短編置き場


最後の日(0)

 目を覚ますと、ナマエはビールの缶で枯れたパキラに水をやっていた。
 鉢植えの前にしゃがみこむ背中には、虎の縞模様のように背骨が浮かび上がっている。

「知ってるか? 天国では、海の話をするのが流行ってるンだってよ」

 そいつは、どこかで聞いたようなセリフを抑揚なくなぞった。けれど俺は殴られた頬がひどく痛んで、何か返すどころではなかった。唾液でさえ切れた口内に沁みる。それにしてもこいつには、後ろに目でも付いているのか。

 返事を寄越さない俺に苛立ったのか、ナマエは小さく舌打ちをした。まるで何事も無かったような態度だ。昨夜のことを思い出すと小さくない怒りが湧き上がる。散々好き勝手しておいてそれか。もう一度鼻血でも流させてやろうかと拳を固めるが、馬鹿らしくなってやめた。

「お前、いつまで居るつもりだ? 用は済んだだろ。だったらさっさと――」

 代わりにそう吐き捨てる。やはり腹ただしいことに、ぴくとも反応をしない。
 怒りと共に血と酒気が舌に絡みつく。吐き気まではいかずともそれに近い不快感が、喉から上顎をなぞり続けていた。

「映画ではよォ、日が沈む瞬間を見に行くんだ」

 ナマエは俺の言葉をすっかり無視して、すっとぼけた会話を続けようとする。
 それに付き合う気は毛頭ない。こちとら腰も頭も重苦しくて、広くない部屋の端にある冷蔵庫へ向かうのも億劫なのだ。汚れたソファに寝転がったまま「は?」と首を傾ける。ようやくナナシはこちらを振り返って、

「……起きてたのか」

 人間には稀有な、縦長の瞳孔を細めた。
 はじめて見た時と同じ、なにかに飢えたような瞳。

 俺とこいつが出会ったのは、俺にまだ『警官への憧れ』や『正義感』というクソッタレな感情が残っていた頃だ。

 夏もとうに終わり、夜ともなれば涼しいを通り越して寒気さえ覚える季節。非番前の夜に――勿論警官に完全な休暇というものはないのだが――俺は初めて入った給料で、いつもは行かないようなバールに足を向けた。
 ソット・ポルテゴをくぐった先のそこは、裏通りに面していたが客層もそう悪くはなく、店内はそれなりに繁盛していた。仕事終わりの会社員や労働者たちが騒がしかった。しかしそれも、今日もまた一日が終えれたという脱力感に浸る俺には丁度よいものだった。まだ諦めきってはいなかったが、それでも少しづつ明るみになる現実と理想の差に疲れていたのだ。俺はしばらくの間カウンターに背を預け、飲みなれないウォッカを舐めるように飲んでいた。客たちの会話の後ろでひっそり流れるジャズも趣味ではなかったけれど、不思議と心地良く感じられた。
 そう、その時の俺はおかしかったのだ。
 今なら、店に押し入ってきたギャング崩れを取り押さえようなんてことは、きっとしない。
 男、ナマエの叩き割った緑褐色の瓶の欠片が酷く美しかったのを、俺はいつまでも忘れられないだろう。

 そいつは見るからに一人だけ目つきが違った。取り巻き共は我先にとばかりに暴れはじめたが、その男だけはスリーピースのスーツを着た老紳士のテーブルから酒瓶を奪い、店内を見渡しながらゆっくりとそれを呷っていた。俺はそいつの胸ぐらを掴み、有無を言わさず壁に叩きつけた。一対大人数の場合は、真っ先に頭を抑えるのが効率的だと考えたからだ。案の定、他の奴らの手は止まり、視線がこちらに集まってきた。想定外だったのは、衝撃に怯みもせず的確に鳩尾にめり込んだ拳。鈍い痛みにふらつきかけるが、俯く首を抑え男の瞳を睨みつけた。

「手ぇだすなよーみんなぁ。くだらねえ正義感が、猫を殺すとこを見てな」

 獣の目だった。
 虎の目を持つ男は「あれライオンだっけ?」と嘲るように唇を曲げ、左目の傷をひきつらせた。その表情はいやに癪に障って、そいつの体を掴んだまま引き寄せ肺を狙って膝を打ち付けた。 

「ンな言葉、聞いたことがねえなあ。警察だ。これ以上やるっつうなら、ブチ込んでもいいんだぜ」

「おいおい……国家権力様が一般市民をレイプするってかァ? 穏やかじゃあ、ねえ、な」

 さぞ息がしにくくなったことだろう。背を丸めて、それでも屈することなくナナシは嫌な笑みを浮かべた。俺はもう一度、今度は腹を狙って膝を入れた。上がる、男の鈍い呻き。

「口だけは達者だな。さっさと、あいつら連れてお家に帰んな」

「上等、だよ……お巡りさん……ッ!」

 軽く凄んでやるとナマエは手を後ろに回し、背を探りだした。
 こういうアホに持たせるのはやめろと、溜息が零れそうになる。

「脳漿のピンクってよォ、ロマンだよなあぁッ!」

 取り出されたのは、やはり拳銃だった。S&W M66の2.5インチ。セーフティーを外す僅かな時間を狙って、右手を捻り上げた。呆気無くナマエの手からは銃身が離れた。拳銃を持った相手の対処方法は、全身が痣だらけになるほど訓練したものだ。至近距離でなら、尚更。

「オモチャが怖くて警官なんかやれるかよ」

 そこからの展開は早かった。今度は俺がナナシに拳銃を突きつけて、周りのやつらと共に店を出た。そこから携帯で連絡を取って、御用――ってやつだ。迎えに来たパトカーはナマエと他四人を不機嫌そうに留置所へと連れて行った。正直なところ、こんなことで一々しょっ引いていたらあっという間にこの国の檻はいっぱいになってしまうらしい。
 事実、次の日にはやつらは金を払って釈放された。中に一人、議員の息子だか孫だかが混ざっていたらしい。本当にクソッタレな世界だ。

 そしてその日からナマエは俺を見かける度に近付いてきて、意味もなく話しかけてきた。

「あんたに負けてからツレもめっきり減っちゃってよォ。寂しいんだよ、遊べって」

「ふざけるな。ガキはさっさと寝るんだな」

「ガキじゃあねえ……お巡りさんと俺ってそんな変わんなくねえか? いくつだよ」

「この間、二十歳になった」

「俺十九。やっぱ一個差じゃねえか」

 酷くうっとおしかったし警察としての外聞も悪かったが、そうやってじゃれつかれている間はまだマシだった。
 「おいッ! お巡りさんよおぉ!」と路地裏に引きずり込まれたのが2000年6月21日。

「またオメーか……何のようだ、こっちはお前と違って暇じゃあ――」

 俺が汚職に手をかけた日の零時五分前。

「ナマエ・ミョウジって言うんだぜお巡りさん。覚えなくたってえいい。それよりもあんた……ナニやってんだよ」

「なんのことだ?」

「しらばっくれんな。二万か、三万か?」

 裏金を受け取るところを見られてしまっていたらしい。半分自棄になっていた俺は、どうしてこいつがそんなに腹を立てているのか理解しようともせず、黙って財布を取り出した。
 右頬に衝撃を感じた瞬間、脳味噌が揺れた。きつい一発だった。路地裏の壁に手をついて、殴りかかってきた男を眺めた。どうしてか、俺よりも痛くて仕方ないというような顔をしていた。

「こいよ」

 それも一瞬のことだった。
 すぐにまたいつもの退屈そうな顔に戻って、腕を掴んできた。その手を拒絶しようと腕を振れば、ナマエは俺の靴を強く踏み躙った。

「証拠はこっちにあんだぜ。大人しく、ついてこいって」

 そう薄く笑って、俺の体を無理やりデボネアの車内へと押し込んだ。「どこに行くんだ」と尋ても、しばらく返答はなかった。ダッシュボードを蹴り上げて、もう一度質問を繰り返した。

「あんたの家」

 なんでもないことのように表情一つ変えず、ナマエは答えた。

「どうして――」

 知っている。そう叫びそうになる前に、ナマエはこちらに煙草の煙を吹きかけて、

「警官の家の場所なんかはよォ、俺達は113より先に覚えるんだぜ」

 それから――、そこからは、思い出したくもない夜を終えて、今に至る。
 最悪な気分の元凶は微笑み一つ見せず、缶に残った水道水をぶっかけてきた。

「Buon giorno.お巡りさん」

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