一つ深呼吸をして、久しぶりの本屋の空気を胸いっぱいに取り込む。つんとするようなかすかな本の香り。それに剣城はふうと安心したように息をついた。


「旅をしてて買えてなかった本も見つけたし……」

棚の影できょろきょろとする剣城の手に握られているのは数冊のレシピ本。表紙には色とりどりのお菓子の写真が踊っている。初心者の内容から応用まで書いてある本たちは剣城がお菓子を作るために欠かせないものだった。兄さんは次何が良いって言ってたっけ。そんなことを考えながらレジへと向かう。その途中で兄さんに頼まれたサッカー雑誌の最新刊もと思いスポーツの棚に寄りおもむろに手を伸ばした。


「っ……!」

すると同時に反対側から伸ばされていた手と自身の手が重なる。予想外のことに剣城はさっと身を引きそしてバランスを崩しその場にへたりと座り込んでしまった。


「大丈夫か?」

剣城の上から降ってくる声。こんなささいなことで驚いた自身にも驚きながら剣城は声をした方を見た。


「霧野先輩……」

「剣城がそんなに驚くとは思わなかったよ」

ごめんな、とすかさず差し出される手。その手に面食らいはしたけれど大人しく手を借り立ち上がる。


「突然だったので」

「ああ。それにしても同じ雑誌読んでるとは嬉しいな」

爽やかに笑ってみせる霧野。それにつられて兄さんも好きなんですよと剣城もにこりと微笑む。


「……それより」

一旦言葉を切り、霧野は視線を剣城の足元へと向ける。


「その落ちてる本は剣城の?」

「えっ?」

言われて初めて足元を見る。そこにはついさっきまで手にしていた本たち、お菓子のレシピ本がばらばらと散乱していた。けれど次の瞬間には屈んだ霧野に拾われ剣城の目の前に差し出されていた。


「これで全部?」

「はい……」

差し出された本の表紙を眺めながら、ふと剣城は思ったことをそのまま口に出した。


「お菓子作りってどう思いますか」

剣城京介という自分が、とは言わなかった。霧野にきいても仕方ないけれど、口が勝手に動いていたとしか言いようがない。


「なんだそれ」

剣城の質問に霧野は首を傾げ、そしてまたいつもの眩しいほどの笑顔を浮かべた。


「自分で何か作れるのはすごいじゃないか」

それに俺は剣城のケーキは好きだけど。いつかの日、バレンタインの屋上で手作りのチョコレートケーキを少し分け合ったのを思い出す。


「あ、ありがとうございます……」

顔に上がっていく熱に耐えかねて本で顔を隠しながら剣城は歩き出す。


「また作りますね……」

「ああ! 楽しみにしてるな!」

霧野のその声を受けレジへと走り出す剣城。その背中に霧野は大きく手を振っていた。


「……雑誌取るの忘れて行ったみたいだけどな」

スポーツ雑誌のコーナーで一人、ぽつりとそんなことを零した。


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