続き









秋声と向き合うことを決意した(させられた)はいいものの、逃げ続けた所為でどうにも気まずい花袋は秋声の部屋の前で立ち竦んでいた。左右の親友たちの目からどんどん温度がなくなっていくのを見ながらもどうにも最初の一歩が出ず、だらだら冷や汗を流していると、流石に部屋の主も気が付いたのか、中から誰何の声がする。

「花袋」

がしっと腕を掴んだのは独歩で、ドアノブを掴んだのは藤村で。

「ま、ちょ、まだ心の準備が…!」
「いつまで待っても出来ないだろうが!そら問答無用だ!」
「うあああ!」

息ぴったりに藤村が開いた扉に向けて独歩が花袋の背中を蹴り倒す。情けない声と一緒にずべんと間抜けな音がする。
同時にしっかりと閉まる扉。

「っおい!乱暴すぎだろ独歩に藤村!」
「俺たちが背中押さなきゃいつまでも入れなかっただろこの意気地無し」

がうと吠えた花袋であったが確かに独歩の言う通りだ。そんなことないと反駁する声は言葉に反して余りにも弱い。

「……花袋」

廊下に出てふたりをとっちめてやろうかと立ち上がった花袋であったが、不意に掛けられた声に動きを止めた。
いや、最初から分かっていたのだが、準備の済んでいない心が敢えて意識から除外した存在。

「秋声…」

久々に見る秋声は確かに病人と言う姿だった。青白い顔色に少しやつれた体。花袋の記憶に強烈に残る、見送るしかなかった悲しい死の匂いがそこにあった。
それは、けれど錯覚である。花袋は秋声の死を看取ってはいない。寧ろ看取られた側だ。独歩という花袋の大きな色眼鏡は今なお心に深くに影を落としているということだ。
ぐ、と息を詰めて彼を見れば、彼もまた無言で花袋を見返した。呆けた丸い目は暫くして気まずげに下を向く。

「花袋、秋声。俺たちはもう少ししたらまた来るからな。ちゃんと話し合うんだぞ」

コンコンとノックと共に掛けられた声。いて欲しいと思う弱い気持ちと、これでいいと安堵する気持ちで頭の中はぐちゃぐちゃだ。
遠ざかる足音を聞き取れるくらいに静かな部屋の口火を切ったのは花袋だった。

「…よう」

しかしそれで終わった。
言葉を探すように頭を掻いた花袋をもう一度見上げてから秋声は「うん」と返す。

「……座ったら」
「ああ、うん」

ついと視線で促す座布団。靴をぬいで小上がりに上がって胡座をかく。
と、横に手を伸ばして茶器を用意しだした秋声を留めて花袋が茶の用意をする。茶を淹れるのはいつも秋声か藤村で、やったことはないとは言わないが上手ではない花袋の淹れた茶はやけに色が濃く、きっと飲んだら渋いだろう。棚から失敬した饅頭に合わせればきっと食べられる筈だと考えながら、以前、4人で一揃えにした茶器にじわと胸が痛くなる。

「久し振り、だね」

寝巻きにしている水色の着流しに掛けた藍色の羽織を引きながら秋声が言う。
久し振りに来たというのに、花袋用の茶器はきちんと手入れがされていた──それが、彼に背負わせた寂しさを思わせて辛くなる。

「なんで来たの」

秋声は笑っていた。口角が上がり、目が細まって、歯を食い縛りながら睨み付ける笑みだ。
一般的にそれを笑みとは言わない。

「ねぇ、花袋。無理しなくてよかったんだよ。帰ってしまっていいんだよ」

不義理に怒らせただろうかと狼狽える花袋に掛けられる秋声の言葉に思わず目を見張った。
独歩は秋声がしょげていると言ったのに、なんなのだろうかこの言い草は。

「しゅうせ、」
「大丈夫なんだよ」
「は、」
「もうすぐ、新しい僕に代わるから」

秋声が笑ってやっているというのに、花袋は今にも泣き出しそうに顔を歪めた。秋声はそれに苛立ったように舌打ちをこぼす。

「もう少しだけ待っていてくれたら、花袋はもう悩まなくていいんだ。傷付かなくていいんだよ。分かるだろう?」

もう残された時間は随分と少ない。

「次の僕はなにも知らないけれど、もう忘れないよ。君たちのことも、僕自身のことも。全部覚えている。もしかしたら、今の僕が最初からなくしてしまっていたことも」

それは願望でもあった。健常と言っていい時分にも秋声はどうにも記憶の異常が多い文豪であったのだ。長寿と呼べた前世の長さを思えば確かに欠損が多くなっても仕方がないかも知れないが、似た条件の文豪の中でもずば抜けて顕著と言えるだろう。原因のひとつに彼を転生したのが司書ではなくネコが含まれているという可能性がある。ならば、司書の力で改めて転生をしてみれば──改善されるかも知れない。
自身の消失への不安や恐怖は強いが、しかしこの一縷の可能性だけが今の秋声の支えと言っていい。

「僕が壊れるのは誰の所為ではないけれど──君は、怖いだろう?」

ちらと花袋を見れば、愕然と見開かれた眼からぼろりと滴が手を伝う。嗚呼、結局泣かせてしまった。
こんなことで泣くなんて、花袋は本当に激情家だなぁ。

「花袋は優しいからね。でも、本当にいいんだよ。僕の為に悩まなくていい。悲しまなくていい。目を閉じて、耳を閉じて、次の僕を待っていて」

今まで通りに。
仕方がないことなのだといいながら、手を伸ばして涙を流す目から滴を払ってやる。けれど後からまた後からと溢れてきて、仕方がないから着物の袖を掴んで花袋の顔に押し付けた。

「なんで…ッ!」
「なんでだろうね?」

そう駄々を捏ねる花袋に秋声はそう自嘲する。教えてほしいのはむしろ自分の方だ。
──なんで、こんなことになってしまったの?
涙を拭う秋声の手を払い除け花袋は叫んだ。

「ち、がうだろ!“次の”なんて…それはお前じゃないだろ…!」
「いいや、僕だよ。僕に違いはないんだ」
「違うって…!だって、お前は、」

確かに彼らの転生はベースの決まった複製品の量産品だ。ただし動くのはひとつきりという制限があるだけで、過ごした期間に得た経験が違うというだけで、皆、同一人物なのだ。
だから秋声は平気だという。でも──過ごした期間に得た経験、というのが一番重要なのだ。それは他者との関わりで、時間は記憶は誰にもどうやっても買えはしない。
だから、“今”を生きている秋声は“次”を生きる秋声と、同じでありながら違う生き物だ──と花袋は言いたいのだ。

「分かってる、」

それでも秋声はゆっくりと首を振った。

「分かっているさ。だから──それ以上は言わないでくれ」

どうしたって自分は君たちと過ごした記憶をなくしてしまうから。

「新しい僕はなにも知らない僕だけれど、それと今の僕とがどう変わるっていうのさ。変わらないだろう?いや、なくさないだけ、次の僕の方が優秀と言えるだろうね」

ポンコツな自分を嘲笑う。どうして人は、なりたいようには生きられないのだろう。

「もう本当にすぐだから。次の僕ならきっと、うまくいくんだよ。もう悲しまなくていいんだ。大丈夫、だよ」
「………」

それ以外に言うことはないのだろうか。ただ漫然と繰り返される「大丈夫」と「うまくいく」の言葉。それは花袋に言い聞かせるのではなく、自身へと言い聞かせているかのようで。

「……お前、それ」
「ん?」

不意に言葉を発した花袋に秋声は小さく首を傾げる。

「そんなんで俺が“ヤッターじゃあ待とう〜!”とか言うと思ってんのか?」
「───」

そう問われてしまえば秋声には返す言葉がない。
こうまでして秋声が花袋に言って聞かせるのは、それが花袋にしてみたら到底受け入れられないことだと知っているからだ。
花袋は弱くて優しくて、でも一度覚悟を決めてしまったら一途に強くて。

「ヒトを軽く見んのも大概にしろよ…!」

花袋の止まりかけた涙はまたぶわと溢れて、戦慄く唇からほたりと落ちた。
それを止めようとぐしぐしと腕で擦るので、手を伸ばしてそれを止めさせると花袋は歯噛みして秋声を睨み付ける。

「…嗚呼、違うんだ。違うんだよ。僕は、君を泣かせたくないだけなんだ」

涙を拭いて、よしよしと花袋の髪を撫でてやる。短い花袋の髪は全然さらさらなんかじゃなく固いけれど、もふ、と独特な手応えが楽しいな、なんて思う。
花袋をこうして撫でることなんかないからなぁ。忘れたくないな、なんて願いは絶対に叶わない。
ともすれば明日にはなくなっているかも知れないのだ。

「僕は君を安心させたいだけなのに」
「は?」

しょんぼりとした秋声の言葉に「気のせいだよな?」とぼやと呆気にとられていた花袋は否定を求めてそう一言呟いた。
つまり秋声は純度高く善意に満ちたままに、花袋を想って「死(代替品)を待て」と言ったのだ。
もしもそうならば慰め方が下手くそ過ぎだ。むしろ追い討ちではないか。

「は、はは…」

あまりにもあまりで、涙も止まって花袋は笑う。
そしてお返しとばかりに、怪訝な表情をした秋声の頭を撫でる。ぐわしぐわし、という遠慮のないそれは常ならば髪が絡まるから止めろと叩き落とすところだが、久々のそれがあまりにも心地が好くて、秋声はなすがままに受け止める。
なんだかとってもおかしくて、ふは、なんて噴き出して。
暫くして離れた手に、漸く互いに顔を見る。負い目や気負いや、そういった余計なものを取り払ったクリアな気持ちで。

「…ねぇ花袋」

ん、と小さないらえに秋声は目を閉じた。

「きっと、これもいつかなくしてしまうことだけれど──さいごまで普通にみんなを見ていたいというのは……過ぎた願いだろうか」

言わずと決めたけれど、どうしても「親友」を前にして小さな、ささやかな、願いが零れる。
この人は甘いから、きっと頷くと分かっていながら言うのだから大概、自分は卑怯であると内心で秋声は自嘲する。

「……バカ!」

寂しいのだと言う秋声に花袋の喉に締め付けられるような痛みが走る。
向かい合うのが怖かった。明日になれば、きっとなにもなかったことになるんじゃないかなんてバカな願いをもっていた。
認めてしまうのが嫌だった。認めてしまったら──もう、永遠に会えないのだということを認めるということなのだから。
秋声の言う通りに自分たちと同質の自分──スペアがあれど、今ここにいる自分たちは、なにに替えることもできないのに。
自分の気持ちを数えるのに手一杯で、喪失を自覚する秋声の気持ちを置き去りにしていた。
それはどんなにつらいことだろうか。それはどんなにかなしいことか。
ひにひによわるすがたをみていたくなかったあおしろいかおでたおれる、びょうしつの、しろい、しろい──いつかの日、俺が話した。話し掛けた。初めて倒れた秋声に、彼の知らない記憶を。
俺が──彼を壊したのだろうか?
最早、崩壊を止められない彼を前にして、けれど切っ掛けとなった自分がどんな顔をすれば良いのだろうか。
不安が、恐怖が、罪悪感が、花袋を押し潰そうとするから逃げた。逃げてしまった。時同じくして、不安が、恐怖が、罪悪感が───同じく、秋声を押し潰そうとしていることを考え付かぬまま。
親友の自分こそが、ちゃんと支えてやらなきゃいけなかったのに。

「寂しいなら寂しいって言えよ!」

なんて、責任転嫁も甚だしくも声を荒げた。ここまで来てもまだ責任転嫁をする自分が酷く滑稽だ。

「言おうにも逃げたのは誰だったっけ」
「ああもううるさいな!俺だよ!悪かったよ!ごめんな!」

揶揄混じりに唇を歪ませる秋声の正論にやけくそで言葉を返し、そのまま花袋は秋声の膝元へとばたんと倒れ込む。柔らかな布団が花袋を受け止めたが、その下の秋声は膝に走る痛みに小さく呻く。
深く、大きく、呼吸をした。
涙が滲む、たわんだ声を整える。

「……寂しい思い、させてごめんな」
「うん…寂しかったよ。花袋のバカ」

正直先程バカと言われたのが不満だったので打ち返してやれば、布団に埋めた顔を横に向けて、ちらと秋声を見上げた花袋が「へへ」と笑う。
──嗚呼、日常が帰ってきた。
秋声は物静かな顔をして、正直図太くズケズケと無神経なところがある。それでも、多少は相手を選ぶ。
白鳥、鏡花、それに最古参として共に駆け抜けた織田に、やはり司書か。気の置けない彼らには遠慮はないが、やはり、誰よりも甘えられる相手が花袋であった。
花袋が来なくなって寂しさは確かにあったが、しかしどこかで安堵もしていた。
花袋がいると秋声は強く在れない。
吐きたくない本音を、弱音を、つい、溢したくなってしまうから。強く穏やかに笑う仮面を被りたいのに、花袋がパッと笑えば、つられて武装がどっかにいってしまう。甘えて八つ当たりなんて格好悪いにも程があるだろう。軽口を、揶揄を、その中に紛れて苦悩が溢れてしまいそうで怖かった。
そんな弱い自分も、それに押し潰されるかも知れない、それに嫌気を差して秋声を完全に切り捨てる、かも知れない、そんな花袋を見たくなかった。

(君がそんな人ではないと知ってはいるけれど)

でも、その自信だって自分はいつ取り零すか、わからないのだから。
この苦しみだって一過性に過ぎない。
なくしてしまえば。
こぼしてしまえば。
きえてしまえば。
なくなってしまえば。
──苦しくはない。

「今日は俺が添い寝してやるぜ!」

ぴかーと輝く、いつもの笑顔に安堵する。苦しめてごめんね。その言葉は出なかった。

「えっそれはいらない」
「なんでだよ!?」

つれない秋声の言葉に花袋がへにゃへにゃと情けない声を上げる。
秋声は声を上げて笑った。いつになく晴れやかな気持ちだった。
──苦しんでくれ。
僕と一緒に。
こんな苦しみ、一人では耐えきれないから。だから選ぶよ。誰でもない──鏡花でも白鳥でも藤村でもなく、花袋を選ぶ。
──この地獄の道連れに。
逃げないことを選んでしまった可哀想な友に、逃げられないようにがんじがらめにして。

がちゃり、扉が開いた。

「おっ、仲直りしたみたいだな?」
「よかったね、ふたりとも。ねぇ、今どんな気持ち?」

にやにやと笑う独歩と藤村のふたつ仲良く並ぶ頭に、聞き慣れたフレーズ。
秋声と花袋は顔を見合わせた。

「そんなもの、」

そして一緒に走り出す。蹴り飛ばした布団をぐしゃりと踏みつけて、驚いた顔をしたふたりに飛び付けば、勢い余って廊下に飛び出てごろりごろりと転がった。

「最高に決まってるじゃないか!」

ありがとう友よ、と囁けば。
それぞれに笑みを返してくれる、その幸せ。
そのまま団子になってケラケラと騒いでいると、なんだなんだと顔が集まってくる。
ひきこもりがちになった秋声が外に顔を出すのが少なくなって久しく。学生みたいにバカになって笑い転げる姿に、その晴れやかな顔に、寄り添うにも遠い者たちはただただほっと息を吐く。
彼は、誰よりも先に誰よりも必死に新しい生を走り、新しい使命の為に皆を導いた。弓という人数の少ない武器種であったから誰よりも先にカンストをしたのが秋声だった。
そんな彼に漸く皆が追い付こうとしている──日に日に削れていく彼に、それでもまだ追い付ききってはいないのだ。
カンストしたから。最古参だから。そんな理由ではなく、秋声が秋声だから。意地っ張りで素直じゃなくて、でもとっても素直でお人好しだから。
だから、皆、秋声のことを気に入っていた。愛していた。愛されていた。喪失を惜しむし、悼むし、彼の負担にならぬようにと口をつぐんでただ見守るに徹する。
──彼らには、花袋たちのように秋声を屈託なく笑わせることなど出来ぬのだから。
集まった面子は微笑ましい光景に緩みそうになる口端に力を込めながら「何をしているんだか」と呆れた風に肩を竦める。団子はぎゅうぎゅうと絡まっていたが、それぞれが笑いに腹筋を揺らしながら伸ばされた手に縋った。
もう戻れない日常を想う。
──どうして、こうなってしまったのだろうか。











秋声は己の「本」を撫でた。
それは「転生」した時に携え、武器とする所謂「分身」だ。
ぺらと開けば、インクの掠れた文字列が。ページの半分も埋められていないそれは、後半に行くにつれて文字がないページが増えていく。
勿論、最初からこうだった訳ではない。文字で埋まったきちんとした本であったのだ。表題にもかすれはなく、表紙もこんなに色褪せてなく。
これは推測であるが、秋声の記憶と繋がっているのだろう。失えば失うほどに、文字が、色が、話が消えていく。
通常の侵食された本は赤黒く蝕まれるのに、秋声の本は、薄く、淡く、なくしていく。なくなっていく。
もう武器の形を成すこともできない。
これを知っているのは司書と館長だけだ。いや、ネコも知っているか。彼らは手を尽くしてくれたと思う。特殊な洋墨での修復も、貴重な素材を注ぎ込んでの再錬成も、消え行く中身を止めることは出来ず。
泣きそうな顔で司書は言った──この文字が全て消えた時、貴方の存在も消えてしまうのでしょう、と。

「……分かっていたことだ」

最早崩壊は止められず、もう、秋声が倒れずとも記憶はひとつひとつと消えていくのは、分かっていたことだ。
だから寂しいことなんてない。
悲しいことなんてない。
つらくなんてない。
失う程に痛みをもたらしたそれは、けれど文字列が意味を成さなくなって久しく、痛むこともなく。
喪失がただ無為にこぼれ落ちるようになったのを僥倖と読むべきか否か。知り合いの顔を溢し、自分をなくす、それに、平穏など感じるなどなんて不誠実なことだろう。
残った数少ない大切なものを数えて恐怖に震えている癖に。
逃げるように本から手を離し、毛布と布団の隙間に挟まりながら頭を抱える。

「嗚呼、」

なんて寂しいのだろうか。
心穏やかに過ごせる日常を取り戻した筈なのに。不意に心に差し込む冷たさが秋声の喉を締め上げる。
もう時間がない。

「…けじめを、つけないと」

もう夜も深いが、彼の人がまだ起きているだろうことに確信はあった。
秋声は布団から這い出て、寝巻き代わりの薄い水色の着流しの肩に、紅葉柄の羽織を掛けた。こんな時にさえ袖を通すことは出来ない、彼にとって大切で憎らしくもあるもの。
薄明かりに照らされた廊下は寒く、秋はようように冬へと変わろうとしていた。ふるりと体を震わせた秋声は前を合わせるとゆっくりと歩き出す。目的の場所はそう離れていないのだ。
コン、コン。
どこも同じ作りの扉だが、一呼吸の後に秋声はそれを叩いた。硬質な音が響き、次いで、誰何の声。名を告げれば入室を許可され、一度、ぴしりと着流しの前を正した。

「失礼します」

部屋の中は火鉢がいれられていて温かかった。敷かれた布団は綺麗なままで、文机に向かう端正な顔が秋声を見て悪戯に笑う。

「なんだ秋声、このような時間に」
「申し訳ありません。少し…落ち着いてご挨拶をしたくて」
「挨拶?」

師は変わらず泰然とした様子で首を傾げたが、とりあえず病身と言える秋声を火鉢前に呼び寄せる。

「そのような薄着で…用があるのならば誰かに言付けさせれば良かったろう。さすれば我から赴いてやったものを…」
「いいえ、師を呼びつけるなど」
「具合の悪い者に無理して礼節を守られてもな。さて、話──挨拶とはなんのことだ」

相対する師のその顔の美しさは普段なら恐ろしいとも思えたが、死を前にしてはただ素直に尊敬の念が胸を打つ。穏やかに微笑むと秋声は背筋を正し、深々と頭を下げた。
差し出した「本」の表紙は最早わずかに色付くのみだ。

「もう、僕の時間が終わるようです」

だから暇のご挨拶を、と。
──師を師として認識できている内に。
そう言った秋声に返されるものは沈黙ばかり。顔を上げることも出来ずにただ反応を待てば、はぁ、と深く重い溜め息が聞こえた。

「そうか…」

いつも通り穏やかな耳障りのよい声であった。この聡明な男であれば、本の以前との違いを察することだろうという見当は無事に当たったらしい。
いつか見知った茶色の表紙は見る影もなく淡くに褪せた。それは彼の記憶の欠損に対応するものだということに。
無駄な説明は秋声の心を軋ませる。それは、自分の現実に直視することだから──このようになった今もなお、認めたくなどないのだ。自分の死のことなど。
だから、言わずと理解してくれたことに安心しつつゆっくりと顔を上げると、卓に肘をかけたまま紅葉は手で目許を覆っていた。

「…そうか。いや、いずれと覚悟はしていたつもりであったが──いざとなると、こんなにもきついものであったのか」

口許は笑みを浮かべてはいたがそれは自嘲の意味だろう。さらさらと綺麗な金髪が肩から流れて卓に落ちるのを、秋声はぼんやりと目で追った。

「そうですね。きつかったですね。師匠が亡くなられて……僕たちもバラバラになりましたし」
「お主、そういうところだぞ?」

がばりと顔を上げた紅葉は、してやったりとこういう時ばかりには笑みを浮かべて見せる小生意気な弟子の顔を見てそう言った。
本心なのかあえての発言だかわからないのがこの弟子なのだ。そしてぽろりと出る無神経な一言がもう一人の神経質な方の弟子とは全く合わず、よくキャットファイトをしているが、それもまた互いを想ってこそだと紅葉は楽し…優しく見守っている。

「本当のことですよ。僕も、鏡花も、露伴先生も──そして文壇も。紅葉先生という大きな頭を喪って、大きく動いた気がします」
「栄枯盛衰は世の習いというものよ。その末にお主の大成もあったのだろう?」
「まぁ、そうですね。時勢がそう流れただけですが」
「波に乗れねば沈むだけ。お主にはそれだけの力があったということだ」

不意の誉め言葉に、秋声はきょときょとと目を瞬いた。そして今の年格好に似つかわしくぱっと顔を綻ばせた。

「師匠にそう言ってもらえるならば、きっと僕も無駄に永らえた甲斐があったと言うものですね」
「これ、無駄などと言うな」
「師匠の無駄は早く死に過ぎたことですけどね」
「ぐぬぅ…!」

痛いところを突かれて紅葉は歯噛みした。そして「本当にそういうところだと言っとろうに」と呻く。
誰しも死にたくて死ぬのではない。
けれど、そうと笑い話に出来るのは道半ばに潰えた者と、今まさに直面する者であるからだ。本来交わることのなかったからこそ、こんな会話ができるのだろう。
そうでもなければ火鉢を越えて殴られても致し方がないと言うものだ。

「鏡花は…師匠を崇拝してますから。結構大変だったんですよ、あの後。殴られたし」
「それはお主の言い様が悪しかろう。帰り道を泣き通したと聞いておるが、軟弱な。そら、我が撫でてやるからこちらへ来い」

仕返しとばかりに悪戯な笑みを浮かべた紅葉がにじりと寄ってくる。それに、うわ、と声を上げて秋声は後退った。両頬に手を添えて逃げる様に、撫でてやると言っているのにその様は少し腹立たしい。が、まるで子猿かはむすたぁなる子鼠か、青年姿で一際小さいこの弟子の背丈も含めてまさに小動物。はは、と笑い声を上げれば小生意気な弟子はムッと唇を尖らせて睨めつけてくる。

「……もう、用事は済みましたので帰ります。ありがとうございましたッ!」
「待て待て待て。こら、お主。こんな終わりがあって堪るか。拗ねずにこちらへ来い」
「〜〜〜」

立ち上がった秋声の裾を咄嗟に掴むことに紅葉は成功した。ビンと張る着物と師への悪態とで揺れた秋声は、暫く唸ったものの、諦めて再び座り込んだ。
今度は紅葉が立て膝で畳を進み、秋声と膝を突き合わせる。

「不味い面をして」

少し腰の引けた様子の秋声に笑みを浮かべて、紅葉はぽんと弟子の頭を撫でた。左右に動かせば、固めの短い髪がわしわしと手を擽る。
自身のさらさらの髪も、鏡花のふわふわの髪も。皆、違うものだなと思う。
慕ってくれてはいるが、秋声はこうした接触を好まない。ともすればゴム毬が如くに触れようと伸ばした手が届く前に逃げてしまうような男だ。
それが、今、素直に紅葉の手を受けている。

(これは…随分と弱ったものだな)

終わりを誰よりも理解するのは自分自身だ。紅葉はそれを知っている。
──本当にもう、時間がないのだ。

「お主はよくやってきた。この図書館の最古参として自身が傷付くのも厭わず、多くの本に潜り、多くの人を導いた」

撫でるのも足りずにそのこどものような丸い後ろ頭に手を伸ばし、胸へと引き寄せ抱き締める。

「そんなの、ただの偶然だ。僕が…僕と織田くんがたまたま最初に転生させられただけ。…それに、もう暫くも潜ってはいません」
「たわけ。礎となり導いたからこそ今がある。最初が肝心というものなのだ」

素直にされるがままになっている癖になんとまぁ憎たらしい口を利くものだ。嘆息して、ぽんとその頭を叩いて嗜める。

「たとえお主が偶然と言えど、やり遂げたのならば必然よ。よくぞ逃げずにやってきた。それだけで偉いと言うものだ。
いつかの生でも多くの人を導いたろう。お主はあまり人付き合いが上手くないからな、よく頑張った。それに大家として名をも残した」
「…師の教えとは程遠かったものですが」
「だから、もう。この阿呆者が。何を教えられようが受け方は千差万別。活かすも殺すも好きにすれば良いだけよ」

元より秋声は毛色の違う作風であった。露伴に憧れたが彼が怖いが故に紅葉に師事する道を選んだなどという話も聞くが、それはそれで良いと紅葉は思っている。見聞きする言葉のひとつ、出会う人、見える風景──ひとつひとつの刺激がその人の人と成りとなるのだ。力となるのだ。
まぁそれに鏡花は馴染まなかったようではあるが、それもまた一興。在ることを知ると知らぬでは違うのだ。選ぶことこそが肝要。それがどこかに影響していないとも言いきれない。

「師の言葉を素直に受けよ。お主はよくやった。我の誇りである!」
「……でも、」
「でももすもももない!良い子だから、少しは師の顔を立てようとは思わんか」

抱いた駄々っ子の背をぽんぽんと宥めるように叩いてやれば、いくつもの否定をこぼす弟子はついに口を閉ざした。抱き返してこそはしないが、紅葉の胸に預けた頭は少し重みを増した気がする。

「ババアじゃん…」

見た目と合った母ムーヴについそう呟いてしまったが、勿論聞こえぬ筈がなく。

「誰がババアだ!」
「イデデテテテ!」

両頬を摘ままれにじりと捻られて秋声は悲鳴を上げた。
頬を抱えて逃れた秋声の瞳に涙が浮かぶ。余程痛かったらしい、ということにしてやろう。

「バカちからぁ…!」
「阿呆を申すからだ。全くお主はいつもいつも…」

ふんと鼻息を荒くする師を前にまた一歩と弟子は後退る。微妙な緊張感が走る中、ちらと視線が交われば、互いにいつしか笑い声を上げていた。

「それでは、師匠。次の僕をよろしくお願いします」
「わかっておる。前も、今も、その次も。全てが大切な我が弟子だからな」
「───」

秋声の懸念はそこだろう。
彼のみならず以前と現在を比べてしまったり差異に困惑している文豪は多い。差異ある転生前後でもそうであるのに、ほぼ同一の再錬成ではまた勝手も違うだろう。
幸いこの図書館では所謂「絶筆」となった者がおらず──ふたりめと成るのは秋声が初となる。これを絶筆と称していいのかは知れないが……初転生の文豪であり、初絶筆の文豪でもある。そんな初めて尽くしなど彼も望んでいなかっただろうに。
同じ顔、同じ精神。ただし今までの記憶を持たないまっさらな秋声。同一人物でありながら確かに別人の彼を混同するなというのは難しい上に、特に秋声は初期文豪として図書館最古から文武の前線を駆け、ほぼ全員の育成指導に関わって来たのだから周りの違和感も酷い筈だ。
──それはさておき。
紅葉にとっては前も、今も、その次も。どの秋声も秋声であるが同一ではないと分かっている。いや、秋声自身も分かっていてあえて混同しているのだと察することは出来るのだが。
現状、自己の喪失を恐れながらも同一性に救いを見出だしてもいる。
それが分かるからこそ──紅葉は敢えてそれを肯定し、あえて全てを同一として扱おうとしているのだ。

「お主から教わったことを、我がきちんとお主に伝えよう。今度は一から十まで弟子であるからな、今までのように大きい顔はさせぬぞ!」

はっはっは、と紅葉は鷹揚に笑って見せる。弟子に先達として指導されるのは楽しかったが、やはり師としての面子もある。

「だから安心しておけ!」
「……どこに安心できる要素が」
「なにを申すか!」

この阿呆者!と再び頬をいじめるべく伸ばされた指にパッと秋声は立ち上がる。
転がるように逃げ出した悪戯っ子の背に、ついと言葉はこぼれた。

「鏡花には、」

止まった背中はなにも語らず、振り向きもしない。
しばらくそれを眺めて、紅葉はゆるく首を振った。

「いや、なんでもない。達者でな」

詳びらかに語ることなどないと常の日頃に言っているのは己ではないか。知らぬ方が良いことは誰にだってあるのだ。

「た、達者って……」

なんという言い様か、と振り向いた秋声は、しかし言及しない師の優しさに困ったように眉を下げて笑った。
自分が赴くのは、結局のところ、死出の旅。
しんみりとしてしまったところもあったが──どうやら自分達はこういう、ざっくらばんが合うらしい。はは、と思わず笑いがこぼれ、秋声はさっと草履を引っ掛けたその背で言う。

「師匠、あんまり甘いものばかり食べないでくださいよ」
「ぬ、」
「体を大切にしてください。これは、いつの僕も、願っていることです」

そう言って一度、振り返る。
晴れやかな笑顔。きっと青空の下が似合うだろう、まだ若い青年の容姿をして悟りきった老人のような。

(いや、確かに彼は老いたのだ。自分の生涯と比べるべくもなく。幾重の幾重に苦労を重ねて生きたのだ)

どんな恐怖も押し殺して笑うだけの経験がある。師にくらい弱音を吐いても良いだろうに──しかしてそれこそ己はたとえ濃くとも人生経験不足の自覚はある。
ぺこりと深くまで下げられた頭に固めの黒髪が遅れて跳ねた。その名残を残さぬ程に、ともすれば失礼と言えるほどに素早くパッと扉から駆け出る。
戸の閉まる音。
「その日」がいつ来るかは誰にも分からない。
きっと彼はもうここには来ないだろう。自分も会いに行くことはない。
次に見えるのは「新しい」秋声だ。
夜も深く、寒々とした空気に紅葉は息を吐く。
昔、置いていったものが先を越す。
こんな追い越しを誰が望んだろうか。
大切なモノが失われる。置いてけぼり、取り残される。
自分が師として生きた年数よりも遥かを生きた弟子は、薄っぺらな自身より余程も年長者たる格を持っているようだ。

「嗚呼、露伴よ」

肩を並べる友へと空へ投げ掛ける。
お主もこんな気持ちであったか。
いつかに置いてきぼりにした彼に聞けやしない問いは秋の夜に小さく溶ける。
見送るだなんて──なんと、侘しいものだろう。

「すまないな」

言っても詮ないこと。
何年も何十年も経って──ようやく知った。こんなにも、いたいだなんて。






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