8ばん、さんそ



「なまえさんはね?大人なのよ」



午後一番の授業は、移動教室だった。
昼休み中、例の如く白石に絡まれ続けた私は、遅れては申し訳無いと、友人には先に行ってもらった。
そうすれば、白石と一緒に移動するはめになるのは、ヤツからしてみれば、必然に近い半決定事項な訳で。
さも当然といった風で、廊下を行く。
そして私が呟いた、独り言のような台詞が、隣を歩く白石に聞こえてしまうのもまた、道理だろう。
……理科室が遠い。



「え、どないしたん?」

「大人ななまえさんは、コーヒーだってブラックで飲めるし、ピーマンだって大好きなのよ。特に肉巻きが」

「……あー、肉巻きなぁ。美味いよなぁ」



一度は驚いた素振りを見せる白石だったが、それを無視して話を進める私に、何を言っても無駄だと悟ったのだろう。
二度目の返事は、随分といい加減なものだった。
けれどそんな事は、どうでもいい。
それよりも少し、ほんの少しだけ気になる事がある。



「まぁ、大人と子どもの境界なんて、随分と曖昧なものだから、コーヒーが飲めたり、ピーマンが好きだったりしたところで、万人が大人だという訳ではないのだけれど」

「なまえさん、なまえさん。喋り方、おかしいで」



普段と違う喋り方ってのは、とても不思議なものだ。
まるで、自分とは全く違う誰かになってしまったかのような感覚に陥る事も、しばしば。
ちなみに、今の私は【大人の女】である。



「とにかく、なまえさんは大人なの。大人だから、廊下でイチャつくかっぽーを見ても、『リア充爆発しろ』なんて、言わないのよ」

「……あー。……」



これだから昼休みは。
ここぞとばかりに廊下で各々戯れる数組の男女は、人目なんて憚らない。
どうやったって視界に入ってしまうそれらを全く気にしないなんて事は、殆ど不可能だ。
四方八方、どの方角を向いても彼らが視界に入るとなれば、残るは上下しかない訳で。
だからといって、彼らのお蔭で上を向くのも、ましてや俯くのも、なんだか癪に障る。
なんで、そこまでしてやらなくちゃならない。
ここで勘違いのないように言っておこう。
何も、彼らが仲良くしているのが、気に入らない訳ではない。



「そもそもかっぽーは、イチャイチャするものだわ。存分にイチャイチャしなさい」

「…せやな!俺となまえもイチャイチャしよか!」



自棄になんか、なっちゃいない。
それで当人達が満足ならば、好きなだけ抱き締め合えばいい。
手だって繋げばいいし、キスもその先も、彼らの自由だ。

隣で白石が、何やら妄想に浸っているようだが、無視する事にしよう。
白石と私が、というのも聞かなかった事にする。
必要以上にヤツに構うと、危険だ。
只ですら、面倒なのに。
少し逸れたが、廊下で戯れる男女の話に戻そう。



「ただ、TPOはわきまえるべきよね」

「せやな!どうする?俺の家来る?いつでもええで!今から来る?早退する?」



また白石が、ふざけた事を言っているが、無視だ無視。
早退なんてしようものなら、皆勤賞じゃなくなるじゃないか。

そもそも、私がこんな話を始めたのも全て、廊下で男の首に腕をまわしたあの女の所為だ。
お前ら、そんなに見せたいなら、見てやるよ!と言わんばかりに、丁度そこにいたカップルをガン見したら、睨まれた。
……私も少し悪かったかもしれない。うん。
しかし、解せぬ。

というか、理科室遠い。



「だいたい……」

「っなまえ!」

「うぎゃ!?」



無いと思ったら、あったパターンのヤツです。はい。

階段を踏み外した私は、両腕に抱えていた化学の教科書やら筆箱やらを放り出し、次に来る衝撃に備え……られる筈もなく、反射的に手摺へと伸ばした手すら、掴むものは何もない。
まぁ、正面から落ちる訳だし、受身くらい取れるだろう。
いつもの事だが、こんな状況ですら、何処か他人事のように考えている自分がいる事に吃驚だ。



「はー……。心臓に悪いわ」


頼むから、前見て歩いてや。



結局受身なんか取れなかった私の視界は今、随分と悪い。
焦点は合わないわ、薄暗いわで、状況把握に苦しむ。
けれど、覚悟していた痛みが無かった事や、額に当たるのが床なんかの硬さとは全く違う事に惚けられる程、鈍くはないつもりだ。
私は今、白石の腕の中にいる。
こうなる前に引っ張られたであろう腕が、少し痛む。



「怪我してへん?」



白石が喋る事で、その振動が私の骨を震わせる。
嗚呼、近い。
以前、背負われた事はあるけれど、正面からとなると、心臓は落ち着いてはいてくれない。
それもあんな、カップル達の話をした後なら、尚の事。
意識するなという方が、無理である。
TPOがどうのと散々批難していた自分が、こんな状況になろうとは。
この状況だけを見れば、私と白石も、睨みつけてきたあの女と大差無い。
不覚、不覚。

はてさて、どうしたものか。
心臓が煩くて敵わない。
忙しく拍動するは、私か、彼か。
その由は、階段から落ちかけた事か。
はたまた、普段と違うこの距離か。

真っ赤に染まっているだろう私の頬は、きっと呼吸し難いこの体勢によるものだ。
そういう事にしておこう。



酸 素 不 充 分



それにしても、階段を踏み外した時の『うぎゃ』ってなんだ。『うぎゃ』って。
猿か、私は。

ん?なんか、白石揺れてないか?
物凄い小刻みに。
しかも、息が頭に当たる。
ん?呼吸が早い?



「……なまえの匂い…ハァハァ……」

「……え?」

「ちいさい、かわいい、やわらかい。あぁ、たべちゃいたい。なまえー…ハァハァ……」

「うぎゃーっ!!」