【9】花 散る前の


狡噛が出て行った夜、あの後 俺は自分でも驚く程 よく眠ったらしい。
いつもより少し遅く目覚めた俺は、いつものようにベッドから這い出、いつものように着替える。
ああ、そうだ。
なまえは、どうしただろうか。



「あ。おはようございます、雑賀先生」
「……おはよう」
「今、お呼びしようかと思ってたんです。朝食が出来たので、どうぞ座ってください」



リビングのドアを開けると、ちょうど朝食を作り終えたらしいなまえが こちらに気がついた。
その両手には、湯気の立つ二人分の味噌汁がある。

彼女に言われたように いつもの席でなまえを待つ間、思う。
こうして彼女を待つ朝はもう、幾らもないのだろう、と。
これまで どれだけ彼女と同じものを、向かい合って食べてきたかしれない。
もう どれだけ彼女が淹れてくれたコーヒーを、口にしてきたかしれない。
その日々に満足することはあれど、飽きることはなかった。
一度たりとて、その終わりを望んだことなど なかったというのに。

いつものように 二人揃って手を合わせ、食事を始める。
暫くした頃、なまえが突然 謝罪の言葉を口にした。



「申し訳ありませんでした、先生」
「…どうした?」
「今日は、寝坊してしまいました」



ああ、どうりで 寝坊しても朝食に間に合ったわけだ。
目を伏せながら謝罪するなまえを眺めながら、俺の頭は全く別のことを考えていた。
昨夜は ああ言ったものの、やはり彼女自身、全く気にしていないわけでは ないだろう。
もう 後戻りできない今となっても、俺の中には迷いがあるように。
本当に なまえを巻き込んでもよかったのか、と。
けれど 彼女の口から出たのは、そんなこととは全く無関係な、いつもどおりの一言で、なんだか考えすぎていた自分が馬鹿らしくなってくる。



「俺だって寝坊したんだ。謝る必要はない」
「ふふふっ。そうでしたね」
「今日も旨いな」
「ありがとうございます、先生」



なまえのことだ。
先のことを考えていないなんてことはないだろう。
俺と共に狡噛を見送った先から、おそらくは 彼女自身の死まで、全て考えた上での決断だったはずだ。
俺に出来ることはもう、なまえを信じてやることだけだ。
なまえが選んだ道を否定しないでやることしか、俺には出来ない。



「そうだ、先生。お願いがあるんです」
「ん?なんだ」
「これから毎日、オムレツ 作っていただけませんか?」



俺たちが 離れ離れになるまで、あと数日。
お互い 柄じゃないが、それくらいの『思い出作り』は悪くない。
いや、思い出というよりも、これまで変わらず在り続けた 今にも失いそうなあの日々が、可能な限り続けばいいと思っているだけだ。
思い出なんて、わざわざ作ろうと思って作るものじゃあない。



「そりゃ 構わんが、俺だって お前の味噌汁が飲みたいんだぞ」



お前が 俺の料理を食べたいと思ったように、俺だって お前の料理が食べたい。
これまでずっと そうしてきたように。
正直、当分の間は この件について悶々とするだろうが、せめて上辺だけでも 潔さを装うとするさ。
お前が覚悟を決めたというなら、俺だけ足掻くわけにも いかないだろう?
なあ、なまえ。