人がものを食べる姿というのは官能的だ。
その料理が自分の作ったものならば尚いい。相手が愛しい人であれば最上だ。 ナマエの三人目の恋人である女性は見事なゴールデンブロンドにブルーアイの美しい女性だった。特に食事を取る時に軽く伏せられる長く色の薄い睫毛が、ナマエはとても好きだった。
はじめは手料理を振る舞うだけで、彼の心は満たされていた。美味しい!と彼女の白い頬に赤みがさす瞬間が、ナマエに取って最も幸福な瞬間だった。
しかし、人間は刺激に慣れてしまう生き物だ。
もっと、彼女に味わって欲しい。
もっと、深く、深く自分を愛して、また自分も彼女を愛したい。
発端はそんなありふれた感情だった。
その結果の暴挙が、彼は自分の頬肉をシチューにして恋人に食べさせた。そして当然のように彼女を食材として、フルコースを作った。
彼女の青い瞳をホワイトリカーで漬けた食前酒を飲み干したところで、異臭を感じて通報した隣人の懸命さにより逮捕される。
これが囚人番号 MA-27045ナマエ・ミョウジの来歴だ。懲役は十五年。
歪んだ自己愛から行われた悲惨な猟奇殺人だと、随分とセンセーショナルに報道された。しかしそれは真実ではない。もしかしたらナマエ本人が認識しない無意識下では真なのかもしれないが、彼は自分は法と欲望の折り合いがつけられなくなっただけだと思っている。
そんな異常すぎるほど正常な彼は収容されて一年目、不思議な力に目覚めた。
『レストラン・カドリール』。
それが彼の能力の名前だ。
今日も、彼好みの味わい深い客人がやってくる。
チーク材のドアに取り付けたベルが、密やかに鳴った。ナマエは磨いていたシルバーから、入り口へと目をやった。
そこに立っていたのは、襟ぐりの大きく開いたカットソーを着た褐色の男性だった。
「いらっしゃい」
今まで訪れた客たちとはどこか違う。囚人特有の気を張りすぎてどこか荒んだ様子も、諦めたような濁りも見当たらなかった。かと言って、看守にも似ていない。
一体なにものだろうか。ナマエは不躾にならない程度に観察しながら、シルバーをまとめて清潔なナプキンに包んだ。
それでも、客は客だ。物珍しさに動きが遅れたが、それまでしてきたのと同じように、ナマエは二人がけのテーブルの側に立って椅子を引いた。
客人、プッチはしばらく信じられないというように辺りを見渡してから――当然のことだ。刑務所に、無認可のレストランなんてあってはならない。――よく磨かれ艶を持ったバーカウンターに手を掛ける。
「ああ、君も『そう』なのか」
そして深みのある滑らかな声を、嘆息と共にゆっくりと吐き出した。
「そうがどうなのかわからない。ここは俺の店で、お前は客だ」
ナマエは粗雑な口調に似合わない、洗練された一礼をして、
「ようこそ、レストラン『カドリール』へ」
屈託なく笑った。
営業用のそれではなく、気に入った相手にだけ見せる純粋な、少年のような笑顔だ。
当然ながらプッチはそんなものに絆されることなく、警戒も解かない。それでも示された椅子へ、静かに腰を下ろした。スタンドを出そうとしても出来なかったからだ。
「さあ、お前は何が食べたい?」
それこそがナマエの能力。
『レストラン・カドリール』。破壊力を一切持たない、ただ『食事』を取らせる為だけのスタンドだ。
見た目は町にひとつはある何の変哲もないレストランだが、ここへはスタンド使いしか訪れることが出来ない。そして、ナマエに出された料理を食べ尽くすまで、外にでることは叶わないのだ。
他に変わっている点があるとすれば、食材。
「……なんだ、これは」
卓上に乗せられたメニューを開いて、プッチは困惑したように口角を持ち上げた。
「形なきものに形を。香りなきものに香りを。味なきものに味を。全てのものを食材に」
美しいモスグリーンのインクで綴られた、出来の悪い詩のような品書き。
同じ文章を、ナマエはスラスラと読み上げた。どちらかと言うと、彼の楽しそうな表情と相まって、歌っていると言ったほうが適当だ。
「ここでは何だって飲めるし、何だって食える。「ほお」喜び、悲しみ、あの日の記憶!「嘘だろう?」嘘なもんか! 雪だって雲だって、ママの香水の匂いだって! お前はパンケーキよりパンケーキの香りの方が美味そうだと思った経験は?「ないな」 あらん。でもまあとにかく、俺の手にかかればなんでも食材だ! チャイニーズだって机は食えねえだろうが、俺ならステーキにだってシチューにだって出来る。「信じられないな」疑り深いんだな。食ってみればわかるさ。「そうだな」ただ現金はおすすめしない。手間がかかる割にあんまりうまくねえ! ま、ドル紙幣よりはユーロの方がまだ味があるけどよ」
まくし立てられる言葉に、プッチはいちいち相槌を打つ。ナマエはそれに気をよくし、ますます滑らかに口を動かしながら、手際よくレモン入りのミネラルウォーターをグラスに入れ彼の前に置いた。
「随分と変わっているね、ここは」
「これはただの水だから、警戒しないでいいぜ」
そして、じっと目を合わせてから悪戯っぽく片目を閉じる。
「ああ、いただくよ」
プッチは嫌味のない気障な動作を小さく笑って、よく磨かれたグラスを口元に運んだ。
一瞬、彼の鼻がひくついたのを見て、ナマエは恋人にはじめて手料理を振る舞った時のような高揚感を覚える。警戒しながらミルクを舐める野良猫のようで、妙に愛しく思ってしまうのだ。
「変な匂いでもしたか?」
「いや、すまない。私は、どうにも、臆病でよくない」
ナマエは正常だ。正常な精神を持った彼は、普通は雲も紙幣も食べることは出来ないと分かっている。うろたえる客の気持ちも理解できている。
「いきなりこんなところでこんなこと言われたらそうもなるだろ。でも俺はお前の言うところの『そう』だからこうできちゃうワケ」
だからこそ訝しげなプッチの視線を真正面から見据え、指示語ばかりの冗談めいた説明をする。
信じてもらうには、食べてもらうしかない。
一方、客人は客人で、この状況を少しだけだが楽しんでもいた。
思えば、『死んでしまった』友人とも似たような話をした。通常の食事をしなくなったあの友人は、聖書にある天国での食事というものを気にかけていたのだ。
彼はここまで溌剌としていなかったが、このような気安い会話を懐かしく思わないといえば嘘になる。
「なるほどね。スタンドというのは、随分と種類があるものだ」
「『そう』なるにはスタンド? それが必要なのか?」
ナマエはそうとだけ言い残して、キッチンへと引っ込んでいった。何を出すのか決まったのだろうか、とプッチは少しだけ期待している自分に気付く。
残された彼はすることもないので、白いテーブルクロスに肘をついて、メニューをもう一度手に取った。やや紫寄りの赤色をした表紙に『Quadrille』と箔押しがされている。三つ折のそれを開くと、やはりあの一文。
――もしも本当にこれだけの能力であるなら、最弱のスタンド候補にいれてもいい。
そんな考えを、プッチはすぐさま自嘲気味に笑い飛ばした。もう話す相手もいないというのに、彼は時折まだあの友人が生きているのではないかと錯覚する。
うまいとも下手とも言えないモスグリーンの文字を指先でなぞっていると、目の前にあるキッチンからは包丁の軽快なリズムが届きはじめた。ここは、静かすぎる。
BGMがないどころか、外の喧騒さえ聞こえない。まるで別世界だな、とプッチは思う。
入り口の扉に視線をやるも、やはり特別な仕掛けは見つけられない。
「料理食うまで、出してやりたいのはやまやまなんだけど、出してやれないんだなァこれが」
代わりにナマエが、リーフ型の長皿とシャンパングラスを手にキッチンから出てきた。
「喪失のラウダーテ・ドミヌムのカルパッチョ、ってだけじゃあ楽しくないだろ? 口直しにパワーコードのピクルス。飲み物は悩んだんだが、自己紹介も兼ねて俺の好きな曲を」
流れるような動作でそれをテーブルに並べる。口上は奇妙だが、料理は見事だ。
淡い桃色をした――これこそがラウダーテ・ドミヌム。モーツァルトが紡いだ美しい旋律――の薄切りは白い皿が透けるほど繊細に切られている。その上には真っ白な玉ねぎの千切り。慎み深くも鮮やかなエバーグリーンのバジルソース。散らばる香草とスライスされた完熟トマト。目だけではなく、微かな酸味を帯びた香りがプッチの鼻先をもくすぐった。添えられているのは、よくよく磨かれたオリーブに似た符頭。これを五線譜の正しい位置に置けば、パワーコードとなるのだ。
グラスの中にはピンク・グレープフルーツのジュースによく似たドリンク。違いは、細やかな気泡が後から後から湧き上がっている点だ。名前を尋ねられれば、ナマエはラ・パストラーレ(羊飼いの少女)と答えただろう。
「お前はこれを食べきらなくっちゃあならない」
実際のところ、プッチは質問を投げかけはしなかった。
ただ、「どんなものが出されるのかと思ったが、想像よりずっとまともで安心したよ」と、子どもにプレゼントを贈ったばかりの父親のようなナマエの瞳を見上げるだけ。
「はやく、食ってくれよ」
今度は告白の返事を待つ少年のような焦れた笑顔に。
くるくると変わるナマエの表情をつぶさに観察した結果、プッチはそこに悪意や虚偽は見つけられなかった。しかしあと一歩、出された料理に手をつけるには決定打が欠けていた。
煮え切らないプッチの態度に、頬を膨らませ眉根を寄せるナマエ。
「……食ってくんなきゃ信じてもらえないのに、食ってもらうには信頼が必要……って、どん詰まりじゃあねえか」
彼は空いている椅子にどかりと腰を下ろして、頭を抱えた。
正常な彼は頭脳も正常で、いつ命を狙われてもおかしくない立場にいる人間を説得する方法なぞ考えたこともない。普段使わない部分の脳味噌を軋ませながら悩むが、その間にも刻一刻とカルパッチョはぬるくなっていく。
「値段は、五ドル」
「随分と安いな。逆にあやしい」
片やプッチは、やはり少しだけこの状況を楽しんでいた。
「意地悪いなァ、お前。俺が食ってみせたってダメなんだろ?」
「スタンド能力で私を操ろうとしているのなら、毒味はなんの証明にもならないだろう?」
「しねぇよ、ンなことォ――」
ナマエは散々悩んでから顔を持ち上げた、瞬間、彼が自分をからかっていることを把握する。
ナマエの唇が、はっきりへの字に歪んだ。
「はやく食え」
「そうだな、いただくとしようか」
食べさせるだけなら無理やりにでも口に突っ込んでしまえばいい。それをしないということは、自らの意志で料理を食べた場合のみ発動するスタンドか、そうでなければ危害を加える気はないということだ。一つ目が正答だとすれば、プッチは先程水を飲んでしまったのだから悔やんでも遅い。
そして何より、プッチは既に目の前の料理に興味を持ってしまっていた。
ラウダーテ・ドミヌムの味。
なんて甘美な響きだろうか。
「たまには叙情や詩情も、悪くない」
開かれた唇の隙間に、フォークと賛美歌が吸い込まれていった。
To be continued