中編
化け物

「中佐は子どものとき、なんて言って脅かされたっスか?」

 ロシナンテは、ふと部下の言葉を思い出す。
 酒の席での与太話だ。
 彼と兄は、「行儀の悪い子は『D』が食べに来る」。そう諌められて育った。海軍で働くうちに、それがとある血筋であることを知った。
 話題の発端である部下の島では「悪いことをすると『黒衣の笛吹き』がパパとママを殺しにやってくる」というのが定型文であったそうだ。随分と空恐ろしい響きだ。逆に、大人たちの暗黙の了解として「普段おとなしい子がはしゃいでいたら、『黒衣』に気をつけろ」。そんなものが、あったらしい。
 聞くと、ノースブルー出身の若い海兵たちは口を同じくして『黒衣』という言葉を発した。



「どうしたんだ、コラソンさま」

 目の前の女が、血のように赤い唇を綻ばせる。
 厄災が笑っている。

「そんなにぼーっとしてると、またコートを焦がすぞ」

 こちらの喉元をくすぐるようなくすくすという笑い声を上げて、彼女はロシナンテの煙草を奪った。
 彼はなにも返さずに新しい煙草に火をつけて、再び女、ナマエの顔を睨みつける。

 二人の乗る海賊船は穏やかな海域に入ったらしく、ほとんど揺れることはない。ただ、ナマエの瞳だけは窓から差し込む細やかな光の動きに合わせて、ゆらゆらとゆらぎ続けている。
 悪酔いしてしまいそうな瞳だ。
 ロシナンテは、彼女と目を合わせるたびに思った。サングラス越しでさえ吐き気がした。

「そんな怖い顔でみないでくれよ。怖いな」

 そう嘯くこの女が、『黒衣』と呼ばれる厄災だと彼が知ったのは、ほんの数時間前ことだ。為す術もなく燃え落ちていく町が、網膜に焼き付いて離れない。
 彼の兄、ドフラミンゴは突発的な暴力で国を破壊しようとはしなかった。彼は理性を失っておらず、いつだって入念な計画をもって、凄惨な地獄を作り出す。
 それだけに、事前に海軍へ情報を流すことが可能だ。

 けれどこの女は違う。
 意味もなく人を殺し、つじつま合わせに島を破壊する。

「ん、ご機嫌が優れないみたいだな」

 返事のないロシナンテを構うのにも飽きたのか、ナマエはぽんぽんと彼の頭を撫でて、部屋を出ていった。黒いドレスの裾が翻る。
 ――ロシナンテに触れる手も、まなざしも、『あの頃』と何も変わらないというのに。
 それでも彼は、こみ上げる憎悪と吐き気につよく顔を顰めた。



 ロシナンテとナマエの付き合いは長くて短い。
 出会いは二人が6歳のときだ。母を失った悲しみにくれ、それでも生きる為にと、兄とともにゴミを漁りつづけた。
 その頃の兄弟は泣き疲れ、自分たち以外の全てのものが敵に見えた。
 もちろん突然現れたナマエに心を開くわけもなく、とくに兄は彼女にきつく当たった。うさを晴らすようにナマエを殴りつけることもあった。それでも彼女は、二人から離れようとしなかった。

「きみたちの父君には恩がある。私はきみたちと――……いや私は、きみたちの『メイド』だ」

 そう言って辛抱強く、まだ幼い体で兄弟二人を支えようとしてくれた。
 彼女は強く、明るかった。いつも笑顔で、眠れずに途方くれるロシナンテの背を撫でた。ロシナンテの兄、ドフラミンゴが父親を殺す瞬間も、彼女は目をそらさなかった。
 年数にしてほんの二年たらずだが、ロシナンテにとって彼女はかえがえのない存在になっていた。

 再会はそれから14年後。
 センゴクに拾われたロシナンテが、兄の凶行を止めるために潜入した海賊団に、彼女はいた。
 昔と同じようにドフラミンゴに寄り添い、いまだ『メイド』だと名乗ることをやめていなかった。
 相変わらず微笑みをたたえる唇には、紅がひかれるようになっていた。



「話は変わるんだがな、お前のとこの息子は可愛いな。最近よく遊ぶようになって...私をみると頬を赤くして駆け寄ってくるんだ」

 今日もナマエはその赤い唇から、紫煙を吐くように、弱い者にだけ効く毒をばらまいていく。そうして誰かの一番大切なものに取り入っては、気まぐれに島に絶望の種を植え付ける。

 ――破戒の申し子どもめ!
 ロシナンテは心の中で叫び続ける。
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