「お慕いしている殿方が御座います」



不思議な女は、そう言った。

女自体は、別段怪しい者ではない。
ただの女中だ。
何が不思議かって、突然好きな男がいると言い出した事だ。
私は、何も訊いていない。
ただ、彼女が淹れたお茶を啜り、一息吐いただけだ。

こういう時は、どう返したものか。
無視しようかとも思ったが、私の返事を待っているのか、女はじっと此方を見つめてくる。
彼女から目を逸らし、そう。と返してやっても、まだ見てくる。
というか、あれか?
この女が好きなのって、私とかそういうオチか?



「雑渡さんでは、ありません」

「……あっそ」



なんだ。私じゃないのか。

別に残念だとは思わないが、それなら何故私に言ったのか。
あ、もしかして。私の部下だったりするのかな。
高坂や五条辺りなら、ありそうだ。
いや、不思議なこの女のことだ。
もしかしたら、妻子ある山本を狙っているのかもしれない。
それで、私に協力しろとか言うのだろうか。
面倒だな。
場合によっては、面白そうだけど。



「貴方の部下の方でもありません」

「……じゃあ、なんで私に言ったの」



意味が分からない。
この女は、最初からそうだ。
初めて話した時も、開口一番『前世は猫ですか?もしくは来世?』と訳の分からない質問をしてきた。
しかも、真顔で。
その時は正直驚いたし返答にも困ったが、こういう人間は嫌いではなかった。
それ以来、彼女とは少しずつ話すようになり、今では結構気に入っていたりする。
それでも彼女は、可笑しな女だけど。



「お願いがあります」

「お願い?」



女は、相変わらず此方をじっと見つめている。
私は私で、次に彼女がどんな面白い事を言うのかと、少し楽しみにしている。
勿論、場合によってはお願いとやらも聞いてやるつもりだ。
彼女が自分から何かを望むなんて、滅多に無い。
少なくとも、私に対して彼女がお願いしてきたのは、これが初めてだ。
だから、私に叶えてあげられるお願いなら、喜んで聞いてあげよう。
そして、私をもっと楽しませてくれればいい。

私は嬉々として、女の次の言葉を待った。



「私を猫にしてください」

「………は?」



んー………。
取り敢えず、小頭でも呼んで来ようかな。
私では、この子が何言ってるのかよく分からない。
なんと返したらいいのだろう。

黙る私に対し、聞き間違いではないと言うかのように、再度『猫にしてください。』という女。
彼女は尚もじっと見つめてくる。
いい加減、居心地が悪くなってきた。
そんな私には構わず、女は三度目の『猫にしてください。』を唱える。
いや、聞こえてたよ。聞こえてたけどさ。



「なんで猫なの」

「今の私では、好いた御方に自ら近付く事が出来ません。けれど猫になれば、私から会いに行けるでしょう?」

「……どちらにしても、私には叶えられないお願いだ」



そんな奇異な事、私に出来る訳がないじゃないか。
それに、お前が猫になるという事は、お前はただ『にゃーにゃー。』と鳴くだけの獣になってしまうという事で。
ふかふかな毛で覆われるお前の体は心地良いかもしれないけれど、白く柔らかなその頬に、私は指を突き刺せなくなるという事で。
そうすればお前はもう、私を待ってはくれなくなるのだろう。
そうすれば私はずっと、お前が逃げてしまうのではないかと、怯えて暮らさねばならないだろう。
それを考えると、やはり『私には出来ないよ。』としか返せなかった。
ここまで気に入ったものを易々と手放すなんて、私には出来ない。

私の返事を聞いた女は、『そうですか。では、山本さんに頼んでみます。』と言い出した。
いや、山本に頼んでも無理だから。
あれにだって、出来ない事はあるんだよ。
更に彼女は、『雑渡さんは、どんな猫がお好きですか?』なんて聞いてくる。
相変わらずろくに瞬きもせず、じっと此方を見つめているものだから、目が痛くならないのか不思議だ。
我慢でもしているのだろうか。

しかし、あれだ。
この女は、



「嘘つき」

「え?」

「お前は、嘘つきだね」

「……私がどんな嘘を吐いたと仰るのです」

「猫になりたいだなんて、思ってもないのだろう?」



嘘つきだね、お前も私も。


今日のところは、お前が好きな男は私じゃないと言った事も、許してあげよう。
私も、この気持ちに嘘を吐いたからね。
だから今回は、おあいこって事で。

やっと逸らされた彼女の視線は、膝の上で組む彼女の手元へと移った。
大きな目が伏せられ、今度は長い睫毛が目に付く。
その口は少しだけ突き出ているようにも見える。
もう一度、私を見てはくれないだろうか。

本当は、知っていた。
彼女が、そこらの男なんかより、素顔の知れない私を大切にしてくれている事くらい。
そうでもない風をして、いつも私が来るのを待っていた事くらい。
だって私も、気が向いた風をして、いつも彼女に会いに来ているのだから。
それがとても心地良かったのだから。



「だから、いいよ。会いに来なくて」

「何を」

「そう遠くないうちに迎えに来る」



そうしたら、私のところにおいで。


私がそう言い終えると、彼女はがばっと勢いよく顔を上げた。
それはもう、泣きそうな顔で。
嗚呼。やっと此方を見た。
それにしても私は、随分と我慢をさせていたらしい。
滅多に人前で泣かないこの子に、こんな顔をさせてしまうなんて。

けれど、もう少し。
もう少しだけだから。
私にその準備が出来たら、きっと迎えに来るから。
だからもう少しの間、私を待っていて。
それまでは、



「会いに来るのは、私の役目だよ。なまえ」



君はただ、美味しいお茶でも淹れて待っていてくれればいい。

抱き寄せた彼女はとても温かく、私が大好きな匂いがする。
私の腕の中で身動ぎするなまえが、小さく『好きです。』と呟いたのが聞こえたが、私は応えてやらない。
それが不満だったのか、なまえは顔を上げ、私を睨みつけてきた。



「雑渡さんは、狡いです」

「なまえほどでは、ないよ」

「私だって貴方ほどでは、ありません」

「ふふっ。なまえは、狡いね」



私の役目を奪おうだなんて、まったく狡い女だよ。
けれど私も大概狡いから、まだ好きだなんて言ってやらない。
賢いこの子なら、言わずとも分かっているだろうから。
そうして彼女を縛り付けてやるのだ。



になるという事



可愛い可愛い、私のなまえ。
もし私に不思議な術が使えたとしても、お前を猫になんかしてやらない。
絶対に、だ。
お前に会いにいくのも、お前を連れ去るのも、私の役目。
逃がしてなんか、やらないよ。
お前はずっと、私のものなのだから。
そうして、さ。


お前が私のところに来たその時は、私の一番近くに置いてあげる。