原作数年前のケイくん








がたんごとんと揺れる電車に身を委ねる。一時間に一本しか通らないローカル線は二車両しかなくて、今は自分一人しか乗客がいない。気のない車掌の告げる駅名を聞き流し、流れる緑をなんとはなしに目で追った。
ぼんやりとしたい時、ケイはいつもその電車に乗り込んだ。行きずりの人達は互いに無関心で、それが酷く心地が良い。流れていく世界は静かで優しかった。
いくつかの駅を過ぎた頃、一人、乗客が乗り込んだ。そっと窺うと同年代くらいの青年だ。年齢は少し上のように思えるが、まだ若い。雨でもないのに暗い色のパーカーのフードを被っていて、明るめの茶色い髪が溢れて見える。変な奴。
どうでもいいか、とケイは視界を闇に閉ざした。ぷしう、扉が閉まる。動き出す電車。慣性の法則に従って体が揺れる。
がたんごとん、がたんごとん。電車が揺れる。がたんごとん、かつこつ、がたんごとん。靴裏が床を叩く音。そして、それはケイの程近くで止まった。

「こんにちは」

掛けられた声に、視界に光を取り戻す。誰かの脚。グレーのジーンズ。暗いパーカー。フードで影を落とす顔は生温く笑んでいて、その中で赤い瞳がやけに目についた。

「…こんにちは」

席はどこも空いている。どこにでも。だってこの電車の中には車掌と自分と目の前の青年しかいないから。だから声を掛けられたのは自分だとわかるが、その意図が読めずにケイは胡乱気に返事を返した。
青年は笑う。眠そうな顔がくしゃりと崩れて、まるでひなたぼっこをしている猫のような笑みだった。

「隣、座ってもいいかな」
「………空いてるところなら好きにすればいいんじゃないですか」

のんびりとした口調で青年は言う。本当はあまり好ましくなかったが公共の場で指図することもできずに投げ遣りに返す。ありがとう、と言って猫は隣に収まった。
がたんごとん、がたんごとん。
静寂が戻った電車の中でぐらぐらと揺れる。日差しの当たる背中が暖かい。がたんごとん。
30センチ程間を開けて座る青年が気にはなるが、瞼を閉じて意識から閉め出す。ぐらぐら、がたごと、ゆっくりと電車は進んでいく。

「…きみは」

不意に猫が言った。

「どこへ行くの」

ぐらりぐらぐら、がたんごとん。。
構われたくないのに、とささくれ立つ気持ちもありながら、電車の揺れも相成ってその声は優しく耳に落ちた。
閉じた瞼の中に光が踊る。眠気を誘うような声に気付けば「どこでもいいでしょう」と口は動いていた。

「決まっていないの?」
「言う必要性を感じません」
「この電車はどこへ行くの」
「知らないで乗ったのかよ」

ついつい口は突っ込みを溢す。ぱちりと瞳を開いて相手を見れば彼は特に困った様子も見せずにへらりと笑う。毒気が抜けるとはこのことか。
どうやら青年の声は警戒心を殺す天才らしい。蜆が吐き出す空気のように、静かに密やかに会話が紡がれていく。

「まずここがどこなのか…」
「そこからですか」

全然困ったようには思えない声音で青年はくつくつと喉を震わせた。相変わらず瞼の裏はチカチカとしていた。がたんごとんと電車も揺れる。

「この電車はとこまでいくのかな」

繰り返される質問。この青年はまるで細波のようだ。触れたかと思えば直ぐに引き、寄せては返す、捉え処のない細波。
――行き着く先は、

「…辺鄙な処、ですよ」

記憶にあるのは寂れた駅に、美しい山。ただそれだけ。いつだって一抹の寂しさを覚えさせる風景に、刺々しい心が慰められる。
まるで夢も希望もない、面白味のない言葉が口を突いた。それが少し寂しい。

「夢がないなぁ」

がたんごとん、ぐらぐら。もらされる苦笑。自分でも思ったが人に言われるとなんとなくムッとしてしまうのは何故だろう。
細波の青年に一言いってやろうと開いた唇は、けれど骨張った相手の指に塞がれる。

「しぃ」

いつのまにか距離を詰めたのだろう、反対の手で同じように人差し指を唇に押し当てた細波はこどもにするような仕草で静かにと示す。
思わず言葉を飲み込んだケイにそれは静かに「目を閉じて」と囁いた。躊躇うケイの目元に押し付けられる生温い体温。

「なにを、」
「トンネルを過ぎるとそこは雪国だった」
「は?」

抗議の言葉はさらりと意味不明な言葉に遮られた。
がたんごとん。揺れに合わせて不安定に手が揺らめく。細波は詠うように言葉を重ねた。

「うさぎを追い掛けて不思議の国にも行けるし、鏡の自分と入れ替わったりもできる」

子供に言い聞かせるような、いや、子供のように純然な絶対性を持って紡がれる言葉。
相変わらず視界は昏くて、でも赤い。生きている色。遠く近く聞こえる声はまるで物語の始まりを告げる時計うさぎのようだ。
毒気が削がれてケイは溜め息を吐いた。名前も知らない青年にされるがままになるなど、普段のケイにとっては考えられなかったが、隔絶された車内は非現実がまかり通って然るべきの雰囲気があったように思う──つまり、この目の前の青年の雰囲気に飲まれてしまったのだ。

「てのひらには可能性がある。そして、瞼の裏には夢が」

うさぎが物語を紡ぎ出す。

「さぁ、目を閉じて」

暖かなてのひらに誘われるままに瞼を下ろす。がたんごとん、世界は隔絶され続け、ただ瞼が熱い。

「世界の果てに辿り着いたら、一体なにが待っているだろう?」

静かな声は静かな車内に溶けて消える。波紋を作る一滴。耳にじんわりと馴染む声は、けれど耳に木霊する鼓動に掻き消されてしまう。
がたんごとん。世界が揺れる。

「ねぇ、どんな世界がいい?」

陽炎のような青年は問いかける。
苦しみのない世界、哀しみのない世界。楽園。世界は揺れて、ぐるりと回る。

「僕、は…」

ゆらゆら。陽炎の囁きにケイは必死で言葉を紡ごうとした。回っているのはケイの意識で、ぐらりぐらぐら、猛烈な睡魔が体を駆け巡る。
おとうさんおかあさんえりこ。ばらばらに壊れた僕の家族。友達とは名ばかりの交遊。遠くの背中。顔色を伺う日々。疲れた。疲れてしまった。

「なにが起こっても、大切なものが壊れたとしても変わらず回る世界だろうけど、優しい世界ならいいな、と、俺は思うよ」

きみは?と繋げられた声は、その言葉の割に返答を必要としていなさそうだ。
僕は。僕が望むものは。
呟く声は密やかで、宥めるようなそれは子守唄のようだ。てのひらの中にくるくると光が回る。くらくら、きらきら。まるで星のようだ。

「こんな、ひとつきりしかない命で君は世界になにを望む?」

悔いのない人生を、と星は囁く。
願うような声は、睡魔に溺れた闇の中で不確かに紡がれた。抗いがたいそれに従い、夢現に響く声はシャボン玉のような、きらきらとして、とても儚い響きを持っていた。

「きみが望むのは、どんな世界?」






ふと気付くと、いつの間にか電車は終点駅についていた。寝てしまっていたらしい。がたごと、ぷしう、と音をたてて開いた扉が山際の冷えた風を流し込む。

「…変な、夢をみた」

大分傾いた陽射しが頬に突き刺さり、ケイは瞳を閉じた。瞼の裏のあかいろは、夕陽のそれより優しくて、寂しい。
いつの間にか、あの不思議な青年は消えていた。まるで夢のように。シャボン玉が弾けるように、跡形もなく。まるで夢かのように──そしてケイは白昼夢だと飲み下す。
ぐらぐら、と揺れに慣れた体は錯覚を引き起こした。
――さぁ、目を閉じて。
始まりを告げるファンファーレのように強烈で、時計うさぎのように奇天烈で、催眠術のような不思議な響きを持っていた。夢の中なのに眠そうな男だった。
何を話したか、と言ってもあまり意味のあるやりとりではなかったとケイは思う。ただ、なんとなく、胸の支えが取れているような気がする。陽炎のように、細波のように、空気のように、世界のように。空に瞬く星のように。紡がれた掴み所のない言葉の数々はケイの心の奥底を撫でていく。
──ねぇ、君が望む世界はどんな世界?

「ぼく、は…」

ちかちか。瞳の奥には星が瞬いている。揺れる必要のない体がくらりと揺れた。繰り返される言葉。猫のようにするりと逃げてしまう言葉を捕まえるのは一苦労だ。あの、眠たげな赤色で笑う猫はのらりくらりと逃げていく。

「僕は」

白昼夢は戻らない。名前さえ知らない。答えすら必要としてはいなかった。
きみがのぞむせかいはどんなせかい?
最後に呟かれた言葉。耳に残る、眠そうな、でも優しい声。細波が謡う。語り掛けるようで、しかし独り言でしかない問い掛け。ケイが電車に乗り込んだように、まるで悩み事がないような顔で笑ったあの赤色もなにかを思ってこの電車に乗り込んだんだろうか。まるで最果てのような、なんにもない辺鄙な場所へ、ひとりになりたくて。

(でも、事実ひとりは寂しいものだ)

だからこそ、彼はケイに声を掛けたのだろうか。戯れに、意味もなく、ただ意図を持って。
それはまるで宛名のない愛の手紙のようだった。
それでも、とケイは思う。宛先不明の瓶詰めの手紙に、ただ、したためずにはいられない。
己が願う、楽園のような世界は。

「楽しかったあの頃に」

大切な友達の涙を拭いに、あの夏の木の下に戻りたかった。









160403

昔書いた短編を焼き増し改変。
好きな文体を盛り込みたかったけど亜人用に削ったら大事なところがなくなった。

相手は慎也くんです。
逃亡中の慎也くんと不意の接触をしていたIFのケイくん。

もしかしたら慎也くんはケイくんの異常な黒い粒子を感知して声を掛けたのかも知れない。
戸崎組に合流してから互いに「アッ!」てなるやつ。

地味にカイケイが前提というか、ケイくんの心の支えがカイくん過ぎて。