秋声喪失表現有






 僕は僕だと僕は云う。
 僕を僕だと君は云う。
 僕が僕だと証明するものはなにもないのに、僕を僕たらしめるものが何なのか。この体が脳が心が──どれもひとつとして本物はないと云うのになにをして、なにを以て、僕の何が残っていれば僕なのだろう。
 僕が僕として僕たらしめるものとは、一体なんなのだろうか。





「なに、変な顔してんだ?」
 笑みを含んだ声がする。花袋だ。あの大きな垂れ目が笑みに歪むと愛嬌ある犬のようで憎めない、僕の大切なともだち。
 変な顔ってどんな顔なんだろう。分からない。いや、無理矢理に笑って見せた顔はきっときっと、いびつで、おかしいことだろう。
 僕は心臓が立てるどこどこと嫌な音に聞き入っていた。痛い。痛い痛い痛い痛い。胸どころか喉までもを締め付ける痛みに無意識に胸元を掴んでいた手に気付いて、努めてゆっくりと下ろす。
「…秋声、顔色悪くない?体調悪いの?」
「いや、そうじゃない、けど。ごめん。大丈夫。えっと、それで?なんだっけ?」
「それでって──なにいってるんだ?お前もあの時いただろう?」
「……………そう、だっけ?」
 嗚呼、痛い。胸が。頭が。突き付けられる事実に呼吸までもが止まりそうだ。
 昼下がりの談話室。テーブルをひとつ陣取って花袋が話すそれは生前、彼と島崎、そして僕の三人で出掛けた時の話だった。温泉だかに行って執筆や論争に励んだ若かりし頃の楽しい思い出。島崎が珍しく楽し気に微笑んで記憶を披露すればする程──僕は、胸が痛くて痛くて、苦しくて。
「そうだっけ…ってなぁ。秋声お前、覚えてないのかよ」
「………ッ!」
 ──そう、僕は彼らの語る思い出がまるで思い出せないのであった。
─笑いを含んだ花袋の言葉が、面白くもない冗談を責める視線が、僕の胸を抉っていく。
─胸が痛い。そこにぽっかりと空いた穴があることを知っている──初めから。この姿になったその最初から──僕の記憶にはまるでドーナツの穴みたいに埋められないものがあるのだと。
 奈落の底を覗くような心地で瞼の裏を眺める。暗い暗い、そこにあるのになにも映さない暗闇は、そう、まるで──この胸に空いた穴と同じだった。

「秋声ッ!?」
 肩を揺さぶられてハッと目を見開いた。顔を上げれば花袋と島崎の心配そうに覗き込んで来る顔。
「あ、れ…?」
「秋声!バカ、お前!体調悪いなら言えよ!もう!」
「ぼく…」
「覚えてないのか?今、急に椅子から転げ落ちて──意識がなくて、すげぇビビったんだからな!?」
 僕は花袋の膝に頭を預けているらしい。地味に固い。しかし言葉もなくただ胸を押さえる。ぐるぐるぐるぐる、世界が回ってる。消えない胸の痛みに小さく唸り、横を向いて背中を丸めた。
「秋声…胸が痛いの…?」
 そっと背中を撫でる手の暖かみ。島崎の気遣わしい声。
 きん、と耳の奥で音が鳴る。
 痛いんだ。痛い。胸に空いた大きな穴が。その手の暖かさが。いたい。なんで。どうして。
「急患はどこだっ」
 かつかつと靴音を鳴らせて談話室に入ってきたのは森先生。どうやら同席していた国木田が呼びに行ってくれていたようだ。そのままなんだかんだと僕は森先生に抱えられて補修室へと向かった、らしい。
 その頃には僕はもう意識がなくて──次に目を覚ました僕は、そのことをなにひとつとして覚えていなかった。





 秋声が談話室で倒れた事件はそれなりに図書館を騒がせた。
 秋声は長生きをした文豪でありそれなりに健康で、元気で、最古参のひとりでよく皆の世話を焼いていた。その場にいた者たちは鴎外に横抱きにされた秋声の呻き声も聞いていたし死人を連想させる青白い顔は普段の元気のよさからは掛け離れており──一部の文豪のトラウマを刺激した。
 そして始まる秋声愛護週間である。
 潜書もなし、助手の仕事もなし。原因不明の失神は過労の末ではないかということになったのだ。
 強制的にふとんに押し込まれることを余儀なくされた秋声は、しかし見舞い客の対応に大忙しだった。とても休める状態ではない。
「よーう、体調はどうだ?」
「国木田。どうだと言われても、なんともないって何度言わせたら気が済むの」
「すまんすまん。だがな、アンタが倒れたとこ見ちまってるからなぁ」
 そう苦笑して独歩は小上がりに腰掛ける。
 秋声の部屋は和室だ。一部屋六畳ほどある個人部屋は入り口から半分かそれより少ない程度だろう、改装前のままの板張り床で来客が靴で上がり込めるようになっており、クローゼット等の備え付けの収納はそちらにある。
 残りの和室部分は靴を履いたまま腰かけるには丁度良い四、五〇センチほどの小上がりとなっている。木枠の上の畳を外せば収納として使えるのだから、独歩は初めて秋声の部屋を見た時になんと惜しい選択をしたものかと悔やんだものだ。未だ羨ましいと思いつつ端にある沓脱石の見慣れた草履の横に己の靴を放り投げ、脚を崩して座布団に座った。
「それは……悪かったと思うけど」
「記憶、ないんだろ?」
「………うん」
 手土産に持ってきたドーナツをひとつ選んで取り出して噛み付いてから、ほら、と秋声に箱を差し出せば、彼は「順番違くない?」と呆れたように笑った。
 秋声は──倒れる前に花袋たちと話していた内容を、一切覚えていなかった。それどころか、話をしていた時のことすら。
 覚えているのはその日、交流をという主旨で集まったのだという概要でありただの骨組みそれひとつ。
 体調が悪かったことに起因しているのではという仮説は秋声本人が否定している。曰く、記憶が残っている途中まではそのような兆候はなかったのだと。
 しかししかしとの仮説はけれど平行線。とりあえず安静にしておこう、が現状となる。

「……国木田」
「ん?」
 不意に呼び掛けられて独歩は首を傾げた。
 見れば秋声は選んだドーナッツを持ってなにかを迷うような素振り。独歩は促そうかどうしようかと逡巡した、が、彼よりも先に秋声が意を決したように顔を上げた。
「国木田にはさ、ある?」
「なにが?」
「穴」
「は?」
 端的に答えられたそれに意図を図りかねて独歩は眉を寄せた。耳鼻目口とケツの穴ならあるのだけれど、きっとそんなことを聞きたいのではないのだろう。
 秋声はまるで親の仇のように睨み付けていたチョコレートの掛かったドーナツにかじりついた。どっしりとしていて口の中の水分が奪われていく。小さくかじってはそれを飲み下し、はぁと溜め息。
 尋ねておいてのその態度。いや、答えを己に求めているそれはただの独り言でしかないのだろうと推測は立つけれど。それでも少し面白くなくて独歩は「で?」と言葉少なに促した。
 思わせ振りに振ったのだからさっさと言ってしまえ。そんな乱暴な独歩の思考を読んだのか、観念したように秋声は肩を竦めた。
「…僕には多分、あるんだろう。穴が。心に開いた大きな穴が。頭の中の大きな虚が。前世の記憶。みんなとの思い出。そういったものを飲み込む大きな穴──そうだね、まるで、このドーナツみたい。この穴を穴だけ切り取れないように、そこにあるのに、そこにないのに、どうにも憶えてないということだけは確かに憶えているんだ」
 そう言ってかじったドーナツは欠け、円を壊す。それでも確かにドーナツはドーナツで、穴は穴のままで。ないものねだりのわがままと、落とし穴をこわがるこどもの怯えがそこにはあった。
 独歩はなにも言わずに秋声を見た。なにも答える言葉がなかった。彼が求めているもの。彼が埋めたいもの。
 それを独歩は持っていない。
 持っていないからわからない。
 自身を構成する大事なピースを持たない秋声の気持ちなど──
 秋声は笑った。どこかあどけなく。どこか諦めたように。掲げたドーナツの、その欠けた穴を通して独歩を見ながら。

「ねぇ、ドーナツの穴って、どこまでが穴なのかな」





 徳田秋声は最古参の文豪である。
 と、同時に──記憶の欠損の激しい文豪としてよく知られていた。
「…秋声の、欠けた記憶に触れたからじゃないかなと僕は思ってる」
 藤村は言った。その場に他には花袋や尾崎、泉、そして鴎外諸々──ほぼ全ての文豪がそこにはいた。皆一様に厳しい表情をその顔に刻んでいる。
「倒れたのは僕たちと会話していた時。そして、それをなかったことにしてる。だから」
「……しかし、徳田先生の欠けている記憶に触れたのは今回だけでは決してない筈です」
 藤村の言葉にすかさず川端が口を挟んだ。彼も、特に秋声に忘れられてしまった人物のひとりだ。もしも欠けた記憶が禁忌であれば、それは川端の存在からして既に、いうことになる。
「…じゃあ、なんだっていうの?秋声が倒れたのは、もう3度目だよ。それさえも忘れて──それの所為でまた倒れて。どんどん、欠けていく」
 苛立ったように藤村はそう低く言う。彼の言う通り、あの日以来、半月も経っていないのに秋声は3回も倒れている。欠けた記憶を追求した時。雑談の途中で。そして、図書館の片隅で。
 誰もいない図書館でひとり倒れて冷たくなっていた秋声を見付けた南吉の悲鳴が、慌て振りが、そしてその事実が、どれだけ仲間を驚かせただろうか。
 それなのに、補修室で目覚めた彼は、まるで何事もなかったかのようにすっきりとした目覚めで「どうしたの?」と笑う──そう、本当になにもなかったことにして。
 お前は倒れていたのだと指摘しても「僕が?そんな訳ないよ。僕は健康だもの」と笑ってつれない──もう、倒れたことすら忘れてしまっている。
 転生とはつまり、その構成するものを、司書から与えられた形を事実として受け入れることだ。例え記憶に欠損があろうとも、その知識、経験、思い出──〇〇があれば、と本人であると証明する共通事項を拠り所に相手を相手として認識しているのだ。そんなあやふやな存在で、誰しもが自身が本当に文豪であるか、一抹の不安を持っていると言うのに。
 秋声は、己が己であると言う証明を取り溢してしまっているのだ。
 このままなくしておとして空っぽになったその先に彼らが待ち受けるものはなんだろう──同じ転生者として、秋声に起こることは文豪全員に起こりうると言っていい。それがどれだけ皆を怖がらせたか。
「何故、秋声だけが?」
 同じように記憶の欠けた文豪はいる。
 改めてその記憶の欠損についてを定義しよう。短期記憶、雑に言うと些事における欠損などは生きていれば当然あると言えるが、ここでは所謂インパクトのある出来事や人物との接触、などの長期記憶と呼ばれ忘れ難いだろう大事を示す。言ってしまえば彼ら文豪の著作や経歴をさらえば確認出来る変えがたい「事実」が特定文豪から失われてしまっている、ということだ。
 しかしそういったものは粗方ではあるが共感子となる「誰か」「何か」との接触により埋めるということは可能であり──それが正しく働いていない唯一の例外が、秋声だ。彼は川端やなんや、といった面子を見てもその記憶を揺り動かすことはできず──終いには通常保持する短期記憶もなくしてしまうようになってしまった。
「…そもそも、俺たちの転生とは?」
 ぽつりとこぼしたのは菊池だった。
「俺たちの記憶は──事実として記されたそれと、作品の印象とを混ぜ合わせたような──前世と同じ記憶、人格と言えないだろう。作られた記憶や人格が、上手く保存されなかったのが……」
 転生と言っても前述の通りに型に当て嵌められた存在だ。正しく生まれた訳でもなく──同一存在が消えた場合にはまた新しく、それこそ正しく同じ存在が「転生」させられるだけ。そうやって「作られた」モノが彼らなのだ。
「…成程、それが、徳田先生だと寛は言うんだね。僕たちは皆、人格に付随する最低限の記憶という初期データを持って転生し、知人や縁があったとされる人との出会いが一定の記憶──追加のデータを引き出す鍵となるが、徳田先生はそれを上手くダウンロードすることが出来ない。それが…なんのバグかはわからないけれど。彼が倒れるのはその処理が上手く出来ないから。そして、その前後の記憶すらなくなってしまうのは、処理落ち直前のデータのロードを失敗してしまっているから、と」
「は?処理落ち?データ?ロード?──なんだよそれ…!」
 菊池の言葉を引き継いだ芥川に激昂した花袋がバンとテーブルに拳を振り下ろした。
 彼らが言っているのがパソコンやゲームを見立てだとは理解できるが──生きて、考えて、笑って怒って泣いて手を繋ぎ合う、自分達のことを言っているとなるとそう易々とは受け入れることは出来ない。
「俺も藤村も、秋声も、ちゃんと生きてる!変なことを言うなよ!秋声は、きっと、言えば思い出す!なくなってなんかなくて、ただ──」
「田山、落ち着け!俺たちだってそれは分かっている。だがな、現実として、俺たちの今の生のおかしさを分からないやつがここにいるか?女の胎から産まれず、既に成長した姿で命を始める俺たちの異常さを、考えたことがないやつがいるなんて俺は言わせないぞ」
「……ッ!」
 この問題を語るに要となるのはそこである。深く考えてはいけないだろうと知れず回避してきた、自身たちの命の根元。
 ぐるりとその場の面子を見渡して、そして言葉を詰まらせた花袋を見据えて菊池はそう吐き捨てた。
「こんなもの誰が冗談で言えるか。俺が言っているのは確かにただの仮説に過ぎないが──問題は、徳田にだけに起きることではないということだ。転生してきた俺たちの誰かにもいつかに起き得るかもしれないということを忘れるなよ」
 釘を刺す菊池の顔は険しい。彼だって、本当はこんなことを言いたくないのだ。
 それでもこの問題を秋声のものだけだと思うことは出来ないからこそ、皆、平等に起こりうることだと他人事だと思っているやつに言わないといけないのだと心を鬼にしているのだ。
「……秋声がなくした記憶を気にしているのは知っているさ。自分の年表を見て、必死に頭の中の穴を繋げようとしているのを皆知っているだろう。
 だが何故、今になってなのか。紙面上の情報も、誰かの口から語られる思い出も、全て今に始まったことではないのに、何故……」
 そう菊池は呟くと、顎に手を添え自身の思考へと沈み込んでいく。
 いつ誰に起こるか分からないこと。引き金が分からないそれは、彼らの胸を一抹の不安で濁らせる。
「……記憶がないって、どんな気持ちなんだろう」
 張り詰めた空気の中、手帳を見ながらぽつりと藤村が言った。
「記憶がなくなっていくって、どんな気持ちなんだろうね」
「……それ、秋声に直接聞くなよ」
「分かってるよ、花袋。僕だって流石に弁えてる」
 花袋の言葉にうすらと藤村は笑った。なくしたことも分からない人に尋ねるなんて、無意味だから。
 ──なくされた自分を数えるなんて、虚しいだけなのだから。
「原因も分からなければ要因も、自覚も、なにも分からないなんてお手上げだなぁ」
 そう独歩は言って椅子に背を預けて顔を上げた。
 まるで投げ出したような言葉だが、特に秋声とつるむことの多い彼ら自然主義の面子の献身は知っているから腹を立てることだって出来やしない。
 それを見てぎりと鏡花は拳を握り俯いた。その肩を気遣わしげに紅葉が撫でる。彼の気質と秋声の状態から、なにが引き金となるか分からない今、秋声を揺さぶらないようにと接触を控えてもらっているのが現状だ。
「徳田は館長とネコの合わせ技で転生したと聞いている。つまり俺たちとは生まれ方が違うから、あいつの状態がそのまま俺たちに適用されるかはいまいち分からないな」
 そう志賀は言う。
 結局、特に有意義な意見が出ないままにその日は解散となった。





 何度目だろうか、その顔を見るのは。
 いつかに咲いていた薄桃色の桜が既に新緑へと変わり影を黒く黒く描き出す頃、僕は気付けば補修室のベッドのひとつに寝かされていた。そのてのひらを花袋が握っており、身じろぎに気付いた花袋が顔を輝かせて僕を呼ぶと、直ぐ様に翻って森を呼ぶ。
 簡単な触診の後──「なにか覚えているか」の、あやふやで、主旨の分からない“いつも”の質問。
 なにがだろうと分からずに首を傾げれば、彼らふたりはまるで鉛でも飲んだかのような渋い顔をする。
 ──何度目だ。
 いつからこんなに大きな思い出せない記憶があったのか。
 考えて、それは転生時からであったことは置いておくも、記憶を探れば虫食いになっていることには簡単に気付いた。
 知らぬ間に寝ている自分。記憶を問われ、思い当たる節がないと答えれば、痛みを堪えるような、恐怖するような、なんとも言えない眼が秋声を無言で責め付ける。
 何回、何回と繰り返し、もう一回も並べられるのは同じ顔。聞かされないまま殺された責める声を確かにその眼から聞いていた。
「お前、疲れてるんだよ。倒れるなんてさ」
 花袋が言う。もう随分な付き合いなのだ、彼の作り笑いは分かる。いや、下手くそなそれはともすれば誰だって分かるだろうか。
「…そうかな?ちゃんと休んでいるのだけれど」
「どこか悪いんじゃないか?司書に言って今度ちゃんと調べてもらおうぜ。ほら、今日の潜書はナシだからな!」
「ええ……最近なんだかこんなことばっかりだ」
 僕は元気なのにとぼやく秋声に、花袋は顔を強張らせ、やっぱりぎこちなく笑みを浮かべて誤魔化そうとするから仕方がなく秋声も乗ってあげる。
 どうしてもこの素直な友人には甘くなってしまうのだ。
 ──ねぇ、僕はなにを忘れているの。
 なにをなくしているの。
 胸の大きな穴に、その質問を何度も何度も押し込んだ。僕を飲み込もうとするその穴は、いつ決壊するのだろう。こわいなぁ。こわい。こわいんだよ、花袋。しらないことが、おしえてもらえないことがこわいんだ。
 なにも知らないままでいるのがみんなを傷付けていることを知っているのに、みんなの気遣いを理由に尋ねることのできない自分こそを、卑怯と呼ぶのだ。



 寝巻きのままに体を起こした秋声に南吉は声を掛けた。呼ばれた彼は穏やかに微笑んでどうしたんだいと返してくれる。
「ううん、なんでもないよ。早く元気になってね」
「うん、ありがとう南吉くん」
 ばいばいと手を振れば、秋声もまた手を振り返す。
 最近の秋声は記憶の欠落に体調不良を伴うことが多くなった。もう倒れるのは日常茶飯事で、潜書などをしないようになって随分と長い。次第に状況が悪化していくのを誰もが感じていた。
 ──勿論、本人も。
 自覚的になにかがあると察してから併発するようになった吐き気や微熱、それだけなら誤魔化せたのにな、なんてことを思う。なんとひどい奴だろうか。いや、実際、そういう初期症状は全て隠し通した訳だが。
 でも駄目だった。目眩や、手足の痺れ。行動を如実に制限するそれは隠すことが出来ず、今では布団から出られない日も多い。
 見舞いにきてくれるのは嬉しいと思う。けれど、彼らの眼の全てに、大なり小なり、怯えが見え隠れしているのをしっかりと理解できてしまう秋声はそれが少しつらかったりする。
 どうして、と考えて胸に激痛が走り、秋声は息を詰めて身を縮めた。痛いいたいイタイイタイイタイ。
 食い縛る歯から漏れた呻き声は、しかし雨に掻き消されてくれただろう。そうして踞って我慢すれば──気を失うこともしばしある──しばらくして波が引き、漸く体を起こすと額から冷や汗が伝う。
 こうして、穴だらけになった記憶に触れれば酷く胸が痛む。それは壊れた硝子細工に触れて軋ませる行為に似ていると思う。壊す指先に、ギイギイ、本体が悲鳴を上げるのだ。
 ぼうと窓外の雨を眺めて息を整えた。梅雨の湿った空気は重くて、気持ちが晴れることはなかったけれど。
「秋声、入るよ」
「島崎か、いいよ」
 ぼんやりとしているとノック音が響いた。許可を与えれば見知った顔がひょこりと現れる。
 あの面倒そうなブーツははかずにきたらしい、つっかけのサンダルを飛ばして島崎は小上がりに上がると、勝手知ったるなんとやら、座布団を取り出して布団脇のポットから急須にお湯を注ぐ。秋声は羽織った半纏を引き上げた。
「どうなの、体調は」
「んー、今日はいい方かな」
「そう」
 藤村が手ずから淹れてくれたお茶に口をつけて、ほうと息を吐く。湿気が高く暑いような梅雨の最中だ、面倒でつい冷たい水差しから少し水を飲むくらいでなんだかんだと冷えた体にしみこむ温かさが心地よい。低迷した体調は体温を上げることすら職務放棄をしてくれて、甚だ面倒で仕方がないのだ。
 ぽつりぽつりと藤村が溢す言葉に相槌を打ちながら、何気ないように秋声は言った。
「島崎は、聞かないね」
「ん?」
「記憶のこと」
 息を詰まらせた島崎に秋声は微笑んだ。普段の気難しく寄せられた眉間にシワはなく、ただ穏やかに。
「島崎なら聞いてくると思っていたのに、一向に聞こうとしてこないからどうしたのかと思っていたよ」
「…そう、言うなら。聞いたら答えてくれるの」
「それは島崎次第かな」
 秋声の声はどこか弾んでいた。何故そんなにも楽しそうに言うのかは分からない。でも、聞いていいと本人が言うのなら遠慮の必要はないだろう。
 藤村はポケットからペンと手帳を取り出した。
「ねぇ、記憶がないってどんな気持ち」
「ふふ、ここまでくるとね、もうどうでもいいかなって気分になってくるよ」
「………どうでもいい?」
 楽しげに笑う秋声に藤村の声は少し尖ったように聞こえた。
 確かに他者の心配を含めての総評に聞こえてしまったのかも知れない。まぁ、秋声としてはそうとは違うのだが。だから、一層穏やかな声を意識して紡ぐ。
「僕の記憶が抜けていく、その恐怖に駆られたこともあった。でも、もう、なにがなくなったか分からないんだ。分からなすぎて、なにを怖がればいいのかも分からない」
 一周回って突き抜けてしまったのだ。言いながら、そっと自身の分身たる本の表紙を撫でる。
 飾り気のないあの弓を随分と見ていないなと思う。本当に地味なものだった。地味で実直で、確かに自分らしくて、気に入ってはいたのだ。
 ──もう、二度と手に触れることはないのだろうということはよく分かっていた。
「君は、僕のなくした記憶を知っているだろう?でも、それを教えてくれたことはないね。花袋や国木田も同じだ。師匠もね。……それに意味があるのか、と考え始めれば……際限がない。どうせ聞いても覚えてないんだ。それなら、聞くだけ無駄と言うことだろう?」
 もしかしたら聞いたことがあったのかも知れない。
 もしかしたら教えてくれたことがあったのかも知れない。
 では、何故それは途絶えたのか。継続しない事柄に挙げられる要因のひとつは──無駄だから、だ。
 聞いても思い出せないから。
 聞いても覚えていられないから。
後者に関して言えばそれは時間経過によるものだろうか。いや、なにかを堪えるような表情で秋声が起きるのを待つ友人らを鑑みるに、気付くと寝台に横たわっている自身の何かしらの身体的異常を伴うものであるのではないか。
 考えてみればそうだろう。この数ヵ月で何度倒れているのだ、自分は。一度として語られたことがないという方がおかしい。
また、推測のひとつとしては語る記憶に語り手の苦痛を煽る要因があるとも考えられる。
精神的苦痛を押して嫌な話をして、それの所為で友人が倒れる精神的苦痛を味わうだなんて、秋声だってそれは御免被りたいところだ。

「君たちを傷付けてまで、欲しいものはないよ」

ごめんね。
戦えない自分など、転生させられたその理由からすれば穀潰しでしかないのに、司書はそれでも秋声に最大の配慮をしてくれている。初期は物資不足でひもじい思いをしたこともあった。それが解消された今となっては大それたことではないが──戦えない自分にも食事や貴重な洋墨を精製した薬を与えてくるし、司書のみならず文豪一同もなにそれと顔を見せに来てくれたり、原因の究明にも尽くしてくれている。

「君たちには申し訳ないことばかりだと──」
「なんか、遺言みたいだね」
「そうかな?」
「うん。……死ぬことを覚悟してる?」
「さぁ、どうだろうね」

僕たちの命の終わりを死と呼ぶのだろうか。純粋に疑問に思ってそう首を傾げれば、藤村は「確かにそうだね」と納得して何事かを手帳に書き付ける。

「なにを以て、諦めたの」
「そうだね……君たちの何人かの顔と名前が一致しなくなってから、かな」
「………そう、なんだ」
「そうなんだ。正直ね、島崎が来た日のことも覚えてない」

そう言って秋声は振り向いて布団脇の卓から小さいノートを取り出した。表紙は装飾のないクラフト紙。ぱらりと捲ったその中はなんのへんてつもない、白いページに薄い罫線があるばかりのA5ほどのノートだ。

「……それは?」
「僕の日記。ここには確かにね、君が来た日のことが書いてある。まぁ、君が今いるなら、いつかに来たのは当たり前なんだけれどね。抜けた記憶のことがね、書いてあるんだ。でも、書く前になくした記憶は分からない。もどかしいね」

日記の表紙を大切そうに撫でる秋声の手を藤村は捕まえた。そして言う。

「ねぇ、中見たいな」
「……ただの日記だよ。見てもつまらないさ」
「それでも」

爪先までも白い冷たい手だ。日に日に熱がなくなっているように思えてならない。
これが命をなくしていくことなのかと思いながら手を撫でれば秋声はくすぐったそうに小さく笑った。

「そうだな…もしも僕が片付ける前に消えてしまったらね。そうしたら、見られても仕方がない」
「……いいの?中、見るよ?」

その答えに少し驚いて目を開けば「君が見たいと言ったんじゃないか」と不思議そうに秋声は首を傾げた。
だって。
だってそう言えば、君が怒ると思ったから。
最近ずっと穏やかを装って、前みたいに声を荒げることもしない。最期の、さいごを、穏やかに努めようとする末期者の凪。

「まぁ、僕が知らなければいいんじゃないかな。君に片付けさせることになってしまうのだもの」
「そう、分かった」

駄賃代わりさと言えばあっさりと手を放され、持つ帳面を卓へとそっと戻す。

「……やっぱり」

──遺言で合っているじゃないか。
ぎり、と奥歯を噛み締める。途切れた小さな呟きが届かなかった、日記を戻す為に向けられた背中の、細くなった線を見ながら藤村はそう思う。自身の消滅を疑わないというのは、抗わないというのは、つまり死を覚悟しているということに他ならない。
止められないそれに歯がゆく思えども、振り返った不思議そうな表情を見てしまえばいかに藤村であろうとも詰り責めることは出来なかった。

「…ねぇ」

藤村は質問する時、相手から眼を逸らさない。秋声は真っ正面からそれを受け止めて「なんだい」と応えた。

「記憶をなくすって、一体どんな気持ち?」

最初の質問とは少し、違う。
なくした事実に、ではなく、なくしていくことを自覚することへの問いだ。

「そうだな……」

秋声は口許に手を添えて考える。灰色の瞳に影がかかり、くらく、くろく、色を沈ませた。

「島崎はさ、自分が自分であるとなにを以て証明する?」
「え?」
「僕を僕たらしめるものが何なのか。この体が脳が心が──そのどれもひとつとして本物はないと云うのに、なにをして、なにを以て──」
「秋声?」

秋声の声が不意に沈んだ。考える為に口に添えた筈の手は滑り、顔を覆ってしまっておりその表情は伺えない、が。

「それでも僕が僕だと云うのならば君が僕を僕だと云うのならば、ならば僕が例えば眼が三つに口が二つに、顔が半分に腕が二、三本に千切れて脳がなくなっちゃって声が宇宙人に変わってしまったとしても、それでも──僕は僕だと君は言えるかい?
僕の何が残っていれば僕なのだろう。僕が僕として僕たらしめるものとは、一体なんなのだと云うの」
「秋声、いいよ、もう、秋声──」

つらつらと早口に語られるそれは、先までの穏やかさはなく。
がたがたと震え、顔を覆う指の隙間から覗いた秋声の眼の色は混沌としていた。いつもの優しい灰色はない。光のない闇が確かにそこにある。でも口許は歪んでる。わらってる。
これは、これが、彼が笑顔の下に隠した恐怖。

「ねぇ、島崎。僕たちは壊れてもまた次があるよ。だから、恐れることなんてないんだ。だって、にしゅうめ、次の、僕がいる。がらがら、僕がくずれても、つぎの僕がいるから僕は死なない。いたくない。いたくない」

ぽたと滴が彼の顎を伝って落ちる。

「僕は死なないから、こわれることもない。いたむこともなければ忌むこともない。きみたちと、また、次のぼくはわらってる、から。いたくても。いたくとも。ぼくがなくなってもぼくはなくならないんだ。いまのぼくがぼくでなくなっても、次のぼくがいるからだいじょうぶ。まだ、だい、じょうぶ。こわれても。いたくとも。こんどは、次は──…………」

きっとだいじょうぶ。
譫言のように呟いた秋声は、ふ、と唐突に全身から力を抜いた。手を投げ出して、ぐらりと上体が傾いていく。
咄嗟に手を伸ばして抱き留めた藤村は、意識を飛ばした秋声をそっと布団に戻して上掛けを正した。
不意に、こうして秋声は壊れる。不安が彼のバランスを崩す。それの為につぐまれる言葉の数々、それの為につむがれる言葉の数々。
少し負荷が掛かりすぎてしまったらしい。といっても、こうなることは分かっていた。

「失敗、しちゃったなぁ…」

幼げな頬を一撫でする。血の気が引いたそれはまさに死の色だと思った。
──もしも自分達が、普通に死ねるとしたらだけれど。

「今度は上手く行くと思ったのに」

倒れてからリセットされてしまう秋声の記憶。何度と繰り返したお約束。壊れてしまった秋声。記憶をなくすのは最早いつものことだ、変わりはしない。
覚悟はできていた筈なのに。

「もう5回目なのに」

秋声は、藤村に死後を託して、託して、託して、記憶をなくす。何度繰り返しても、秋声が日記を託すのはいつだって己だけなのだ。そこにあるのは、信頼か、親愛か。繰り返し記憶をなくしても自身の根幹を揺るがす彼から直に手向けられる彼のそれは、藤村には少し重かった。

「君は…いたいと云ってはくれないね」

卓に無防備に置かれた日記帳。今ならば簡単に中身を改められるし、もしもそうしたとしても、秋声はきっと怒らないと知ってはいるけれど。

「どうしてだろう…」

そこに書いてあるものが、どうしても怖くて藤村は手を伸ばせない。
知りたがりの藤村が知ることを怖がるだなんてよっぽどのことだ。
それだけ重いことなのだ。

「ごめんね、秋声…」

だってそれは“今”の秋声が生きた証明。触れてしまったら“今”の秋声が壊れてしまうんじゃないかという恐怖。触れてしまったら“今”の秋声と上手く付き合うことは出来ないだろうという予測。
その苦しみを手に取れば君を少しは救えるかも知れないのに。

「ごめんなさい……」

苦しむ君が努めて穏やかを装っているのに、横で僕が泣く訳にはいかない──そうだろう?彼の言い分はよく分かる。
僕たちには「予備」があると知っている。だからこの異常な別れであっても「次」を示唆して笑って言うのだ──怖くない、だなんて。
そんな嘘を。
だって、藤村は怖いのだ。秋声を失うことがこわいのだ。
秋声が記憶を失う度、藤村が生きたということが失われていく。知らず知らずに降り積もる自身の死、少しずつ少しずつに削がれていく生き様。
次がある、と言い聞かせているのは藤村にではないだろう。彼は、そういってやることしかみんなを安心させてやることが出来ないと思って、自分の死への恐怖から目を背けている。自分の為の言葉を、誰かの為にと誤魔化して。

「君は、こわいと言って良いんだよ…」

届かない言葉を、眠る枕元に投げ掛ける。なんて、無責任な言葉だろう。
起きている君には言ってやれないのに、言ってくれない君を暗に責めている。
痛くない、筈がないだろう。
居たくない、筈がないだろう。
掛ける言葉がないから、せめて言ってくれたら抱き締めてやれるのにだなんて願ってる。開示を促す言葉すら持ち合わせないのに。
言っても良いなんて言ってやれずにごめんなさい。
言わないからこそきっと微笑む強さがあるのだろう。きっと。きっと、言ってしまえばその芯を壊すことと一緒で。
多かれ少なかれ、爪痕を残していく秋声だけが美しくいるなんてなんて不公平だろうか。
置いていくものは、きっとそれは無念であろう。けれど同時に──同じだけ置いていかれる者を傷付けるのだと自覚するべきだ。
悲劇のヒロインよ。どう足掻いても、君を忘れるなんて出来そうにない。温かな思い出も──こんな苦しみも与えてくれたのはこの壊れ行く友だけなのだから。
僕たちは、君は、皆。互いに怖がって手を伸ばせないままでいる臆病者だ。
秋声が全てを失った時──それは共に藤村という存在が壊された時という訳だ。
色を失った寝顔を見ながら藤村はギッと唇を噛み締めた。
僕たちは、繰り返す。スペアのある人生を。
「それ」は“今”の僕たちとはおんなじいて別物で、別物だけどおんなじで────ぼくたちっていったい、なんなんだろう。










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