短編置き場


愛しい子、話をしよう

 恋をした。
 その昔、床についてばかりの私には、世話になっている医者がいた。この時代には未だ珍しい日本人との混血児の私を、嫌な顔一つせず看てくれていた。その人のいい医者は一人では退屈だろうと、時折自分の娘を話し相手として、私の家に率いてくれた。
 木漏れ日のような金の髪、細く白い首筋。華やかな容貌とは裏腹に照れ屋で、それでいて意思の強い、しばしば想像も出来ないほどお転婆な行動をとっては私を驚かせる少女。彼女は淑女の慎みと、未だ子どもらしいあどけなさに青い瞳を輝かせては、私にたくさんの話をしてくれた。
 エリナは、私の唯一の光だった。

「ナマエ、私、好きな人ができたかもしれないわ」
 
 そんなある日、告げられた突然の出来事に、私は言葉を失った。

「お父様には内緒よ。あなたにだから言ったんだから」

 そう微笑むエリナは見たこともないくらい美しくて、この輝きは私のためのものじゃないということが、痛いほど胸を絞めつけた。けれど、彼女にこんな顔をさせるのだ。相手の男は、とびきり優しい少年なのだろう、とその時の私は思った。事実、その少年は眩しいくらいに真っ直ぐな人間だった。
 それでも、いつか会ってみたい、という言葉は嘘――私がエリナに吐いた、はじめての嘘だった。

 恋をした。はじまりは、ただそれだけだった。

「僕の名前は――」

 ジョナサンと会ったのはそれから何日もしないうちのことだ。エリナが連れてきた少年の立派な体躯は生気に満ち、正義の光彩を放っていた。太陽と希望の匂いがした。そして笑顔だけは、やはり歳相応に幼かった。屈託なく俺に話しかけるジョナサンと、その横でうれしそうに唇を綻ばせるエリナ。
 私の母譲りの黒い髪とは少し違う――珈琲のような深い色の彼の髪はところどころ跳ねていて、エリナが時折ためらいがちに手を伸ばしては、触れる一弾指手前で気持ちを押しとどめていた。気付いているのは、私だけだった。
 それから何度となく三人で話し、窓の外の木々が赤く染まりだした頃。彼女達が私の家を訪れることがなくなった。あの少年とうまくいったのだろうか。私の心を占めたのは寂しさと妬ましさと、ほんの少しの安堵だった。
 もとより、長くは居られない体だ。それに私は一人でいることには慣れていた。この静かな部屋にも。またいずれ慣れることが出来るだろう。そう諦めかけていた。

「お久しぶりね、ナマエ」

 けれど再び、太陽は部屋を照らしだした。

「エリナ」
「少しばたばたしていたの」

 どこか傷を隠すように笑うエリナ。沈めようとしていた思いが、どこを切っても溢れてきそうになった。その時の私の体には、血の代わりに彼女への愛が巡っていた。

「また会えて、嬉しいよ」
「ふふ。お母さまにお邪魔し過ぎだって、怒られちゃったわ。あなたがそう言ってくれるなら安心ね」

 少し腕を伸ばせば、手に入れられるのに――。私はかつてのエリナのように、そう思っては、触れるのを躊躇した。つかの間会わなかっただけなのに、エリナはますます美しい女性に成長していた。横顔に映るカーテンの影さえ、前会った時とは違った。

「ところで、あの子とは最近どうなんだ」
「あのこ?」
「ほら、あの体の大きな、緑の目が綺麗な男の子」

 瞬間、私は自分の失言を悔いた。エリナはできるだけ気丈に振舞おうと、笑顔を作ってみせたが――私は彼女をずっとみつめてきたのだ。どんな小さな仕草も、見逃すことが出来ないほど、エリナを愛していた。

「あのね、ジョナサンは」
「すまない」

 青い瞳が一瞬揺れたと同時に唇を震わせるが、エリナの声は聞こえなかった。

「すまなかった」

 私はもう一度そう言うと、ベッドから起き上がって、彼女の前に跪いた。小さな手の平をとって、額を重ねた。許されるとは思っていなかった。

「ごめんなさい。私――は――」

 許されたいとも、思っていなかった。
 涙を流す彼女を見上げて、私は自分の罪を呪った。彼女の一番の幸せを願えない自分を軽蔑した。それでも私は、確かに彼女の不幸を喜んだ。
 その後のエリナは、何かを忘れようとするように、脇目もふらず医学の勉強に勤しんだ。体を起こせるほどになった私はといえば、彼女と離れたくない一心で、先生の元で働かせてもらうことになった。同じ教本を読み、同じように頭を悩ませる日々。思い返すだけで、胸が張り裂けそうだ。
 私と彼女の間に、私の一方的な思慕以外の恋愛感情はついぞ生まれなかったけれど、私にはエリナの傍に居られるだけで十分だった。密やかに募る思いと、私達の間に積み重なる信頼。それ以外、私にはなにも必要ない。そうして、七年の時が過ぎた――。

「ナマエ、あなたは本当に歳をとらないわね。ジャパニーズの血かしら」
「お前は、綺麗になったな」
「ありがとう」

 エリナは歳を重ねるごとに、花が綻ぶようにますます美しく成長した。豊かな金の髪を掬いあげたいと焦がれたが、誰もそれに触れることがないと考えれば、その熱も静かに収まった。
 時折なにかを思い出すように虚空を見上げるエリナに痛む胸さえ、私には幸福の産物に思えた。そんな、幸せな毎日だった。

「そろそろ、この地を離れようと思う」

 いつか『別れの日』が、来ると知っていても。

「俺は……もう少しの間、ここに居る」
「『エリナ』ちゃん、か?」

 挑発的な目線。父はそう呟いて、赤い液体を煽った。胸ぐらを掴んでこちらも睨みつければ、鼻先で笑われた。

「私は構わないんだがな」

 問題はお前だよ、と仮初の父は言った。そして「おたくの美しいご子息は、いつまでもお可愛らしい。――そう言われたよ」と、嘲笑うように口角を上げた。

「欲しいのなら、奪えばいい」

 愛は惜しみなく与え、惜しみなく奪うものらしい。いっそエリナに、打ち明けてしまおうか。共に、永遠の時を過ごそうと。
 しかしある日、私のぬるま湯のような考えを打ち消すような出来事がおきた。それは病院に運び込まれた急患。館ごと燃えたらしく、その体はひどい有様だった。そんな彼に思うところがあったのか、エリナは献身的に治療を続けた。夜遅くになっても、病室から出てきては氷を運び込んでいった。
 呼び止めて様子を問えば、一刻を争う状態ではあるけれど、回復に向かっている、と強張りきった表情で呟き――、

「名前は、ジョナサン・ジョースターというの」

 血が沸騰するようだった。エリナは私のものだ。エリナは、ずっと私が守ってきたのだ。彼女を泣かせたあの男に、くれてやる気は毛頭ない。彼女が苦しんでいた時、彼女が喜んでいた時、傍にいたのはこの俺だ!そんな私の呪詛は喜ばしいことに届かず、ジョナサン・ジョースターは順調に快方に向かっていった。
 氷のようだったエリナの表情は徐々に溶けていき――七年の空白なんてないように、二人の仲は急速に深まっていった。エリナの手を掴んでいたはずの私の手は、白い薔薇を散らすだけだった。
 エリナ。私の、唯一の光。

「お世話になりました」
「気をつけて――」

 白々しい見送りを終えて部屋に戻った私は、中身を確認もしないで、グラスを一気に傾けた。
 窓の外の煩わしいほど、赤い月。
 そんな夜は今も昔も変わらず、やけに喉が乾いた。私は荒い手つきで、カーテンを引いた。

「月がお嫌いか、ギャルソン?」

 部屋に響いたのは冷たく、甘く、気障な響きだが、それさえよく似合っている……そんな、声だった。いつの間に忍び込んでいたのだろう。いや、しのぶというのはこの自信と余裕に満ちた声の主には似合わなかった。きっと玄関から、きちんと手順を踏んで入り込んだのだろうと思った。

「なんの用だ?」

 振り返らずに言葉を返して、グラスにワインを注いだ。こつりと、靴音が部屋を叩いた。

「同胞に、お目にかかりたいと思ってね」
「お前のような成り上がりの吸血鬼と一緒にしないでもらいたい」

 濃厚な血の匂い。

「純血のヴァンパイアを父に、極東の島国の紫女を母に?」

 すらすらと紡がれる言葉を無視して、男を壁際に叩き付けた。正しくは、母は一介の遊女だ。半吸血鬼。忌まわしい体。成長が着実に遅くなってく苦しみを、誰が分かるというのだろう。
 体の自由が奪われているというのに、男の顔からは余裕は消えなかった。

「菊花の約。青頭巾。しかしどちらかと言えば、その稚児のような顔をしている」

 磨かれた林檎のように赤い唇。暗くてはっきりと分からないが、その男は随分と美しい顔をしていた。「友達になろう」と私を見つめる瞳は、私の嫌いなあの月よりも赤く、赤く、私を支配した。 

「随分ロートルなやり方を好むんだな、ナマエ」

 雪のように白い肌に沈める刃。久しく味わわなかった血の味は舌が蕩けるように甘美で――吸血鬼の躰は太陽のぬくもりを奪ってくれるほど、冷たかった。

「これしか、しらないんだ」

 そうして、私は闇に溶けた。
 一人は星を見て、一人は泥を見た。私は澱みに映る星に、焦がれた。
 それが私の罪だ。
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