題にした絵本。

 父親が亡くなってから収入がなくなってしまった私に、父の友人が新しい仕事として紹介してくれた。子供向けのレーベルで出した、『白い猫の絵本』が一冊目。思うよりもそれは大人にも受け入れられたらしく、日々を過ごすだけのお金を手に入れることができるようになった。最近では、『空白』を埋める絵本という言葉が書かれた帯を付けられて、売られているらしい。私の空白で出来た空白の絵本は、本当に私以外のそれを埋めているのだろうか。

「スープと呼べなければ浸したパンっていうけどよォ!大分違うよなァ!スープは液体だけど浸したパンっつったらそれはもう個体だろ?意味が分かんないぜ〜ッ!」

 Se non è zuppa è pan bagnato.言葉通り、スープもそれに浸したパンも、大した変わりはないと思うのだけれど。確か、このことわざが出来た頃はパンが皿代わりだったはずだ。
 口に出さない言葉が届くはずもなく、目の前の青年は爆発したように怒り続ける。

「大体よぉッ! 五十歩百歩じゃ二倍も差があるじゃあねぇか!二倍だぜ二倍! 随分と雑じゃあねぇか! むかつくぜ〜〜〜ッ! そういう適当な考えってよォ!」

「そのことわざも五十歩百歩も、『程度の差はあれど本質は同じ』って意味よ」

 急に声を掛けてきた女――私を、青年は睨みつけるようにして顔を持ち上げた。近づいてみると彼はすこしばかり小柄で、目線は私のほぼ直線上にあった。どうして話しかけたのかはわからない。
 彼の質問の答えを知っていた。それだけだ。

「あ゛ァ゛!? なんだテメェ〜〜ッ!」

「どれだけ差があっても、逃げたことには代わりがないもの」

 私の言葉に彼は目を何度かぱちくりとさせて、へぇ、と呟いた。いつの間にかご友人の姿はない。

「食っちまえば一緒ってことかァ?じゃあよ、じゃあよ!」

 物怖じしない瞳。向こうからすれば私もそうなのだろうか。私のかいた本を捲っては、目を綻ばせ、そして時に眉を吊り上げては、色々な『言葉』についての質問を投げかけてくる。私が一つそれに答えると、どこから見つけてきたのかまた一つ、質問が帰ってきた。
 暫くの間、そうやって話を続けていると、

「悪魔は鍋だけ作ってふたは作らねェのか!? 悪魔には蒸し焼きっつー概念はねェのかよ!?」

「それは――」

「ギアッチョ、そろそろ行こう。いつまでも道草食ってると面倒なことになるぜ」

 さきほどの男性が店の紙袋を抱えて戻ってきた。

「道草ってのはよ〜〜〜」

「食べるのは、馬よ」

「馬かよ!」
 
 ギアッチョ五月蝿い、と表情を変えない金髪の男性はそのまま、こちらに一瞥をよこして、

「バンビーナ。騒がしくして、すまなかったな。もしも次会うことがあったら、なにかごちそうさせてくれよ」

 そう言った彼とは二度と会うことはなかったけれど、もう一人の青年とは、また再び会うことになった。
 それが、『あの人』だ。
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