怖い、と言った。震える声で。
強く跡の残った帳面にざりざりと書き付けては破り割いて、力任せに屑籠へと投げ付ける。だが軽すぎるそれはすぐに失速し、へろ、と屑籠の前に転がった。嗚呼、儘ならない。

「なんでだよ…!」

短い黒髪をぐしゃぐしゃに掻きむしり、ついでに目元を拭って奥歯を噛み締める。

「なんで、覚えてない!確かに、確かに──僕は、今日、島崎に聞いた筈なのに!」

壊れた脳味噌と足りない帳面。
抑えようとも荒くなってしまう声は、けれど長雨に掻き消されてはくれただろうか。
気付けば一人、夕闇に染まる部屋でいつのまにか寝ていた、なんて。ただ寝ただけだなどとは今、嘘でも言えない。
欠落していく記憶に焦燥が募る。
怖い。
全てが、怖い。心配の目をまるで監視か観察か、と穿つ自身のひねくれた心が恐ろしい。
ひきつらせた唇で浮かべる笑みが、僕を透かしての次の犠牲を不安がらせてしまっただろうかと思う罪悪感と、僕の、僕だけの苦しみのなにを知った気になっているのだと苛立つ矮小さ。

「忘れたくない!忘れたくないんだ!なのに…嗚呼、なのになんで……」

消さないでくれ。
消えないでくれ。
ひとりでいたら、こんなにも、こんなにも押し潰されそうで怖くて怖くて怖くて痛くてつらくて苦しくて、でも誰かの無理に合わせて笑い合うことも虚しくて。
──そうだ、怖くないなんて、嘘だ。
次の僕が、僕が消えるのを待っている。
今か今かと、待っている。
消えたくないんだ。
まだ、まだ、もっと。
いたいんだ。
ここにいたい。
皆を苦しめていると知っていてもなお──死にたくなんか、ない。
眠れぬ夜になくしたものばかりを数えて、今あるものすら疑いにかかけてしまう。死にたくない。いたいんだ、ここに。もう永遠に戻らない記憶は、今ある記憶の正しささえも揺らがせる。
怖いと言いたい、叫びたい。
叫んで、何故と問い、答えが欲しい。
──答えがないことなんて知っているけれど。
嗚呼、いやだ。いやだ。誰に向けた駄々かは知らない。なんで、どうして。それでも言わずにいられなかった。いたい、いたい。ここにいたい。なくしたくないんだ、きえたくないんだ。嗚呼──涙が出るんだ、どうしようもないまま。
そうだ、どうしようもない。どうしようもないとは知っているけれど──ずきずき、と痛む。頭が、胸が。呼吸は絞られてヒュウと細く音を鳴らせた。
痛い、いたい、怖くて。ずっと、いたい。
誰に願えばいいのか、クソッタレ神様よ。お願い、どうか。

死にたくなんか、ないんだ。










鬱々とした梅雨も越えれば灼熱の言葉が相応しい夏へと季節は移り変わった。ただでさえ体力を消耗する季節に、秋声は一段と布団に根を生やす。
秋声は穏やかに笑うようになった。
いつもの気難しい顔はもう「いつもの」なんて言えやしない。
布団の上で見舞い客の言葉を聞いて、頷いて、笑う姿は──いつかの、親友の死を思い出させて花袋の心を締め付ける。
──だからそれは十分に原因と成り得た。

「……花袋、は?」

問いかけた秋声の声は沈んでいる。言葉の詰まった独歩と藤村に、答えを聞くまでもないと悟ったのか秋声は苦く笑ってふと窓へと視線を投げ掛けた。
分かっていたことだ。
──もう暫く、花袋の顔を見ていない。
秋声は花袋に避けられている。

「……そう。ごめんねふたりとも。今日もお見舞いありがとう」

気を取り直した秋声が独歩と藤村に笑いかけた。
大分線の細くなった秋声の代わりにお茶を淹れるのは藤村の役割となっていた。秋声の部屋に揃えられた茶器は客用にいくつかシンプルなものを常備してはいる。そしてそれ以外に、普段入り浸る独歩や藤村、今はいない花袋の分。勿論秋声の分を含め、それぞれが似た特徴あるそれらは所謂お揃いというものだ。
それを用意した──その本人は今ここにはいないのだけれど。

「いや、なんかすまないな」
「国木田が謝ることじゃないさ。あ、島崎もお茶ありがとう。その棚に師匠から頂いた茶菓子があるから、食べるなら勝手に取ってよ。ついでに僕にもひとつ」
「結局秋声に取ることになるのなら、僕も普通に頂くよ。国木田はどうする?」
「貰う貰う〜」

一瞬でいつもの明るい雰囲気に戻る。それは皆の努力の賜物でもあった。

「畜生…悔しいことにあの人のおすすめの菓子に外れはないんだよな」
「全く、君は本当に師匠が嫌いだね」
「まーな」

和紙風の包装に包まれた最中。四角いパリッと軽い食感の薄皮に、中にはどっしりねっとり滑らかなあんこが詰まっている。足利名物、古印最中だ。めちゃくちゃ水分が欲しくなる悪魔の食べ物だが、濃い目に淹れたお茶と合わせれば、あんこの甘さを洗い流した渋味がまた一口をと進ませる、素晴らしき永久機関と成り果てる。
しばらくもそもそと最中を貪っていた三人は、十分に堪能すると水分でぽちゃぽちゃの腹を抱えてほうと満足気に溜め息を吐いた。あれは一個食べるのにも水分をかなり必要とするのだ。美味しいんだけどね。
そんなくだらない話をして、お昼になれば味の薄い病人食を口にする。僕は健康なのに、と未だに渋る秋声にその病人食は不評だ。確かに不調が残るようになったと言っても問題の大部分は意識喪失と記憶欠落が問題であって、味覚の欠落がない分健康と言う意識があるのだろう。
たまにならまだしも毎日がそんな状態だ。日がな一日部屋に引きこもった状態で過ごしている為に運動も足りず、食傷気味になるのも仕方がないことだろう。

「あーあ。贅沢なんか言わないけれど、なにか美味しいものが食べたいよ…」

ずずず、と薄味のうどんを啜りながら秋声は言った。じっと視線は藤村と独歩の昼食であるに牛すきうどんに固定されている。

「あはは。じゃあ、秋声はなにが食いたいんだ?グリーンカレー?イエローカレー?ドライカレー?」
「選択肢をカレー限定にするのやめてもらっていいかな」

ゴリゴリ押してくる独歩に秋声は突っ込んだ。僕だってカレーは嫌いじゃないけど、と言い訳のように付け足せば、独歩は嬉しそうに笑う。
そして秋声はううんと首を傾げて思索する。

「最近食べてないし、揚げ物がいいな。牛丼とかでもいい。肉が食べたいな」
「秋声、お肉好きだっけ?」
「いや…贅沢な食事をするならって話だよ。肉は食べ過ぎると胃もたれするからなぁ、普通に食べるなら魚の方が好きかな」
「そう…」

粗食が馴染む秋声である。それに故郷金沢は海が近かったこともあって海鮮が美味しく、馴染み深い。勿論鰻やステーキも嫌いではないが、落ち着く食事と言えば魚の煮付けや鮭定食だ。

「秋声」
「ん?」
「あーん」

呼ばれて唯一の楽しみであるかまぼこを咀嚼していた秋声が顔を上げると、藤村は自身のどんぶりから玉子がとろっとろに絡んだ牛肉を箸で摘まんで秋声へ差し出していた。
秋声は目を丸くした。

「へ?」
「食べたいんでしょ、あーん」
「いや、こっちに移してくれたらいいけど」
「あーん」

自分のどんぶりを指差してみても藤村は変わらず箸を差し向けてくる。

「………あー」
「ふふ、美味しいかい?」
「ん」
「そう」

暫く見つめ合うも根負けした秋声が渋々口を開くと、むいっと藤村が箸を入れてくる。そういう世話のようなものがあまり得意ではない藤村だから口端だけに乗せられた肉に慌てて顎を上げ、舌先ですると口内に誘い込んだ。まだ温かいそれをはふはふと熱を飛ばし、久々の肉の食感を堪能する。甘じょっぱく味付けされても残る牛肉の独特な風味をとろりとした玉子がまろやかにしている。
思わず頬を緩んだ顔で咀嚼する秋声を見て、藤村もまた微笑んだ。ニコニコ微笑ましいふたりに独歩もいいなーと近付いていく。

「秋声、俺も俺も」
「え、国木田も?」
「はいあーん」
「……あー」
「秋声、僕も。あーん」
「んぐ」
「ほらもっかいあーん」
「むぐぐ」
「あーん」
「あーん」

左右から独歩と藤村が秋声の口に肉を詰めていく。食べるペースが大分落ちた秋声はそれを飲み下すことが出来ず、詰め込まれるままに頬に溜め込んだ。しかしそれは永遠に続かない。「んんん!」

秋声は藤村の額を、次いで独歩の額を叩くとふたりから距離を取った。渋々と乗り出していた身を戻すふたりを睨み付けながら、もぐもぐと必死に口の中のものを飲み込んだ。

「……君たちねぇ!」

一連のそれでどんぶりから汁が溢れて濡れた手を戸惑い気味にぐーぱーと開閉しながら秋声が一喝する。

「そんなに詰め込まれたら味わえないだろう!あのね、お肉は!ゆっくり!味わいたい!」

勿体ない!と嘆く彼は正に庶民派。
呆気に取られたふたりだったが、しかし「でも美味しかったな…」と肉を反芻する秋声に堪らず声を上げて笑ってしまった。

「気にするのはそこかよ秋声」
「美味しいものを美味しく食べるのは当然だろう?」
「まー、そうだけど」

くつくつと笑う独歩のどんぶりからひょいと秋声は肉をつまみ上げて自身のどんぶりへと移した。

「あっ秋声それ俺の肉!」
「さっきまで無為にヒトの口に詰め込んでた奴がケチくさいことを…」
「あー…あー………」
「秋声、僕のも食べなよ」
「島崎は自分で食べなよ。君はもっとしっかり食事をとるべきだ」
「むう…」
「贔屓だー……」

がくりと肩を落とすふたりに秋声はからりと笑った。
さて、食事が終われば今度は義務の時間だ。ふたりは秋声の分の汚れ物も持って立ち上がる。2時から4時がこの図書館でレベリング潜書タイムなのだ。この昼の時間に入らない、午前と夜を担当するガチ会派2つを残して皆が本の世界へと消えていく。

「悪いな」
「いや。頑張ってね」
「うん」

ふたりを見送って秋声はふうとため息を吐いた。
途端に静かになってしまった。一般解放をしていない館内は本当に何の音もしない。
以前は秋声も弓筆頭として午前と夜を担当してこの時間に残っていたものだが、兼任する助手の業務に追われて休む間もなかったからこのような静かな時間と言うものには無縁だった。だからか、だろうか。とても居心地が悪く感じてしまう。
なにより自分は今、なにひとつとして義務を果たしていないのだ。それどころか手を煩わせ無為に不安がらせるだけの無駄飯食らい。早々に消えてしまった方が周りの為になるというものだ。
けれど。

「まだ、まだ、もう少し…」

ここにいたい。
もしもこの自意識がないのならばこんなにも苦悩しなかっただろう。
もしも司書が無駄を切り捨てられる冷徹さを持っていたらこんなにも苦労しなかっただろう。
まだここにいられるという安堵は確かにある。でも、思い悩むことへの辟易が、他者へ責任を転嫁しての終焉を望む気持ちにもなる。
窓際の花瓶に中庭で育てたという向日葵が一輪、笑ってる。それが似合う友人の顔をどれほど見ていないか──いや、会わぬ方が良いのだ。自分の為にも彼の為にも。
僕が強く在る為に。
秋声は目を閉じた。ふとんに横たわり、息を詰める。

「どうか、記憶よ」

戻ってきておくれ。
そうすればきっと、元通り。
願いながら浚う、記憶の空白。掴むことの出来ないドーナツホール。
それで今も眠れないのを、知れば皆、笑うだろうか。笑ってしまってくれるだろうか。
疾る痛みにぎゅうと体を小さくして──麗らかな昼の日差しの中、ひとり、無駄な足掻きに身を苛む。





「ありゃ、もうダメだな」
「…そうだね」

そう独歩は言った。長い廊下に響く足音。藤村もまた同じく考え小さく頷く。
体が、ではない。心が、だ。
あれでは近い内に壊れてしまいそうだ。
平気な振りをして、怖いとか悲しいとかそういうのを全部自分の中に押し込んでただ笑う──それで平気でいられるヒトなどいないのに。日に日に不調の度合いが大きくなっていく秋声。もう永くはないだろう。すこんと意識を飛ばしてしまうせいか、運動不足が祟ってか──よく眠れていないだろう顔色はもう馴染みとなってしまった。
庭仕事をして少し焼けた肌に時たま酷く幼げに笑うかつての秋声は最早面影すらもない。
抜け落ちた記憶は彼のどれだけを占めているのだろう。
上手になった似合わない笑顔。穏やかさは、けれど彼らしくもある。静かな男だった。自ら進んで前にいくことはなくとも、自分の思いだけはいつも確かに持っていた。泰然とそこにいつも在った。むくれて、些細なわがままを口にして、そうやって笑う男の隣にいてそれを受け止めていた男がいないから狂うのだ。
きょろと寂しそうな視線が誰もいない誰かの定位置を撫でる。

「なにしてんだ、この……花袋のバカ」

詰る声は同時に、どうにも出来ない自分へと向けたものだった。





怖い、と言った。無理だと言った。
普段太陽のように明るい男が、そう言って小さく小さく踞る。

「俺はあいつに会えない。あいつの前で笑ってやれない。無理なんだ……あいつ、諦めてる」
「……そうだな」

隣に踞る親友を見て独歩は目を伏せた。余りの消沈ぶりに、いつか、自身が死に溺れていた時分の彼はこうであったろうかと遠い記憶を掘り返す。

「穏やかに笑って、あいつ、そんなんじゃないだろ!拗ねて、怒って、ぶすくれて!甘いから直ぐに面倒事は背負い込む癖に、絶対に嫌なことだけは頑として拒否して!あいつはそういうやつで!あんな、あんな……!」

あんなにも諦めた笑顔を浮かべるやつではない。
ひぐ、と喉を鳴らせて花袋は言葉を飲む。そのままうーうー唸って暫く花袋は泣いた。ただ泣いた。ぼろぼろに零れる涙は純粋に秋声を案じてのもので、だからこそ、美しい。そうまでして自分に正直に生きるのは、独歩にも藤村にも出来ないことだ。

「俺は……もう嫌だよ。見送るの。置いていかれるの…」

震える背中を撫でながら、そういえば、前世でこうして自身の為に花袋が泣く姿を見たことがあっただろうかと考えて、置いていった男はあったなぁと思い出した。そしてそれを嬉しく思ったことを思い出す。
きっと、あの時だってこうして隠れて泣いていたのだろう。なのにこのようについ泣いてしまった数度は彼の黒歴史に違いない。
独歩は泣く親友の肩を抱き寄せて、わしわしと固めの金髪を掻き混ぜた。

「そうだな……あいつは諦めちまってる。し、俺たちにあいつを助けることは出来ない」
「ッ!」

断言する独歩に花袋はびくりと震えた。
花袋にはそういうところがある。相手の等身大を思いやる純粋な心がありながら、自身の見たいところだけを見る、自分本意な傲慢さ。
誰が、秋声を救えるだろうか。
原因も分からず、司書や館長が総出で当たっても対処の仕方がない。日に日に打てる手も減り、彼の記憶も欠けていく。
ひとつとして満ちることのないそれに諦めずにいることがどれだけ酷なことか。
きっとそう思っているのは花袋だけではないだろう。哀れさ、不憫さ。希望。善意、応援。皆一様にしてその不安から目を逸らしている。
頑張れ、とは何に対してだろう。
諦めるなとは何を根拠に言うのだろう。
頑張れなかった自分を責めるような言葉を、人は簡単に投げ掛ける。頑張って、生きているのに。
死を指折り数えながら。

「花袋、あいつはもうだめだ。死ぬよ。全部、なくなっちまう」
「独歩……!バカ、なんでそんなこと言うんだよ!」
「言うよ。そりゃ言うって。だって……もう絶対にだめだった俺は、お前らがいてくれたから最期まで頑張れたんだから」

若くして病死した男は穏やかに微笑んだ。
治る見込みのない病に蝕まれた、前途を断たれた青年の無念さというのを、誰よりも独歩は知っている。それは、秋声が浮かべるそれとまさに同じに見える。透明で、もう、悩むのも、苦しむのも、過ぎ去った笑みだ。
もしも独りであれば、最期を迎える前に自死していたのではないか、と思う。痛みと苦しみの中で、無念と後悔の中で耐えきれなかっただろう。紡ぐ言葉が苦痛に染まるのは想像に容易い。
そうならず、自身の最期を確かに迎えられたのは全て花袋を始めとした支えてくれようとした者たちがいてくれたからだと独歩は思っている。
献身、親愛、信頼。花袋らのそれらが独歩を支えた。そして花袋が独歩の命を守り文学を育てた。
そう言えば、花袋はぽかんと呆けて独歩を見た。涙に濡れて間抜けな顔だ。鼻水が出ているのを、花袋のシャツを引っ張って拭ってやれば、一瞬されるがままになりながら「って、うおい!止めろよ!」と手を振り払われた。
憮然とした顔で睨まれて、嗚呼、いつもの花袋だと独歩は笑う。こうでなくては調子が狂う。

「あいつ、なにも言わないけどな。すごい寂しそうだ」
「……」
「…俺が言えた義理ではないとは分かっているけど。俺は、お前がいて救われたよ。だから…」
「…うん」

言葉を重ねる独歩に花袋は小さく頷いた。

「……うん、そうか。そうか。俺は、お前の救いになったのか」

今度は花袋が腕を伸ばして独歩の首に抱き着いてきた。涙をこれでもかと流した頬が、腫れたまぶたが。それでもへにゃと眉を下げて笑う顔は、彼らしい。ふぐふぐと肩口で震える花袋に、まぁ、洗濯すればいいかと諦めてその背をぽんぽんと叩いてやる。

「なったよ。助かった。お前がいてくれてよかった。お前が友達でよかった」
「独歩…!」

ぎゅうと抱き着く腕に力が更に加わった。
あの頃、死を前にした自分の苦しみしか感じられなかった。早くして死んだ自分は、誰かを見送ることなんてなかった。憤慨し、焦燥し、悲嘆して、奮起して、命のすべてを燃やし尽くすべくに生きたあの時に、省みるべきは自身の足跡と考えていた部分は否めない。
だから知らない。
置いて逝かれることが、こんなにも辛く悲しいことなんて。
置いて逝くことが、こんなにも周りを悲しませるなんて。
いつも元気に笑う花袋は泣いて、遠慮知らずの藤村さえも口をつぐみ──遠慮もなく笑みを浮かべるようになった、秋声、その人。その死の蔓延に恐怖が、惜別が、胸を突き刺してこんなにも世界を暗くする。

「…はいはい叫ぶなって。ああもう。だからな、お前がそうやってな、苦しんでるのは分かるし、苦しませたのが俺だってのも分かってる。でもな、だからって秋声を避けるのは違うだろう?あいつ、お前が顔見せないってしょげてるんだ。なぁ花袋、あいつを救ってやってくれよ」

それでも死に逝く自分は、そうして側に在る人のおかげで頑張れたのだ。

「笑わないでいい。泣いてくれてもいい。ただ、側にいて欲しい──俺は死に際にそう願ったよ」

下手くそな笑みで良かった。
何故、と言われるのは独歩だって辛かった。
何故、死ぬのか。何故、病気になったのか、なんて。誰だって望んでもなければ理由さえも分かりゃせずに、ただ死ぬまでの時間に怯えた。
癇癪を起こしたことだってあった筈だ。泣いて怒って、怯えて、呆れて嘲笑った。
それでも結局、いつだって側にいてくれた友の存在のお陰で、命を貫けたのだと独歩は思っている。

「志半ばで死ぬのはつらいんだ。無念に終わるのは苦しいんだ。せめて、せめて寂しくないように。なぁ、今度は寂しく独りで死なせないようにしてやろうぜ。一緒にいてやろうぜ…」

最後まで生き残り、妻の、友の、師の、多くの死を見送った男の2回目の生の終わりを見送ろうと、若くして、道半ばで死んだ男は言う。それが見送られた側の、本来在らざる2回目を送る彼らの、友の義務というものだろう。

「お前のつらさ、ようやく分かったよ。でも、今の秋声のつらさは、お前には分からないんだ」

若くして置いていく者のつらさ、置いていかれる者のつらさ。どちらも比べるものではないのだろう。けれど、片側にしかいない花袋にはどうしたって置いていく者の無念は分からない。
ならば、いつかに先に置いていった花袋がきちんと、今度こそ、見送るべきだ。若い身体に心が引きずられて不安定になってしまう、今の人生は面倒だけれど。それでも確かに老いる程に生きた、文豪様なのだから。
それに、と独歩は胸の内で思う──このまま会わぬままに秋声がなくなってしまえば、きっと、誰よりも傷付くのがこの花袋という男だ。
優しいから、弱いから。このまま会わず終いで本当の意味でなにも知らない秋声を迎えたとしても彼は後悔し続けるだろう。あの時もっとこうしていれば、と。
結局にして今、こうして秋声を避けているのも彼を救えないなどと傲慢な悩みを思いやっているからこそ。秋声の消失を誰の所為でもないどうしようもないことだと独歩も藤村も司書も秋声本人でさえ理解しながら、彼だけが、花袋だけが自責へと変えてしまっている。
抱き締めた花袋がどうにか独歩から離れようともがいている。嗚呼、そうやってお前ひとりを苦しませてなるものか。必死になって花袋を抑えて顔を上げさせないようにする。

「お、ま、えええ…!」

ぐぎぎと唸りながら花袋は顔を上げようとするが、実は独歩だって今は花袋に負けず劣らずぐちゃぐちゃになっている筈なのだ。そんな顔は見せられない。

「……お前にはさ、俺がついてるから。お前は、あいつを支えてやれよ」

そうすればお前は──静かで地味ながら全力の攻防戦は続く。
ぎりぎりと歯噛みしながらようやくにして抵抗を止めた花袋が独歩の肩に素直に額を預けて溜め息を吐いた。

「…この頑固者」

そして呆れたように笑った。

「俺もお前も、一緒になって秋声を支えるんだろうが」
「…そうだなぁ」
「そうだよ」

力の入っていない花袋に、独歩もまた腕の力を緩めていく。同じく花袋の肩に額を預ければ、顔を伏せたままわしわしと花袋が独歩の頭を撫でてきた。

「あとな、お前は俺を支えるけど、俺もお前を支えるし」
「…………そうだなぁ」
「へへ、そうだよ」

笑った花袋に応えて、独歩もまた笑った。
バカみたいだ。希望なんてないのに。
花袋が秋声に会いに行っても、結局、変わることなく遠からず秋声は消える。
どんな風に消えるか等はわからない。
それでも──死、だけは変わらない。
秋声が死んで。
花袋はきっと泣くだろう。
多くの人がきっと泣く。だって、あいつは最古参としてほぼ全ての人に関わってきたから。生前は深く交流することもなかった──友達の友達、という立ち位置だ──自分も、今生では確かに誼を結び、親愛を抱いているから。
悲しくて泣いて──それでもこいつがいれば、自分は立ててしまうのだ。

(悪いな、秋声)

きっと今もひとりで苦しんでいる秋声を置いてきぼりで、自分が救いたいのは目の前の親友だと自覚する。

(お前の境遇には同情する。そして、共感しよう。辛いだろう、苦しいだろう──それでも、)

秋声の為だけに花袋を潰す訳にはいかない。壊れたお前の余波で、親友を悲しませる訳にはいかない。

(嗚呼、俺は酷い奴だ)

秋声の為に、と言って。
花袋の為に、と言って。
結局──自分ひとりだけが救われてしまった。
秋声は消える。なくなる。失われていく。そのことに変わりはないのに。
救われるべきは自分じゃないのに。

「……クソ、」

誰に謝ることも出来ない、自分だけの罪悪感。
小さく毒吐けば、抱えたままの花袋が「どうした?」と小さく問うてくる。
「なんでもない」と嘘吐いて、独歩はより強く彼の向日葵頭を抱き締めた。

気まずさも確かにある。
それでも、花袋と共に秋声を支えると決めたのは自分だ。今更、避けるなんてことは出来ない。
秋声を救った振りをして、花袋を救った振りをして──嗚呼、なんて卑怯なのだろう。
救われたのは他でもなく、独歩自身だ。

「キッツイな、ほんと」

ごめんな、秋声。
俺にお前は救えない。









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