17 私と救世主。


※ここから暫く過去編。



名前とは、なんだろうか。


広く無機質な部屋の隅に小さく佇む小鬼に、私はそう問った。
意味はない。
ふと思っただけだった。
すると小さな鬼は、おどおどと目を泳がせ、言葉をつっかえさせながら言ったのだ。


名前とは、個を表すものだと。


それならば、私の名前は『魔王』なのだろう。
皆、私をそう呼ぶし、それ以外に『私』を表すものを、私は知らない。


魔王。


それが私の『名前』だった。
そして私は、独りだった。
人間達は勿論、同族である筈の悪魔共でさえ、私には近付きたがらない。
私の魔力が強大過ぎるが故に近付けないのだと奴らは言うが、そんなものはただの建前だという事を、私は知っている。





「魔王サマー?」



奴は突然やって来た。
人など来る筈もないこの広い屋敷に響く、聞き慣れない声。
こんなにも緊張感の無い声を聞くのは、いつ以来だろう。
私を呼ぶ声はいつだって、怯えと嘲笑と、絶望に塗れているというのに。
そんな事を考えながら、何処か遠くでその声を聞いていれば、前方に見慣れぬ顔が現れた。
人間の男だ。
また、私を倒しに来た『勇者』だろうか。



「居らへんのー?救世主様のお出ましやでー」
「救世主……」



はて、『救世主』とは?
私の存在を歓迎する者など居ない事は、分かっている。
それならばきっと、『勇者』の仲間かその類。
何れにせよ、目の前のこの男は、『魔王を倒す事』を目的としているのだろう。



「ん?君、魔王知らへん?」



どうやらこちらに気付いたらしい男が、歩みを止め、声を掛けてくる。
それもそうだろう。
何しろこの部屋、昼間とは思えぬ程、暗い。
けれど私は、人の血液を喰らうというあの化け物のように、陽の光に耐えられない、という訳ではない。
私の魔力に惹かれて、良くないモノが集まっているだけだ。
しかし、こうも視界が悪くては、声を掛けられるまで気付かなかったとしてもおかしくは、な、い………?
……何故だろう。
この違和感の正体は?
何か忘れている気がする。



「……なんの用だ」
「なんの用って……そら、魔王倒しに来たんやけど」



嗚呼、そうか。
私とした事が、大事なことを忘れていた。
私の魔力は、人間にすら分かってしまうほど強大だと言う事を。
今まで会ったどの人間も、私を前にすれば、そうであると気が付いたのに。
この男には、私の魔力が分からないのだ。
そうだ。
この男は、気付いていない。
私が魔王であるという事に。



「で、魔王サマ呼んで来てくれへんかな」
「私だ」
「…………は?」
「私が魔王だよ。救世主殿」



勇者とは、勇気ある者の事。
救世主とは、世界を救う者。
魔王とは、世界を堕とす者。
何人もの勇者を見てきた私だったが、この時初めて思った。
何の根拠も、脈絡すら無いが、何故だか変な自信だけはあった。
この救世主が望むなら、私は命すら捨てられる、と。


これが、すべての始まりだった。