いつだって、私の周りには人間がいる。
いるといっても、彼らに喋り掛けるでもなければ、掛けられるでもない。
ただ、通り過ぎていくだけ。
この街は、小さな私には大き過ぎて、時々無性に泣きたくなる。
そして、時に壊してしまいたくなる。
そんな時、決まって彼は私を掬い上げてくれるのだ。
私を呑み込もうとする、この街の夕焼けから。
私が溺れている、この雑踏の中から。
「おい、何やってんだ?」
「……しず、お…」
人通りの多い道の真ん中で立ち止まる私。
不意にどうして自分が此処にいるのか分からなくなった。
自分というモノが分からなくなった。
そして、突然私の目の前に現れたバーテン服の男。
彼は、眉間に皺を寄せ、訝しげな顔で私を見下ろしていた。
その表情は、心配してくれているようにも見えて、ほんの少し嬉しくなる。
「こんな所で止まってたら、潰されるぞ。お前、チビだから」
「……潰されないよ。そこまで小さくないもん」
「………ノミ蟲よりちっせーくせに」
「ノミ蟲って……あぁ、臨也か」
その瞬間、彼のこめかみに血管が浮き出た。
し、しまった。
ヤバい。
頭の中で警笛が鳴る。
この男、絶対暴れ出す。
流石にこの場所はヤバい。
こんな人通りの多い場所は。
「し、静ちゃん、落ち着けっ!!」
「……俺ぁ、言ったよなぁ…」
「ひ、ひとまず、落ち着いて下さい。以後、気をつけますから……っ」
「………二度と俺の前で、アイツの名前を呼ぶんじゃねぇぞ」
「う、うん……」
分かってはいるのだ。
この男の前で、容易に『折原臨也』の名を出してはいけないことは。
そして、何度も言われている。
しかし、それに気をつける事は至極難しい。
私にとっては。
今みたいに、うっかり口にしてしまう事も少なくない。
寧ろ、そんな原因が大半だ。
「ところで、静ちゃんは何で此処にいるの?」
「あぁ?……タバコが切れたから、コンビニだ」
「そっか。いつも言うけど、あんまり吸うと、体に毒だよ?」
「………あぁ…」
彼は、タバコを買う為、コンビニに行く途中だったらしい。
彼の方こそ私より、言っても聞かないと思う。
私が何度、タバコを止めるように言っても、聞かないのだ。
最近では、私も殆ど注意しなくなったくらい。
寧ろ、タバコが可哀相に思えてきた。
まだ吸い始めたばかりのタバコですら、腹を立てたこの男によって地面に叩きつけられ、その靴底で踏み潰されてしまうのだから。
勿体無い。
「………で、お前は何してたんだよ」
「へ?私?」
特に行く所も無くただ歩いていただけなのだから、返事に戸惑う。
何より、臨也の所へ行こうかと少し思ってしまった。
暇つぶしに。
しかし、これは静雄には話せない。
「えーっと……散歩、かな?」
「何で疑問系なんだよ」
「いや、行く宛てもなかったから、暇つぶしに行こうかと」
「………ほぉ…」
「…………そしたら、訳分かんなくなった」
「………またかよ」
そう言って静雄は、溜め息を吐いた。
失礼な奴め。
私だって、好きでこんな事になってる訳じゃない。
どうして、こんな事になったんだろう。
どうして、こんなにも不安になるのだろう。
静雄の言うように、今回みたいな事は、何度もあるし、その度に彼に助けられている。
そして、今回も。
彼が声を掛けてくれたおかげで、さっきよりは楽になった。
けど、まだ駄目だ。
まだ不安定だ。
「……やっぱり、帰ろうかな」
本当は、帰りたくなんかない。
別に、家が嫌いな訳じゃない。
ただ、今はまだ戻りたくないだけ。
あそこにいると、また不安で堪らなくなるから。
「じゃあ、送る」
「えっ!?…い、いいよ!一人で大丈夫だから!!」
本当は、帰るつもりなんてないのだから、送るなんて言われると、困ってしまう。
とにかく、この場から離れたいだけなのだから。
しかし、私がどれだけ断ろうとも、彼は退かない。
「お前、いつもフラフラしてっからな。一人にしとくと、何か起こしそうだ」
「し、失礼なっ!フラフラなんてしてないもん!!」
「ほら、行くぞ」
「え、ちょ、まっ……!?」
静雄は、言い切らないうちに歩き出していた。
私は彼に追いつこうと、少しだけ走った。
彼と私ではリーチが違うのだから、仕方ない。
それでもほんの少しの小走り程度で追いついてしまうのは、彼の優しさなのだ。
沢山傷つけて、沢山傷ついてきた筈なのに、彼はまだ優しくなれる。
こんな私の隣を歩いてくれる。
平和島静雄は、本当に優しい男なのだ。
「なまえ」
「ん?なに?」
「今、何考えてた?」
「へ?」
「ニヤニヤしてたぞ、お前」
「なっ!?ニヤニヤなんてしてないよ!」
「んじゃ、ニマニマだ」
私がふて腐れたような態度をとれば、彼は笑う。
とても綺麗な顔で。
彼がこんなに笑う事は、珍しい。
いや、笑う事自体は珍しくはないのだ。
幽やセルティ、トムさんやサイモンの前でも、彼はそれなりに笑う。
だが、今日は特に機嫌がいい。
何か良い事でもあったのだろうか。
「ねぇ、静雄」
「あぁ?」
「何か良い事でもあった?」
「は?別にねぇけど」
「そうなの?何か機嫌、良さそうだけど」
「……あー………今日は、ノミ蟲に会ってねぇな」
「……静雄の機嫌は、ヤツにかなり左右されるね」
静雄の返事に、苦笑いする私。
あぁ、臨也が羨ましい。
静雄の機嫌をこんなにも左右させられるなんて。
どれだけいがみ合っていても、お互いが気になって仕方ないんだろう、彼らは。
私の機嫌は、全て静雄によって左右されるというのに。
「……臨也、死んでくんないかなぁ」
「なんだよ、いきなり」
「臨也さえいなくなれば、私は幸せになれるのに………多分…」
「………今は、幸せじゃねぇのかよ」
「今は、黒いモヤモヤでいっぱいだよ」
私がそう言うと、彼はまた訝しげな顔をした。
馬鹿か、私は。
こんな風に静雄を困らせたって、ちっとも嬉しくない。
余計、気分が悪くなるだけなのに。
臨也に対して、こんな醜い嫉妬なんかするもんじゃないのに。
「お前はアイツさえいなければ、幸せなんだな」
「え?」
「臨也のヤローは、俺が始末してきてやる。今すぐ」
「ちょ、なんでそういう事になるの!?わざわざ、静雄から喧嘩売りに行くことないでしょ!?」
「………お前が笑えなけりゃ、意味がねぇ」
「……は?」
「俺だけ幸せでも、意味がねぇんだよ。それでお前が笑えるなら、俺は幾らでも臨也を潰しに行く」
あぁ、私の耳は壊れてしまったのだろうか。
この街の騒音によって、壊されてしまったのだろうか。
目の前のバーテン服の男は今、何と言った?
私の為と言っただろうか。
いや、そこまで言わないにしても、近いことは言った。
しかしながら、ここで期待してはいけない。
彼が若干、天然だと言うことを忘れてはいけないのだ。
余計な期待は、しない方がいい。
「別に静雄くんが、そこまでする必要はないんじゃない、かな?」
「……俺がここまでするのは、なまえだけだ。たぶん、幽やトムさんでもしねぇよ」
ほら、君はよく分からない。
それは、私たちが同じ気持ちだと思っても、いいのだろうか。
君の気持ちが、分からない。
でも、私の気持ちは分かっている。
いっそ、君に伝えてしまえば、楽になれるだろうか。
好きだと言ってしまえば。
「………静雄、今までの会話を思い出して」
「は?」
「その上で、どうして私が幸せじゃないのか考えて」
「…………臨也がいるから、だろ?」
「なんで私は、臨也がいなければいいと言ったんだろうね」
「………俺は、なまえが好きだ」
「……は?」
静雄と向かい合えば、彼と交わる視線は逸らせなくなる。
彼の瞳は私を捉える。
サングラス越しだというのに、吸い込まれるような感覚に襲われる。
夕陽に照らされて、いつもより綺麗に見える髪も。
モノトーンのバーテン服も。
彼の全てが、私の時間を止めた。
そんな気がした。
静雄は、私を好きだと言った。
私の耳が、壊れていなければ。
私の脳が、勝手な解釈をしていなければ。
急に会話が噛み合わなくなった事も含めて、色々と戸惑う。
本来なら私という人間は、ここで再び彼の言葉の真意を疑う。
しかし今は、彼の瞳がそれをさせない。
本気なんだと思い知らされる。
この男の瞳は、いつだって真っ直ぐで、私には痛い程だった。
今は、いつも以上に。
「俺は、お前に何もしてやれねぇ。俺には、壊すことしか出来ねぇ。でもそれで、お前が笑えるなら、俺はいくらでも壊す。俺は、なまえが誰を好きでも、お前が幸せならそれでいい。俺は、お前に会えただけで嬉しくなるんだ」
「…………私は、欲張り過ぎたみたいだ」
「……何を」
「私は、臨也に嫉妬した。羨ましかった。私が欲しいモノを持ってる気がしたから。けど、結果的に苦しめた。一番大事な人を。私も、笑ってくれてるだけでよかったんだ。幸せだと言ってくれるだけで、私も幸せな筈だった。だから、もういいや」
「?」
「笑ってよ、静ちゃん。私も静ちゃんが好きだから」
この時初めて、この街を愛していると心から言える気がした。
何度となく私を呑み込もうとしてきた、この街を。
私たちを包む、この街の夕焼けを。
そして、こんなにも世界が愛おしく思えたのは、いつ以来だろう。
きっと、君を好きになった時以来。
君と出逢った、あの時以来。
僕が愛するシャングリラ
(君がいる世界は、やっぱり楽園だ)