短編置き場
律する隣人(29歳・独身)
俺は今、人生の分岐点に差し掛かっているのかも知れない。
パソコンで企画書を打ちながらも、頭の中は背中にもたれかかる十二歳も年下の少年のことばかり考えている。年下の、しかも幼い頃から俺を純粋に慕う仗助に――父性愛や保護欲、友情以外のものを感じている自分が、嫌で嫌でたまらなかった。
それでも今日ばかりは、会社で草稿まで完成させてきた自分を褒めてやりたい。自己嫌悪に浸りながらも、ほぼ自動でキーを打つ両手に感謝をした。
こんな脳内では、まともに一から文章を考えることは到底出来ない。
「仗助、重い」
なけなしの理性が、声帯を震わせる。俺の本能は「もうちょっとこのままで。むしろ膝に頭を乗せてもいいんだぜ」と叫びに近いものを上げているが無視だ。断固無視だ。
仗助はへへと少し気恥ずかしそうな笑い声を上げて、体を起こした。そのくびれた腰を、今すぐにでも抱き寄せたくなる。俺は両腕を必死でキーボードに縫い付けた。
「ナマエくん……なんか飲むっスか? コーヒーとか」
「大丈夫だ」
むしろ側にいてくれるだけでいい。それだけで飢えも渇きも満たされ、地上には楽園があったんだと信じられる。
「えっと、じゃあなんか甘いもんとかァ」
そうだな、お前の唇とか。
厚めの唇を、まるで俺を誘うように尖らせた弟分は、また無邪気に、今度は抱きつくように後ろから首に腕を回してきた。鼻先をかすめる、ついこの間まで中学生をしていた子どもが付けるには生意気にも思えるブランドものの香水。仗助の家の匂いと混じって、首筋に顔を埋めて肺一杯に吸い込みたくなるような蠱惑的な香りだ。
ああ駄目だ。気付いてしまった煩悩の数は百八じゃ到底足りない。
「ガキが気を使うな。もうすぐ終わるから、そこら辺の雑誌でも読んで大人しく待ってろ」
俺はにやける頬をどうにか苦笑に似せて、肩に乗せられた頭をぽんぽんと撫でる。外ではすっかり大人びたと評判らしいが、俺にとっては体ばかり大きくなってもまだまだ可愛い弟分だ。いや、弟分、だった。仗助とて、こんな邪な視線を向ける男が兄貴分だなんて認めたくないだろう。しかし感情が変化しても、やはり仗助は可愛い。むしろより一層愛らしさに磨きがかかったと言っても過言ではない。
そんな可愛い仗助は再び体を離して、
「うっす。いい子にしてるから、早く構ってくれよなァ〜」
どうしてくれようかこのガキ……ッ!
大体こいつはいつもそうだ。俺はキーを叩き割りそうになる指先を自制しながら一昨日のことを思い出す。その日は、俺に家を譲り今は田舎に隠居した両親からの宅配便が届いた日だ。中には庭で成ったという野菜と、手紙が一通。俺がそれを冷蔵庫にしまっている時に、それは起きた。
「ナマエくんナマエくん」と仗助は声を弾ませ、振り向いた俺に向かって「お嫁さんみてェだろ?」と満面の笑みを見せやがったのだ。茶色い包装紙のベールを被った仗助の可愛さと言ったら殺人級で、責任を取って娶る他選択肢が見当たらなかった。
「へーへー」
俺の気のない(ように聞こえるように必死に抑えた)返事に、やったと小さく声をあげる仗助。あーくそ可愛いなぁマジで。なんなんだよこいつ、天使か? 天使なのか?
心臓が締め付けられるように痛い。俺だって、昔はこんな変態じみた人間じゃあなかった。五歳の頃から俺の後ろをぴよぴよ付いてくるこいつを、ずっと、これまで純粋に大切にしていた。
はじめは母親に年上なのだから、と言われたのもあった。しかし出会った当初こそうっとおしく思えど、すぐにこの純粋で馬鹿みたいに優しい少年を、出来うる限り守ってやりたいと心から思った。
――無意識に、ため息が零れる。それが今や、誰か俺から仗助を守ってくれと願う始末なのだからたまったものではない。
「俺、やっぱり帰った方が……」
深い息は仗助の耳にも届いてしまったらしく、絨毯張りの床に寝転んで雑誌を広げていたそいつは、バツが悪そうにこちらを見上げた。
「うっせえ」
上目遣いは、正直あざといと思う。
無意識なのは分かっている。一メートルと八十センチの体躯を持つ男の上目遣いを、あざといと呼ぶのはおかしいのも、頭では分かっている。
しかし、問答無用で可愛いのだから仕方ないじゃあねえか。「終わったぜ」と呟けば、仗助はぱあっと表情を明るくした。「お疲れ様」と浮かべる笑みは、真夏の太陽よりも眩しい。
く……ッ!
データを保存しながら心の中の嵐が去るのを耐え忍ぶ。すると「なあなあ、」と甘えるような声と共に手が伸ばされた。そして大きな手とは不釣り合いなほど小さく俺の服を引っ張って、仗助は雑誌の一点を指差す。
「これ、かっぴょよくないっスか〜。ナマエくん、こういうの着ねェの
?」
真っ赤な皮のライダースジャケット。袖にスタッズの打たれたそれは俺には少し派手すぎるが、こいつの甘さと精悍さのバランスが絶妙な顔にはよく似合いそうだった。
「俺じゃあなくって、お前が欲しいんだろ。おにーちゃんが買ってやろうか? 高校進学おめでとう、ってな」
動く視線の先を追えば、本心はひどく分かりやすい。どこを見ても最終的にはそのジャケットに目がいっているのだ。アホほど高値なわけじゃあないが、流石に品がいいだけあって一学生の出せる金額じゃあない。社会人でもおいそれと出せる額ではないだろう。
「なんであんたにはいつもバレんだろうな。で、でも! 悪ィよ……なんか催促したみてェだし」
しかし打つ買う呑むのどれもしない俺にとって、仗助へプレゼントを贈ることになんの抵抗もなかった。むしろそれが趣味と言ったところで、喜んだ顔が見られるならなにを賭しても惜しくない。しかも『高校の進学祝い』という名目までばっちりあるのだ。
「だからガキが……ったく、何度も言わせんな。俺とお前の仲だろ。それとも、もう俺のこと兄貴だなんて思えねえか?」
「そんなこと! ……ねえ、けどよぉ」
力一杯の否定に、胸は安堵し、そして軽い痛みを覚える。自分で言っておいてこれなのだからざまあない。
半分八つ当たりで、煮え切らない仗助の額を軽く指先で弾く。
「デモもケドもゲロもいらん。こういうときは、なんて言えって教えた?」
骨が蕩けるくらい甘やかしたい気持ちを普段は必死に堪えているのだから、こういう時にでも発散させなければ、いつの日か爆発してしまうだろう。
「ありがとう、っス」
あ、やばい。爆発する。
へにゃと力の抜けた笑顔。いつもの悪ガキめいた笑顔とも、元気いっぱいな明るい笑顔とも違う。信頼の証にも思える表情に、長くない導火線に火がつきそうだった。
「くひひ、楽しみだぜーッ! あ、ナマエくんはして欲しいこととかないんスか? たまには俺も役に立ちたいつうか」
して、欲しいこと。
やめろ、これ以上俺の心に爆撃するのはやめてくれ。まだまだいいおにーちゃんで居たいんだ。
「……ナマエくん?」
「あー、んと……じゃあ、また飯作ってくれよ。この間の煮物うまかったぜ」
残業から帰ってきた俺を迎える家の灯りと空腹感を呼び戻す食卓の匂い、それとお前のおかえりの一言でどれだけ俺が救われて癒されたことか。
「それじゃあよお、ナマエ兄」
しみじみと感慨に耽っていると、さらりと懐かしい呼び名を口にされた。こいつがこの呼び方をするときは大抵、俺に『最高』と『最悪』のどちらか、もしくは、
「朝飯作るから、今日、泊まっていってもいいっスか?」
その両方を運んでくる。
ああ神様、俺にどうしろっていうんだ!
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