秋声と多喜二愛され







「しゅーぅせーぃっさんっ」

非番の午後、図書館一階の日当たりのよい窓際で趣味の裁縫をしていた秋声は、賢治と南吉の悪戯二人組に声を掛けられた。

「どうしたの?」
「うふふ、あのね」

ふたりの子供の姿の文豪に、作業の手を止め秋声は少し身を屈めて向き合う。彼らはなにやら顔を見合わせながら、もじもじと後ろ手に持っていた紙袋を差し出した。

「これは──」
「あっ!違うよ!これはね、買ってきたんだよ!」
「あのね、秋声さん!お耳を貸して!」

中身を見て顔をしかめた秋声に慌ててふたりは弁解する。ぐいぐいと腕を引かれるに任せて耳を傾けると小さな小さな手が耳に添えられ、こしょこしょこしょ、可愛らしい声が耳を打つ。言葉が連なるにつれて秋声の顔が楽しげに緩んでいった。
話が終わると秋声は一度、腕を組んで瞼を閉ざした。焦らす仕草にふたりは固唾を飲んでにじ寄る。きらきらと期待に輝く大きな瞳。

「……全く、」

ふぅと嘆息した秋声は、ぱちりと片目を開いた。

「その役は僕にしか出来そうにないね?」
「秋声さん!」

悪戯に笑った秋声に賢治と南吉は歓声を上げた。膝に美少年をふたり侍らせ計画の概要を詰めながらも秋声は思う。
──たまにはこんなこともいいだろう、と。





そしてあくる日。今日も今日とてフード付きのコートを纏った青年の背中に声がかかる。

「小林くん!」
「…徳田さん?」

振り返った多喜二は、声の主がこの図書館最古参の文豪であり自身もよく世話になった秋声であると見て足を止める。第一会派筆頭の秋声と第三会派筆頭の多喜二は報告やなんだと一緒にいることが多く、馴染みがあるのだ。ちなみに第二会派筆頭は織田作之助であり第四会派筆頭は石川啄木だ。それぞれ個性が強いが存外上手くやれていると思う。
ぱたぱたと小走りに駆け寄る少年の面影を残す青年は、多喜二の前で止まると安堵したように小さく笑った。

「よかった、入れ違いにならなくて」
「ええと、なにかご用ですか」
「うん、少しね。これを貰って欲しくて」

なにか仕事の話かと不思議そうに首を傾げた多喜二に秋声は小脇に抱えていた包みを差し出した。
素直にそれを受け取った多喜二は、中を見て目を見開く。

「これは…」
「そう、君の上着──にそっくりだろう?だけれど、別物だよ。量販店で買った既製品さ」

便利な世の中になったものだね、と秋声はしみじみ言う。彼は多喜二よりも早くに生まれ長く生きたのだから時代の変遷というものをその身で以てよく知っているのだろうけれど、転生して二十歳に満たない若い姿になったというのにどこか爺臭い発言をされるとどうにも似つかわしくなく、多喜二は思わず唇を歪めた。
いやいやなんて失礼を、と反射で浮かべてしまった笑みを無理矢理押し殺し、そして何故これを渡されたのかと首を傾げる。

「…あまり言いたくはないのだけれど」

ばつの悪そうな顔で視線を逸らして頬を掻く秋声はぼそぼそと理由を告げる。
──曰く、多喜二が常に着ているコートがいつ洗濯されているのかが気になる、と。
確かに多喜二はコートをろくに洗いもしないし、着っぱなしだ。秋声には潔癖症で有名な兄弟子もいることだし、彼自身もそれなりに綺麗好きだ。そりゃ気になることだろう。苦労性の彼を思えば自分から手間を呼び込むことも想像に難くなく。

「…それは、ご迷惑を」
「いや、僕が勝手にしていることだから気にしないでくれ。それに、普段と違う格好をすると皆が揶揄ってくるじゃないか。僕はそれが嫌いでね。手に入れたのは偶然だけれどいい機会だと思ってさ」

一度言葉を区切るとそっぽを向き横目で窺うようにしていた秋声は、観念したように多喜二と向き合う。

「君は今日、非番だっただろう?僕に強要できることではないと知ってはいるが……良ければ洗濯をさせて貰えないかと」

今日は朝から快晴で洗濯物日和だろう。今から洗濯をすれば多分午後にも乾くだろうと予測できる。
そもそも自身の落ち度に配慮を重ねたそれを断る程、多喜二は我が強くもなく。

「よろしくお願いします」
「助かるよ、ありがとう」

何故に世話を焼く方が礼を言っているのか。
ぱっと顔を輝かせた秋声に、もそもそと脱いだコートを渡す。反対に、自分のコートによく似たコートが返された。
黒くて、フードにもふもふのファーがついていて。丈もほぼ同じで本当によく似ている。ただポケットの形などの細部が違うようだし、少し生地が薄く感じる。山深い図書館では夏でもあまり暑くはないが、多喜二や重治のような完全冬物のコートはそれなりに暑かったもので、これは普段使いに重宝するかも知れないな、なんて。
袖を通すとすかさず秋声は袖を引いたりシワを伸ばしたりと世話を焼いてくれた。よい大人である多喜二には少し恥ずかしかったが、好意溢れる仕草がくすぐったくてはにかんだまま享受する。

「はい、腕のベルト。きついところとかはないかい?」
「大丈夫です」
「そうか、よかった」

腕を動かしてみてきついところがないことを確認して答えれば、多喜二より頭ひとつ分小さな秋声はつま先立ちの小さな背伸びでぽんぽんと多喜二の頭をフード越しに叩いて満足気に微笑んだ。
──嗚呼、やはりこの人は年上の人なのだ。
孫にでも接するような優しい表情にたじたじになりながら、しかし本人は意にも介さず「じゃあ預かっていくね」とコートを丁寧に腕に抱えて踵を返す。
他人のコートを洗うだけなのに楽しげな足取りの背中を見送り、多喜二はぐいぐいとフードを引いて顔を隠す。
きっとしまりのない顔をしているだろうと言う予想は、余りにも簡単過ぎたのだ。





いつものようにひっそりと多喜二が食堂に入ると、しかし予想に反してざわりと視線が集まった。壮年の文士たちはまるで子猫でも眺めるような慈愛の瞳で、他に好奇と興味の視線。さざめく忍び笑い。
いつもより少し遅くなった朝食の時間は人の賑わいも最高潮だった。訳もわからないそれは大層不可思議で、大層不愉快であった。元は逃亡者で、逃げ続けた末の拷問死した前世を思えばさもありなん。

「いやぁ小林くん、なかなか似合っておりますよ」
「ふふ、どうしたの多喜二。あ、先にいってるからね」

横を過ぎる夏目や鴎外、同志たる重治が楽しげに多喜二の肩を叩いていく。
一体、なんなのだろう。
なにかがおかしいのだろうか。
心当たりもなくささくれる気持ちを抱えながら食堂の受け取り口に並ぶ。訳の分からない不快感に腹立たしさもひとしおで、これは三人前は食べなきゃ気がすまないなと香ばしい焼き鮭の匂いを嗅ぎながら思う。

「おっ、多喜二じゃないか。おは………ンハッ!アッハハッ!なんだその頭は!かっわいいな!」
「直哉さん……?」

何人か前で丁度食事を受け取った志賀が振り返り様に多喜二を認め──そして思いきり、噴き出した。
多喜二を指差しながらヒィヒィ笑う志賀の手から慌てて武者小路が朝食の乗ったトレイを取り上げる。それを有り難く思いながら、志賀は遠慮なく笑うとぐわしぐわしと弟子の頭をフード越しに掻き混ぜる。
食堂に笑い声を響かせた志賀は暫くして引いた笑いに浮かんだ涙を指で払うと、そこで漸く、酷く心細いと訴える表情で師を見つめる弟子を見留め、きょとんと目を瞬いた。

「ん?なんだ多喜二、お前、それ、気付いてないのか?」

首を傾げながら、しかし確かにそれをこの弟子が自ら進んでする筈もないかと納得する。

「それって…なんなんですか…もう……」

尊敬する師に指差し笑われ、仲間からは不可解な視線に晒され、多喜二のライフはもう0だった。いっそ生前のトラウマを思い起こして発狂してもいいレベルだ。もう、誰が敵か味方かも分からない……。フードの下の暗がりで泣きそうに眉を下げる。
志賀は武者小路と顔を見合わせ、先に朝食トレイをテーブルに運んで貰うように頼んで弟子の腕を引いた。大人しく腕を引かれる多喜二は怒られてしょぼくれる子供のようで申し訳なさに心が痛む。
向かう先は食堂と厨房を繋ぐ扉の、その前に備えられている小さな洗面台だ。蛇口を捻っても水しか出ないが、目的はその前につけられた鏡だ。
志賀は困惑する多喜二の肩に腕を回しつつ、鏡の前に彼を立たせた。

「……?」

そこにいるのは特に変哲のない自身である。朝起きた時に軽く手櫛で整えただけの黒髪はフードの下で跳ねている。出掛ける前に部屋で食べたあんぱんのかけらでもついていたかと思えども、口許にもVネックシャツにも欠片はなく──先程、秋声に交換してもらったコートもやはりなんの変哲もな──……

「…………なっ!?」

視線を上げたその先に異常なものを見付けて多喜二は声を上げた。咄嗟に逃げようとした体は肩を抱く師に抑えられ、否応なしに再び鏡を観察する羽目となった。
これは先程秋声と交換してもらったコートで──では、この、フードの先についているものは……?

(さんかっけいがふたつ)

フードの先にピンと立つ黒いふたつの三角形。頭頂から左右に少し距離を取っていて、よくよく見れば緩く弧を描いて縫い付けられているらしい。お陰で布自体は薄そうだがへたれることなくピンと立っている。

「な、な、な、」

そう、これは──何を違うことなく、猫耳フードであった。
もう多喜二には言葉もない。思考は止まり、はくはくと無意味に開閉するばかりの唇からは、行動に似つかわしく無意味な単音が吐き出され。
驚愕に瞳を見開きながらも助けを求めるように多喜二は師を見上げた。ぐるぐるしている目を見て志賀は弟子の頭を撫でて宥めると、数秒大人しく受け入れつつも思考力が戻ってきたのか、多喜二は「ウワァ!」と声を上げた。
縺れるようにして志賀の腕から抜け出して、フードの上の猫耳をぺそりと両手で隠して踞る。
──あ、こいつ、まだ混乱してるな。
フードを脱ぐかコートを脱ぐか、どちらかをすればいいのにただフードの上の猫耳を隠す多喜二に、見ていた面子はただひたすらほっこりするだけだ。どこかでパシャとか音が聞こえたが、本人は気付いていないので問題ない。この、問題ない内にどんどん撮って欲しいなとさえ志賀は思った。全て言い値で買わせて貰う。
弟子が可愛すぎて今日も元気満杯の志賀であった。

「で、多喜二。お前はそのフードに気付いてなかったんだよな?」

内面をおくびにも出さず、俯き踞る多喜二の背を撫でながら問い掛ければ、彼はこくこくと頷いた。声を出す気力はないらしい。最早耗弱といって過言ではないだろう。

「よく分からねぇが…なにかこうなった心当たりでもあるか?」
「…徳田、さんが」
「秋声?」

多喜二が食堂に来る前の経緯を話せば、それを聞いていた者が全て、ううんと唸った。
件の苦労性と今回の事件が、なかなか結び付かないのだ。

「秋声がこんな悪戯を仕掛けるとは思わないが…」
「いや、秋声の前で小林はフードをかぶって、それでもなにも言わなかったんだろ?確信犯にしか思えないな」
「そうだね…気付かないのは不自然だし。騙し仰せるなんて秋声もやるね…」
「なに感心してんだよ藤村。小林の気持ちも考えてやれって」

渋る花袋に楽しげな取材コンビ。自然主義の弓三人組がわぁわぁと語りだせばあちらこちらで賛否が飛び交う。

「もしあの耳が後付けだとしたら、この図書館でそんなことが出来る裁縫の腕を持つのは、やはり徳田くんだけだろう」
「しかし、徳田くんがしますかねぇ」
「そうだな。仕事を溜め込む司書の尻を蹴っ飛ばし、取材バカの友人の尻拭いに奔走し、兄弟子と口喧嘩しては胃を痛めつつ師の介護をしながらも第一会派筆頭として新人の面倒から図書館の掃除まで一手に引き受けて、過労寸前の徳田にそんな暇はなさそうだが」
「いや、アレもそれなりに悪戯好きでな。よく我の羊羮を隠したりしているぞ」
「それは……いや、徳田の苦労が偲ばれるな…」

鴎外、夏目に続いた幸田の言葉に師である紅葉はにこやかに笑う。生前、菓子の食べ過ぎで腹を壊して死んだのだと言って言われたこの師弟を思い、今度秋声を労らねばなるまいと心に決めた幸田であった。
状況証拠は秋声を黒と示しているが、人柄がそれを否定する。真面目にこつこつと作り上げた信頼が、こういう時に物を言うのだという実例だ。
ちなみに当の多喜二は「大丈夫、とても可愛いよ、多喜二くん」と笑顔で宣う武者小路に心を滅多打ちにされていた。有島と志賀の「もうやめてやれよぉ」という悲痛な懇願は、純然なる好意100%の武者小路には届かず、彼の反駁が一層多喜二を痛め付ける様子を見てふたりは考えるのを止めた。

「…あれ、もうバレてしまったのかい」

そんな混沌極める食堂に響いた声に、全ての視線が入り口へと集まった。
そこにはいつもの袴姿の秋声がいる。左右の手に賢治と南吉の悪戯コンビを連れて。
その発言と、その面子と。秋声の擁護に回っていた者はそれで確かに犯人が──正確には共犯者という立ち位置だろう──秋声であるのだと理解する。

「ワタクシのポジションが…!」

悪戯っ子同盟の裏切りに大きなこどもがショックを受けて口を覆ったり、「そら見ろ」と笑う紅葉の脇腹を幸田はひそりとつまみ捻ってあたたと痛がる声が響いたが皆、無視をした。

「小林くん」

凍り付いた空気の中、実行犯は被害者へと声を掛ける。固唾を飲んで見守るギャラリーを意にも介さず、彼はにこやかに「コートは洗濯したからね。乾いたらすぐに持ってくるから」と言った。

「ごめんね、騙すようなことをして」
「ようなっていうか、完全に騙してるよね」
「シッ!藤村黙ってろって」

すかさず揚げ足を取った自由人は花袋に口を手で覆われてフェードアウトしていった。
それに苦笑を返しながら秋声は言葉を続ける。

「今回の発案は、お察しの通りこのふたりさ。僕は、さっき君に言った通りに洗濯をしたかったという利害の一致で協力をしたんだ。…結構重要な役回りだったと自覚はしているけれど」
「そうだな、秋声が猫耳つけなきゃどうにもならない作戦だもんな」

うんうんと独歩が頷いた。

「ねぇ秋声、今どんな気持ち?」
「…正直、すごく楽しかった」

藤村の言葉に恥じ入るように瞼を閉ざしながらも、紅潮した頬と緩んだ唇がその言葉通りの心情であると知らしめる。普段羽目を外したりしない真面目な子ほど時折大胆な行動に出るものなのだ。
こうなってもまだ、きっと疲れていたのだから仕方がないと思えてしまうのだから頑張りの認められている苦労性というのは得なのだろう。その被害者となってしまった多喜二には可哀想にという言葉以外に掛ける言葉が見当たらない。運が悪かったのだ。

「しかもこんなものまで作ってしまったよ」

そう言って彼が小脇に抱えていた紙袋から取り出したものは。

「はい、賢治くん」
「へ?──うわあ!可愛い!」

それは賢治がいつもつけているキャスケットによく似ていたが、そこには南吉の帽子のような、多喜二のフードにつけられているような、ピンと立った猫耳がつけられていた。
可愛らしい黒猫が並べられた赤地の生地が一部分にあしらわれたジーンズ生地の帽子の猫耳部分は内側が赤い生地になっており手間が感じられた。

「秋声サン、とうとう帽子まで作ってしもたん…」
「補修室の猫もあの人が作ったんだろ?」
「俺、あの人が図書館ロビーの座布団作ってるの見たことある…」

無頼派三羽烏がそう囁いた。うへぇ、揃った呻きは他の者の心も如実に表していた。
あの人は一体、なにになるつもりなのだろう。

「賢治くんいいなー!ねぇ秋声さん!僕には?僕には?」
「南吉くんにはこれ」

あるんだ。言葉もなく皆の心がひとつになる。
帽子を掲げてきらきらとした目で感動に浸る賢治の横で、可愛らしいおねだりに普段のぶっきらぼうさをどこかに放り投げた秋声が続けて取り出したのは手袋であった。

「南吉くんの帽子はもう猫耳がついているからね」
「うわあ!猫のおててだ!可愛い!ありがとう、秋声さん!」
「ふふ、よろこんでくれて嬉しいよ」

手首の部分がもふもふしているのは普段の手袋とよく似ている。帽子と同じようなピンク色した生地に普段より丸めのフォルムの手袋は、手のひら側に白くてぷっくりと可愛らしい肉球が並んでいた。それは硬くもなく柔らかすぎず、ふわふわとしていてとても気持ちいい。

「賢治くん賢治くん!」
「ふわあ!気持ちいい!」

肉球手袋を頬に当てられた賢治はその優しい肌触りと弾力にほわりと頬を緩めた。それにまた南吉も笑い、それを微笑みながら見守る秋声はまるで慈母といった様子で。
──成程、ここが天国か。
一度は引き戻された現世からまたあの世へと昇天したかという錯覚が何名かの文豪を襲ったが、しかしゆらりと立ち上がった多喜二から立ち上る怒気にヒュッと地獄へ気分は急転直下。
ゆらり、一歩秋声たちへと近付く多喜二──その表情は深い怒りと悲しみに彩られていた。それもそうだろう、生前、仲間に裏切られて死んだ彼が、信頼していた世話役に裏切られたのだ。人間不審になったとしても不思議ではない。
これはあわや刃傷沙汰かと緊張が走る。
──が。

「えへへ、多喜二さんもお揃いだ!」
「お揃いだ!嬉しいな!」

その中身が外見に相応しないことはよく知っているが、賢治と南吉のその邪気のない、ように見える笑顔で左右からサンドイッチハグされた多喜二は思わずたじろいだ。

「う…」
「多喜二さん、僕たちとお揃いは嫌?」
「僕たち、嫌い?」

きらきらと輝く瞳に悲しそうな光が宿る。きゅっと下げられた眉に唇を噛む痛々しさは、多喜二の言葉をそれは見事に封じていた。

「すごいぜ…あのコンボに勝てるやつはいないだろ」
「きっと彼らはこれも想定済みなのだろうね。なんとも恐ろしいものだね…」
「犀ぃ、怖いよぉ…!」

ごくりと唾を飲み込む犀星の言葉に白秋が身震いをした。そのふたりの腕に縋りながら朔太郎ががくがくと頷いている。
視線に負けた多喜二が躊躇いがちに首を振れば「よかった!」と綺麗にふたりの声は重なった。

「ね、ね、多喜二さん!今日は僕たちと一緒に遊ぼ!いいでしょ?」
「いいよね?多喜二さん!」

完全な包囲網を敷きにかかるふたりに「うわ、エグいな」と佐藤は顔をひきつらせ、方々でも怖いと声が上がる。というかドン引きだ。
地獄の釜の口でどうにか踏み留まる多喜二の背を押そうと秋声は口を開いた──それが、墓穴とも知らずに。

「まぁまぁ、小林くん。少しくらい相手をしてあげなよ」

それが第三者ならまだよかったのかも知れない。秋声は普段の誰かの尻拭い仲裁の気分であった。
しかし、秋声こそが実行犯なのだ。信頼を裏切った男の呑気な言葉が多喜二の堪忍袋の緒を引きちぎった上にガソリン注いで大炎上をさせてしまった。
多喜二はスッと表情を凍らせると、小さく「わかった」と言った。
多喜二の了承、それはとても意外で、急展開に次ぐ急展開にギャラリーの目も丸くなる。喜ぶこどもをふたり腹にまとわりつかせながらもギラギラと怒りに染まった目を秋声に向け、ひどく低い声で条件を提示する。

「徳田さんも猫耳、つけるなら」
「…………は?」

たっぷり10秒は間を取って、秋声はぽかんと間抜けな声を上げた。言葉の意味がよく理解できない。
僕が、猫耳を、つける?

「は?え?僕が?猫耳?いやいやいや?え?いやいやいや?ナイでしょ。無理だよ」

混乱して秋声はブンブンと首を振るが、それよりも周りからの歓声が大きくてびくりと肩を震わせた。

「やりなさい秋声!それが筋というものですよ!」
「なんの筋だよ!」

懐からスマホを取り出し目をらんらんと輝かせた兄弟子に噛み付いて、

「というか因果応報だな」
「花袋うるさい!」

真っ当な親友の言葉が胸に刺さりながらも憎まれ口を叩く。

「やはり秋声ならば黒猫だと我は思う!」
「よーし黙っていようか、紅葉」

師への突っ込みは幸田に任せて、

「ふふふ。秋声、今どんな気持ち?」

にまりと笑った友人に「最悪だよ!」と吐き捨てた。

「あのね!小林くんみたいな美形はなにやっても似合うんだよ!でも!僕みたいな地味なやつが猫耳つけても笑いにもならないんだよ!」
「大丈夫大丈夫、秋声は可愛いぜ(笑)」
「語尾の(笑)が隠しきれてないんだけど国木田!?」

動揺からキレツッコミを披露する秋声に待ってましたと拍手が巻き起こる。勿論それにも「なんの拍手!?」とツッコミが入った。これぞ秋声の真骨頂である。

「というか、自分がされて嫌なことを他人にするなんて最低ッス」
「うっ」
「そうだな、小林は問題児と言う訳でもないし」
「ううっ」
「徳田の日頃の苦労は理解するが、それを無関係な小林で発散するのはな…」
「うううっ」

三好、子規、吉川の正論に言葉が詰まって俯く頭。そんな素直な反応がまた彼らしいとほっこりするのだから秋声は自身が思うより愛されている。

「うう…確かになんの落ち度もない小林くんには申し訳ないことをしたと思う…正直、話を聞いて猫耳フードの小林くんを見てみたいなという興味が勝っていた」
「などと犯人は供述しており」
「ンッフwww」
「洒落にならないね、それ」

藤村がぼそりと呟いたそれに金色と桃色の頭が同時に噴き出した。苦笑しながらしみじみと呟くのは芥川だ。

「全然謝っていませんねぇ」
「何故こんな時だけ素直なのだろうね」

谷崎と永井は顔を見合わせて首を傾げた。そんな彼らを無視して秋声はきっちり多喜二に頭を下げる。

「本当にごめん。もうしない。絶対しない。だから、罰は猫耳以外にしてくれないか!」

いっそ清々しいほどの自分本意な言葉であった。反省しているか危ういとも思うが、現在を省みれば秋声が二度も三度もこのようなことを起こすとは思えないので虚言ではないだろう。
「…あいつ、かなりの勇者だよな」「たまに口が暴走するんだ」「ふふ、これでもうみんな秋声を地味とは言わないね」なんて友人たちが交わす中「いえ、それは地味とは関係ないのでは…?」と中島は思わず突っ込んでいた。
そんなギャラリーのさざめく中、直角に頭を下げた秋声を仁王立ちに腕を組んだスタイルで多喜二はじろりと見下ろす。
一拍の間。ついと雑談を交わしていた面々の視線を集める絶妙な間であったと言って良いだろう。瞬間的に高まった緊張感の中、多喜二ははっきりと言った。

「嫌です!」

切って捨てるそれにそこかしこで「だよなぁ」「そりゃなぁ」と拒絶を妥当とする言葉が聞こえる。そして同じくらいに「ねーこっみみっ!ねーこっみみっ!」という猫耳コールも聞こえてきた。

「そこをなんとか!」
「絶対嫌です!」
「今度バケツプリン作ってあげるから!」
「嫌!で!…………バケツプリン」
「そう!一番下は黒蜜のコクがよく合うどっしりしたカボチャプリン!その上にはカボチャと合わせても美味しい濃厚なチョコレートプリン!飽きないようにラズベリーソースでもかけようか。次はつるんとした喉越しであっさり優しいミルクプリン!一番上は定番のカスタードプリンだね!カラメルソースは後掛けで、上は綺麗に生クリームで飾り付け。小林くんは果物はそのまま派?ゼリー寄せもいいと僕は思うんだ。そしてエンゼル型のイチゴのババロア。上にブラマンジェも乗せよう!中はラズベリーソースだから上はレモンソースかな。直径30センチ、高さ50センチの巨大バケツプリン。僕のお詫びの気持ちだ、全部ひとりで食べていいんだよ?」
「…………………………」

ぷいと顔を背けて取り付く島がなかった筈の多喜二の顔が、ぎぎぎと音がしそうなぎこちない動作で秋声を見る。瞳はぐらんぐらんに揺れていて、朝食もまだのこの時分、具体的なイメージを羅列させる秋声に、多喜二は口内に溢れた生唾をじゅるりと啜った。プリン食べたい…しかも巨大なバケツプリン…………。
──そう、秋声は確かに多喜二の弱点に突いたのだ…!

「ちょろい、ちょろすぎだぞ多喜二……!」
「うっわ、えげつねぇなあいつ…」
「ソコにシビレる、アコガレるゥ!というやつですね!」
「…うーん、それはちょっと違うかと」

食欲に負けそうな弟子の姿に小説の神様はアアアと額を叩いて天を仰ぎ、秋声の形振り構わない姿にドン引く中也。嬉々と某名言を叫んだ八雲に堀が苦笑しながら首を振る。

「プリン…バケツプリン……ハッ!いや!ダメです!そんなもので俺を落とせるなんて思わないでください!」
「結構危なかったけどね」
「ムシャ、おくちチャック!」
「…いいんです!バケツプリンは、別の機会に作って貰いますから…!」
「いや?作らないよ?猫耳免除以外で絶対作らないよ?」

飛び出た自由人の手をそっと握って口をむいむいしている神様を横に、多喜二は酷く辛そうな顔で叫んだ。これぞ断腸の思いという見本のようだ。噛み締めた唇が痛々しく赤くなり、握り締めた拳は血管が浮いている。
──どれだけ、食べたいのだろうか。
すかさず秋声が覆されそうな前提を主張するも、「ふぇ?」とょぅι゙ょのような声を出した多喜二に酷く澄んだ瞳できょとんと見つめられてしまってたじろいでしまう。

「オイ、どっちもチョロそうだぞ」
「あのまま押せば徳田は作るだろうな」
「ッハ!なんの茶番だよ!」

啄木、牧水、中也がぼそぼそ話す言葉に周りも深く頷く。それならばと思ったのか、
▼ はらぺこ 文豪 が 飛び出した !

「秋声さんっ!絶対の、絶対に、作ってくれないですか……?」

ずり落ちた眼鏡の隙間から、うるうるきらきら潤んだ瞳が見下ろしてくる──そう、多喜二と並ぶ大食い文豪、重治だ。

「あんなこと聞いたら、僕は……僕は………!」
「…そうですよ!我慢なんて出来る訳ない…ッ!」

口から涎を垂らしたふたりににじり寄られて秋声は「ウッ」と呻いて引いた。それは、涎が嫌だったのではなく、二人の熱意と、罪悪感と──結局のところ、頼まれれば断れない秋声の性格の所為であった。

「「秋声さん!」」

見た目こそ若返ってはいるが、多喜二たちは秋声の息子や孫と言っていい年齢差があり、そして、文豪の中で特に記憶の混濁が強い秋声であるが、孫や曾孫を可愛がった記憶は確かにある。
小さな我儘にぷいと顔を背いて見せれば涙声になってまとわりついて、おじいちゃん大好き!なんて口々に言うその現金ささえも愛しくて、最後には仕方がないなと折れたものだ。

「ね、猫耳…」
「…は、してもらいます!が!プリンも!作ってもらいます!」
「僕は関係ありませんが!プリンは!作ってもらいます!」

か細い声で主張をした秋声をまたも一刀両断する多喜二。自らの文学を曲げずに拷問死した男の意志はとても固かった。
そして、それに便乗する男の言葉はとてもゆるゆるだった。
………なんとも酷い有り様であった。

「なー、俺様飽きた」
「そうだな、飯食っとくか」
「秋声サン、もー観念して猫耳つけたればええやん」
「ぱっとつけてぱっと外してしまえば良いのでは…?」
「小林さんも、流石に1日つけていろとは言わないでしょうしね…」

意地を張り合うこどもの喧嘩に、ふあっと欠伸をかいた啄木を食卓へ押す牧水に、苦笑いの織田の言葉。中島と堀の良心組の説得がまた胸に刺さって、秋声は泣くのを耐える顔で肩を震わせ立ち尽くす。

「あー…」

膠着状態のふたりを見かねて志賀は頭を掻いた。周りに視線を向けても秋声サイドは皆スマホやデジカメ片手にスタンバイ──否、藤村は既に動画を撮っているようだし、よく見ればじわじわと移動して四方八方から写真を撮る鏡花の姿も確認できる。流石の幸田も花袋も今回ばかりは秋声の味方になるつもりはないのか、彼らが余りに酷い行動を取った時の安全弁としては期待できるが、苦笑に心配の色を貼り付けながら見守る体制のようだ。
ちなみに秋声が立つ脇では普段の無表情をどこへやら、瞳をきらきらと期待に輝かせた川端が、その両脇に常と同じ冷静な表情の横光と呆れた表情の菊地が並び、揃ってスマホを掲げていた。
身から出た錆とは言え、あいつの味方、あいつに優しくねぇんだな…。
色々察した志賀は切なく思いながらも、まぁまぁ落ち着け、と多喜二の肩を叩いて仲裁を買って出る。

「ほら秋声も落ち着けって。今回はお前が悪いんだから甘んじとけよ。ただ、多喜二。お前もプリン作ってもらうんなら、今すぐを迫るようなことをするな。あいつが渋るのは、あっちの、カメラ構えた仲間に見られたくないからだ」
「でも…」
「お前の気持ちも分かるがな、あっちはタチが悪い。俺たちは、…笑いはしたがあっちみたいに過剰に後を引くことなんかしないからな。あっちは多分、写真を撮ったら引き伸ばして各自の部屋どころか掲示板や果てや壁まで延々と貼り尽くすぞ?」
「「ああ〜」」
「な、納得の声が痛い…」

秋声過激派と取材組を思えばさもありなん。多喜二と傍観者たちからの納得の声に秋声は泣き笑いを溢し、当人からは「除け者なんて酷いです!」と抗議の声が上がったが、どちらがより酷いかは推して知るべしである。
……否定の声が聞こえないのだから。

「…ほらな?」

騒ぐ一門の姿を見て肩を竦める志賀に、多喜二は同情の目を秋声へと向けた。その優しさが痛い、と秋声は顔を両手で覆って小さく呻く。
冷静になってみれば、秋声が少し動く度に周りからパシャーパシャー「秋声!こちらを向きなさい!」パシャーパシャーパシャーととても酷い有り様であった。

「ああほら、秋声、そんなに落ち込むな。大丈夫だって。プリンと引き換えに多喜二もあいつらの前では免除するって。な?それに、今は猫耳なんかないんだし、」
「───あるよ?」

猫耳が用意できない内は杞憂だぞ、というアドバイスを掛けようとした志賀の言葉を、可愛らしい声が遮った。
何度目かのどんでん返し。「え?」と飽き始めていた周囲の目も食事から彼らへとまた集まっていく。

「あるよ?猫耳」

そう言ったのは南吉だった。ふくふくとした丸い頬に柔らかな微笑みを浮かべてこてんと首を傾げる。愛らしいそれも、今の秋声にとっては地獄へ突き落とす悪魔の言葉だ。
彼はゴンを背負うリュックを肩から下ろし、がさごそとポケットの中を漁る。ゴンが場所を取る為余り容量はないが、それでもしっかりとそれは収められていた。
取り出されたのは弧を描く、弾力性のある太めのカチューシャ。黒い毛皮素材の布が張られ、その上に黒い三角形がちょこんとふたつ。
──そう、猫耳カチューシャである。
それも、秋声の為に誂えたと言わんばかりに毛皮の艶が秋声の髪に毛皮の質感が似ている。触ればきっと滑らかだろうそれは、きっと、安くはない。
嗚呼、もう、これは。

「ここまでが織り込み済みなのか………!」

この小さな悪魔たちの計画を思うと、ただひたすらにゾッとする。
多喜二への悪戯が目的で秋声へのそれはただの派生だったのか、それとも、多喜二への悪戯は秋声を逃さない為の布石だったのか。それははっきりとは分からない──分からないが、分からなくていいと心が叫ぶ。
猫耳カチューシャを掲げた南吉は、にっこりと笑った。

「秋声さんも、お揃い、しよ?」



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