【10】牡丹に蝶


もし、何もかもを忘れてしまうようになったとして。
たった一つだけ、覚えていられるなら、私は 先生のオムレツの味がいいです。

そう言って 俺のオムレツの味を、覚えるようにゆっくりと食べていたなまえを、俺は今でも覚えている。


思えば 彼女は、一時たりとて忘れたことはなかったのだろう。
俺たちは、最期を共にはできないということを。
なにしろ 俺は、なまえよりもずっと早く死ぬ。
俺も彼女も 天寿を全うしたなら、そうなる筈で、彼女には とうにその覚悟が出来ていた。
そして、彼女のした覚悟が、決して半端なものではないことを、俺は知っている。
彼女の父親が死んだ その時から。
だから 彼女が危惧し 口にする『最後』は、いつだって俺たちが、死以外の何かに引き離される瞬間のことだった。
それは、時として俺の意志であり、この社会の秩序であり、運命や宿命の類で。
そんなものすら、なまえは 受け入れようと苦悩していた。
それを知る俺が 彼女にしてやれるのは、傍に置いてほしいという彼女の願いを、拒絶しないことだけだった。



「だからと言って、これが正解だったなんて思っちゃいないさ」



結果として、俺は なまえを失い、なまえは俺を失った。
この選択に間違いがなかったとは、言わない。
ただ言えるのは、俺にとって なまえは、絶対的に必要な存在ではなかったということだ。
なまえが居ないからといって 俺が日常生活に困ることはないし、居ないのなら居ないで どうにかなる。
それでも、彼女が俺の傍に居ることは 俺にとっても、おそらくは 彼女にとっても、当たり前以外の何でもなかった。
なまえは、俺にとっての『必要』ではなく、あくまで『大切』だった。
正直、もっと良い方法があっただろうという思いは否定できないし、その方法によっては 彼女と離れることもなかったかもしれない。
結局、俺の最期まで なまえを傍に置いてやれなかったことは、最善策を探すことを諦めた俺の落ち度でしかない。



「それでも お前はきっと、俺を責めないんだろうな」



なまえは今頃、どうしているだろうか。
更生施設に入って 数ヶ月が経ったが、未だにこの天井には 見慣れない。
否、慣れたには慣れたが、時折 やはり全く見慣れないという感覚に襲われる。
それは、ここに来てからしばしば見る 彼女と二人で暮らしたあの日々の夢が、 少なからず関わっているのだろう。
彼女はまだ 覚えているだろうか。
俺の作ったオムレツの味を、俺が好きなコーヒーの淹れ方を。
彼女は 自分から進んでコーヒーを飲む人間ではなかったから、もしかしたら忘れてしまっているかもしれない。
人間は、忘れてしまう生き物だ。
それでも なまえが言ったように、もし たった一つだけ確実に忘れないでいられるというのなら、俺は なまえの声がいい。


施設に入ってから二度目の秋が終わる頃、俺は 臨時分析官として再び公安局に協力することになった。