──蛇足の話をしよう。
大切なものをひとつ選んだ男の話と、終わりを迎えた男の話を。








「その顔は、聞くだけ無駄って感じだな」

色眼鏡の向こう側で薄い色合いの瞳を細めて安吾は笑った。
「…おん。ワシ、やっぱりあの人を置いてはいけへん」

答えて織田は苦笑する。
仲間が日に日に壊れて、動かなくなっていく。
死という概念は昔経験したそれとは似て違っていた。それは、同じ姿形と似た人格形成した同一他人がいることにより死が形骸化しているからかも知れない。終わっても、どこかの自分は終わっていないし、新しい自分がどこかで生まれるのだ。いちどめの、あの虚しく苦しいばかりの終わりではなくどこか薄っぺらさを感じてしまい、織田はことこのことに関して恐怖を感じたことはない──太宰よりは、という注釈はつくが。
今、太宰は安吾の膝の上で寝ている。
それはなにかしら怪しい関係、ということではなく──彼の錯乱を安吾が物理的に止めたことに由来する。
太宰治は所謂、レアリティの高い文豪と言われる。その揺れやすい精神性に帰来するのか、彼は転生の難易度があまりにも高いのだ。
初期文豪としてあの人──徳田秋声の次に転生し、古参としてこなしてきた織田に比べれば誰としても遅いのだけれど、この壊れ果てた図書館では太宰はそれなりに早い方の転生だったのは、あんなでも司書がそれなりに優秀だった証だろうか。
それ故に、大切な人が。大切になった人が。ひとり、またひとりとして壊れていく姿を見ていられなくなった太宰が、次第に、その精神を磨耗させてしまっていたのだ。
それに──次は、今世でも前世も親しんだ「坂口安吾」の順番なのだから、耐えられなくても仕方がないかも知れない。
生前の死因が心中の男だ。三度の心中をした男が、そう、錯乱の果てに安吾に持ち掛けても不思議ではないだろう。やだよう、やだよう。あの大きな金の瞳が涙に濡れて迫ってくる。ひとりはこわいよう。おいてかないでくれよう。
──誰が、好き好んで置いていくか馬鹿野郎!
そう言いながら腹部に一発拳を叩き込んだ安吾は絶対に悪くはない。
乱れてしまった赤い髪を撫でつけながら安吾は言った。

「もう、こうなりゃ連れていくしかねぇだろ」
──終わりへと。

きっと、安吾が壊れた末に太宰が順番を構わずに共に壊れるだろうことは想像に難くない。自死の可能性も高いが、精神的な命の放棄の方も考えられなくもない。
皆、一様に不安を抱えてなお生きているのだからそんな面倒を遺す者に残せない。無頼の、三羽の烏としての責任と親愛として安吾が下した結論はそれだった。
二羽が巣立つとして、残る一番若い一羽へと目を向けた安吾は質問をする前に答えを察し、冒頭へと戻る。

「あーあ。兄ちゃん悲しいわ」
「誰が兄やねん。…いや、兄貴分としては頼りにしてんで? せやからそんな悲しゅう顔せんといてや」

直ぐ様突っ込んだ織田は、けれどあまりにも悲しそうな顔をしてみせる安吾にフォローを入れる。この兄、時折、自分達のことを好き過ぎではないだろうか。いや、気のせいではないだろう。
拗ねた男の隣に座り苦笑しながらちょいとその背を叩く。

「ほんまやで。ワシ、安吾が来てくれて助かったんや。アンタがいてくれたから…太宰クンもあの人も、ひとりにしないで済む」
「なんだよ、結局俺ぁ振られてるんじゃねぇか」
「振ってないやん。大好きやぁ言うてんやろ」

過去だけで生きていたらこの葛藤はなかっただろう。
もしくは過去を下敷きに生きてこれたのならばきっと彼らがもっと重くに存在していた筈だ。
決して無頼の仲間たちを軽んじている訳ではないけれど、あの大変だった時期を乗り越えた新しい絆は、彼らだけを重んじるには大きく育ち過ぎていた。
それも、準備期間として三ヶ月、司書と徳田と織田の三人でてんやわんやとしていた時期を思えば、特に固い絆で結ばれていると言えるだろう。確かに安吾や太宰は大切だけれど、頼れるダメ男が前にいるのだから、自分は徳田についていてやるべきだろうと心が叫ぶ。

「……あの人、」

脳裏に浮かぶのは、司書亡きあと、皆に状況を説明する徳田の青白く血の気の引いた青い顔だ。
彼はまるで自分の罪を懺悔するように、己の生い立ちが皆と異なり、ひとりだけ状況がはっきりとしない──司書亡き影響が少なく、ひとりだけエネルギー供給源が違う為に異常への懸念が限りなく少ないことを申告していた。
それを責めた者は誰もいない。むしろ、逆にひとりだけ周りと違うことを思い悩む様子に周りの方が気を使ったものだ。

「あの人、ものすごく気にしてはるやん。もう見てられへんねん。自然主義のお人らがついててくれてて今はええけど……最期の最後、ついててあげられるんはワシしかおらんから」

初期文豪という立場は誰かに譲れるものではない。自身の立場に思い悩み、気難しいながらも人が好きなこの青年をひとりで置いていくことは織田にはできなかった──結局は置いていくことになるのだけれど。
それでもその一日でも、一分でも、一秒でも。
長く、長く共にいてあげたかった。

「だから。ほんまな、ほんまはな。ワシだって置いてかれたないねんで。ずっともっと、あんたらとも一緒にいたいねん。置いていくつらさ、ワシも分かってんねん。でもな、ワシもな。置いていきたなんて、ないんや……」

この決意と思い込んでいるこれも、きっとすぐに揺れるのだ。彼らを思い出してきっとすぐに後悔する。後悔して、自分を責めることだろう。けれど。けれど。
あの、存外寂しがり屋のあの人の、眉を下げて唇を噛む姿を思い起こせばまたその後悔も揺らぐのだ。
嗚呼、この人をひとりにしてはいけない。
ついていてやらねば。
それが出来るのは自分しかいないから。
抱えた膝に額を埋めて揺れてもなお傾く心を吐露すれば、安吾は隣で丸くなる織田の背を抱き、こつんと頭を擦り付ける。

「……知ってる」

この優しい男と不器用な男が、てんやわんやと精一杯頑張って作り上げてきたのがこの図書館なのだから、かなり遅くに転生した安吾とて知らない筈がない。
今は亡き司書も、壊れ行く同胞たちも。皆、大切にしていた。慈しんでいた。
安吾とて無頼の仲間以外にも司書や秋声や、他の皆も好ましく思っている。その死に行く姿を歯痒く、死に行く己の不甲斐なさに歯噛みをしたのだから間違いはない。

「いーさ。オダサク。…俺たちはあの人と一緒にはいられないからなぁ。だから、あの人は任せる。俺がコイツを責任もって任されるから。だから、気にすんな」

ぐしゃぐしゃと織田の頭を掻き乱して安吾はそう言った。
お前がいれば安心だから。
互いにその一言に尽きたのだ。

「ハ、ハハ。でもあれだな。前よりはいいさ。時間がある。お前、突然死んじまったし。太宰も死んじまったし。
なぁ明日、酒を飲もう。特製の安吾鍋で。いっそ闇鍋でもいい。俺たち三人だけで。いっぱいいっぱい、話をしよう。きっと話し足りないだろうけど……嗚呼、なんでもっと話しておかなかったか。勿体ねぇことをしたな。でも仕方がねぇ。明日、朝まで。ずっとずっと、いっぱい話そう」

一夜を長いと取るか、短いと取るか。
それは最期の晩餐だ。どれだけ話が足りなくとも時間が足りなくとも、そこを区切りと決めて、きっと安吾は旅立つつもりなのだ。
まだ安吾には猶予がある筈だ。症状もまだ軽度で、そんなに急ぐほどではないのではないか。

「───」

早すぎる、と言えればよかっただろう。しかし太宰の錯乱振りを考えれば、確かにそう時間はない。決意は決まっているのだ。太宰を、長く苦しめる必要はない。
それに、決意は揺らぐものだ。双方共に。

「……闇鍋はやめぇや」

その気持ちを察して織田は顔を上げると苦笑した。

「ワシ、あれがいいわ。あの、白菜と肉の」
「雑だな。どれだよ」
「だから白菜と肉が、ほら、重なったやつ」

うーんと顔をしかめた織田がそういうと、安吾はぽんと手を打った。

「あーミルフィーユ鍋とかいうやつか。しかしそれだけじゃ味気ねぇだろ。最後だぞ? チーズフォンデュ鍋とかどうよ」
「えーあれ胃に来そうやん。間とってトマト鍋くらいにしようや」
「どこの間をとったんだよ!」
「〆のチーズリゾット」
「あー」

織田流の間に草を生やしながら安吾は納得に頷く。トマトの酸味にチーズのまろやかさ。米にもち麦も混ぜておけばぷちぷちとした食感も加味されきっと美味しいだろう。同時に具材や副菜を考える。あれがいいか、これがいいか。
一度決心を決めてしまえば。
不安が治まり、久々に明るい気持ちになれた。不安のなかったあの頃を思い出して笑みが浮かぶ。

「……なぁ、オダサクよ」
「ん?」
「楽しかったよ。いや、…うん、明日は楽しくしよう。なにも考えず、馬鹿をして。くっだらなく喋り散らかして」

振り仰いだ安吾はそう遠くを見つめて言った。織田はその横顔を目にすると、静かに、同じように顔を前に向けると小さく頷いた。

「そうやな。目一杯、楽しくしたろ。笑って…笑って…」

さようならをしよう。





その一夜はまるで夢のようで。
その一夜があれば、なにも怖いものはないと思えた。
翌朝、朝から安吾は酔い潰れた太宰を抱えていった。どうするか、などは聞いていない。さいご、へにゃへにゃと笑った太宰はそれはそれは幸せそうで。
そんな幸福な夢の中で安らかに眠って欲しい。
安吾がいるなら任せられる。
罪悪感を感じない訳ではないけれど──けれど自分達は一蓮托生であったから。
だから、ただ、幸せを願う。

その日、潜書部屋にて。
行儀良く椅子に座る太宰治のイレモノと、浄化された本と、床に横たわる坂口安吾が発見された。
回収は彼らが弟分にして我らの古参、織田作之助が担当した。彼はまだ時期ではない旧友たちの終焉を目にしたというのに酷く冷静で、だからそれに口出しをする者はいなかった。
彼らの決断を尊重したのだ。
そしてそれは──。












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