ケイくん弱らせたくてつらい
ケイ、と名前を呼ばれる。幼い日、昆虫採集に走り回った近所の森。
お兄ちゃん待ってよう。走り疲れて泣いた妹。ぺたんと座り込むからスカートに土がついている。おかあさんが怒るぞこれ。
仕方がないな、帰ろうか。カイに目を向ければ、うん、帰ろうと笑ってくれる。ほんとうは、もっともっとカイと一緒に遊びたかったけど、慧理子が泣いちゃったから仕方がない。
肩口に涙の感触。背負った慧理子はいつの間にか眠ってしまっていて、ぼくはずり落ちそうになる妹を揺すり上げながらえっちらおっちらと歩いていく。
「代わろうか?」
「いいよ、大丈夫」
お兄ちゃんだもん。妹の体温も寝息も、その重みも愛おしい。
カイが鞄も水筒も持ってくれたから、家までは一緒にいられるんだ。悔しいことにカイの方が力が強いから、カイに頼んだらお別れが近くなってしまう。
ふたりでゆっくり歩いた帰り道。
──あの頃は幸せだったなと思った。
これは、夢だ。ケイは分かっている。
もう戻れない幸福。それが壊れるのは一瞬で、背中のぬくもりが一瞬にして冷たくなった。
振り返れば切り刻まれた妹の手足。血溜まりに沈む小さなえりこ。おにいちゃん、たすけて。幼い声音。
「永井くん」
胴体から溢れたはらわたを踏みにじり立つ男、佐藤。相変わらずの細い目、笑う顔。白いシャツを赤く染めて、右手に大振りのナイフを持って佇んでいる。
左手には──小さな頭。あの頃はまだ黒かった短い髪の毛。太い眉毛に、幸せそうに緩んだケイの大好きな笑顔。
カイ!と叫んだ。喚いた。走りよろうとした瞬間にこける。どうして、と足を見れば、足首より下がなかった。包帯がぐるぐるに巻かれた自分の手足は長く、後ろから薄緑色の作業着を着た男たちがそれぞれ工具を鳴らしてケイを押さえ付ける。
「─────────!」
神経が断ち切られる痛みはいっそ痛みなどとは言えない。絶叫。逃げたいのに逃げられない皮膚は裂かれ開かれ筋肉をひとつひとつ切り分けられていく。
血溜まりのカイと妹。助けなきゃ。でももう動かない。それでも。
床を這う自分の爪が弾けて飛んで5本の線を描いた。それでも。
動けない自分の前に立つ人影。佐藤だった。ぼくはどうしようもなくそれを見上げる。
「弱い。それが君の罪だ」
笑う男の、その腕に背を押された少年は。金色に染めた髪に後ろ半分は昔と同じ黒色で、薄茶の瞳が困ったようにケイを見下ろしていた。
「カイ…」
呆然と名前を呼ぶ。なんで佐藤と一緒に?なんで?どうして?──嗚呼、これは夢だった。
「ケイ…一緒に九州に行こうって言ったよな」
這うばかりのケイの前にカイが立つ。いつかの河原のような。カイの悲しそうな、痛そうな顔。
「なぁ、なんで俺を置いてった?役に立たなかった?嫌いになった?信用できなかった?」
「ちがっ」
「俺はさ、すごく、寂しかったよ。ケイがいないって気付いた時」
諦めたように笑うカイの首に後ろから佐藤がナイフを突き付ける。瞬間、背に言い様のない震えが走った。
「やめろ!」
叫ぶ。僕は手足がないから動けない。体を揺らし、はらわたをこぼしながら無様に這う。
「やめろ!殺すな!カイ、逃げて!」
自分が死ぬのはいい。だって、生き返るから。亜人だから。化け物だから。
でもカイは人間なんだ。死んだらそれまで。
いや、夢だ。これは夢だ。だから、大丈夫。大丈夫──だけど、夢でもカイが死ぬところなんか見たくない。
「なぁ、ケイ。ケイは、俺のこと嫌いだから捨てた?」
場違いな笑顔。最後にみたカイのそれとダブる。あの日、山の中は夏なのに涼しかった。汚れた小屋の中は蚊の宝庫で、躍起になって潰してふたりで笑った。
「違うよ…」
ゆるゆると頭を振る。違う。カイを嫌だと思ったことはない。嫌なのは寧ろ。
「僕がカイに嫌われたくなかったから捨てたんだ」
カイを傷付けると知っていて、カイに甘え続ける自分が嫌だった。
いつか嫌われるかも知れない、だったらこのまま先に手を離してしまえば怯えなくて済む。いっそ嫌われたのなら、カイの心に永遠に住むことが出来るだろう。
「僕はカイを嫌いになんかなってない。好きだよ。ずっと好きだったよ。…だから、逃げてよ。早く。そんな、平気な顔で笑うなよ」
「どうせ夢の中だぞ?」
「それでもカイが死ぬところなんか見たくない」
だから逃げて。
「そっか」
穏やかなままに微笑んだカイの首。よかった。一言。振り抜かれるナイフ。ごとん。落ちた。
頭はボールのようには弾まないのだなぁ。嗚呼、骨は白い。首から噴射する血液が降り注ぐ。生温く、鉄臭い。
「…夢なら早く覚めろよ」
こんなもの見たくない。見たくない。
それでも。
「それは無理だ」
佐藤が笑う。カイの返り血を浴びて赤く染まった手を広げ、まるで道化のように肩を竦める。
小さなカイと大きなカイ。ふたつの死体に妹のそれ。嗚呼、これは夢だ。分かってる。
「ケイ、なんで俺を置いてった!」
新しいカイが僕を怒鳴り付ける。
「お前の所為で俺は!」
そうだね、人生を棒に振らせたね。
ごめんなさい、謝ることは叶わない。カイともう二度と会える筈もなく、先のカイはもう肉塊へと変わったから。
積み重なる死体。どんどんどんどん増えていく。再会を喜んでくれたカイ。ずっと友達だと言ってくれたカイ。ごろごろと首だけになって積もっていく。
「お兄ちゃんなんか大嫌い」
知ってるよ、慧理子。ごめんな。
生首に謝った。ごめんな、もう届かない。
「全部お兄ちゃんの所為よ」
お兄ちゃんの所為で、私はまた死ぬの。
お兄ちゃん、死ぬのは怖いよ。
怒り、悲しみ、憤り、恐怖しながら積み上げられる慧理子の頭。
ごめんな。死体に言葉は届かない。
「なぁ、もうやめてくれよ。僕が悪かった。僕が。だから、もう、殺さないでくれよ」
夢は深層心理の現れだという。僕の恐れていたもの。カイからの糾弾。カイが傷付くこと。そして同時に、受け入れられることも恐れている。
カイは優しいからきっと僕を許すだろう。僕は。僕はそれにまた甘えて、きっときっと、また同じ過ちを繰り返すのだ。
「夢なら覚めろよ!なんで…!なんで起きない!?もう殺さないで!お願いだから助けて!殺さないで!」
あらん限り叫ぶそれに無理だよおと男が笑う。
「だってさぁ、深層心理は願望を表すと言うじゃないか。だから無理だよ。君が望んだんじゃないか。彼らが死ぬことを。彼らが受け入れることを。彼らが拒絶することを──僕が、望んだんだ」
それにほらね、と少年が笑う。憎い筈の佐藤が崩れて見慣れた顔に変わる。
血にまみれた大振りのナイフを持つのはいつかの僕か。
そうだ、僕が彼らを殺した。動けないと理由をつけて、情けも容赦もなく、夢だからと延々に殺したのは僕だ。怖かったから。怖かったから殺した。恨まれるのが。嫌われるのが。怖かったから、だから殺した。殺せば、もうなにも言われないと思ったから。怯えなくて済むから。
だから殺した。
佐藤の幻影を纏わせて、非力を演じて、無念のままに見殺しにすることを選んだ。
山のような生首は全て僕が手にかけた。
「僕が一番殺したいモノは死なない、知っているだろう?」
亜人だから。
僕は、死ねない。
「だから殺せば良い」
周りのものを、大切なものを、嫌いなものを、好きなものを、全部、全部、ぜんぶぜんぶぜんぶ、壊してしまえば良い。
ほらと手渡されたナイフに、導かれるように。穏やかに目を閉じるカイの目の前に立つ。痛みなんか感じない手足。だって夢だから。痛い筈なんてないじゃないか。動けない筈なんてないじゃないか。
差し出された首に添える鈍色。鋼の輝き。
「僕は殺したくないよ」
「それでもいつか手に掛ける。カイを殺すのは僕だ」
さぁ、予行練習だ。つぷりと皮膚を断つのがまずひとつめ。思うより易い。添えた手を少しだけ引くのだ。あまりにも手応えがない。そうしたら、肉を切る。今度は力が必要で、筋肉の筋が手強い。ごりと手に感じたそれは骨だろうか。血がナイフの持ち手を濡らして指を滑らせる。
崩れ落ちたカイに馬乗りになって再び持ち手を握る。
「大丈夫だよ」
ひう、と気道から空気を漏らしながらカイが言う。
そうだね、これは夢だから。
ピリリと痛み指先が切れたと知る。カイの血に自分のものが混ざり合う。
──カイが亜人だったらいいのにな。
ふと沸き上がった願望はすごく甘美なものに思えた。
「どうしてカイは死んじゃうの」
震えるてのひらが、自分のそれを切り刻んでまで体重を掛けてナイフを押す。
どうして夢は覚めないの?こんなもの見たくないのに、したくないのに。殺したくなんかないのに。
どうしてぼくたちはおなじじゃないの。
違うと言うことが、悲しい。
「だってケイが殺すから」
そうだね。ごめんね。ごめんなさい。
死なないで。願いと裏腹に僕はカイを殺す。慈悲もなく、意味もなく。
嗚呼、こっちを見るな。僕を見るな。硝子のような目玉で。
鏡のようなそこに虚ろな僕が映ってる。
嗚呼、こっちを見るな。
僕の顔は歪んでる。笑いたいのか、泣きたいのか。意思とは反して手はナイフに体重を掛ける。
口から、首から、ぐちゃぐちゃと、血が。溢れて。
ごとん。
「永井!」
頬に走る痛みに目を覚ました。暗い部屋に、うすらと中野の顔が浮かぶ。
は、は、と荒く息を吐く。心臓はまるで胸を叩きつけるように強く打っていた。
状況が少しわからない。見慣れたベッド。灯るサイドテーブルのランプ。そうだ、カイを殺した。この手で。いや、夢だ。夢の中で。その首をおとして。ぐちゃ、と。殺した。
「おい、おい、永井?大丈夫か?」
くらくらとする頭に中野の声が響いて不快だった。ゆるりと視線を向けると少し戸惑いに瞳を揺らしたけど、すぐに破顔してよかったぁと息を吐く。
「永井さぁ、すっげー魘されてたぞ?ヤダヤダーって。びっくりした。おい、大丈夫か?永井?永井?」
のらのろと体を起こす間に中野がつらつらと話し出す。そうか。やはり、あれは夢か。皮膚を切り骨を断つあの、強い反発は、夢か。
反応を返さないケイを不思議に思ったのか、中野の声が密やかにケイを呼ぶ。覗き込む、見慣れてしまった顔。
ケイは手を上げた。ゆるゆると遅い動きは、次いで、素早く横に凪ぎ払う。
パァン、音がした。
「痛いっ!」
勢いで中野がベッドに頭をぶつけた。ついでに額がケイの膝に当たる。中身は入っていないというのに、外身だけは頑丈なそれは地味に痛い。
「痛い…じゃあやっぱり、夢なのか……」
すり、とケイは呆然と自身の手を見下ろして呟いた。じんじんと痛い。人を叩き慣れない柔い肌。
こんなものでは到底、人の首など落とせやしないのに。
考え込むケイの膝をぱしりと叩かれる。のろりと見遣れば、恨めしげな赤茶けた瞳とかち合った。
「あのなぁ、永井!フツー、そーゆーのは自分の頬でもつねるんだ!」
間違ってもゼンイで起こしてやったやつの頬を張り飛ばして夢か確認するのは間違っている!
憤慨している中野には悪いが、しかしケイは自身の手の痛みで確認している訳であり、そもそも中野の頬を張り飛ばしたのだって彼がうざかったからであり結果論としては中野の言う通りになるかも知れないが経緯としては別物だ。であるからして、中野の主張はケイに関わりのないものとする。
都合よく考えたケイは、さらりと中野を無視して膝を丸める。そして、頭を抱えて額を膝に押し付けた。
「あのさぁ」
きゃんきゃんと吠える中野に言う。流石の中野も素直に黙った。ケイの尋常ない様子は魘されていたところからもう分かっていたことだ。
言葉を見付けられずに言い淀んだケイに、中野は小さく「うん」と言った。
うん。うん。聞いてくれようとしているらしいけれど、自分がなにを言いたいのかもわからないし、それを伝えたいのかといえば否である。
あのさぁ。繰り返して、口をつぐむ。
起こしてくれたことに感謝は、確かにある。あのまま、殺すばかりであればきっと起きてから取り乱したかもしれない。醜態を晒さずに済んだことには感謝している。
けれど同時に、何故起こしたとも思った。あのまま殺せていれば、きっとケイの心は石となり恐怖だって忘れられたかも知れないのに。
中野に感謝を告げるのな癪だし、けれど責めるのも門が違うと分かってて、言葉は喉を震わせない。
沈黙が落ちた。ぎゅうと握り込んだ手のひらは痛いし、未だに心臓は重く鐘を鳴らしている。
不意に、わし、と頭を撫でられて、爪先から頭の先まで、そわざわと悪寒が突き抜ける。ケイは咄嗟にその手を振り払った。
「お前、ほんとうざい」
「むしろお前がひどい」
一瞬の体温がまだ残っている気がしてぐしゃぐしゃと頭を掻き乱すと中野の情けない声がした。
はぁ、と溜め息を吐かれる。中野の分際でなんと生意気なことだろうか。
「はいはい、分かったよ。どうせ俺は邪魔なんだろ」
すっくと立った中野はそうやけくそ気味にいい放つ。拗ねた声音そのままにどすどすと足音は遠ざかり、ぎぃ、ばたん。扉は閉じて音を更に遠くする。
そろりと顔を上げたケイはぼやと部屋を眺めた。ふたりぶんの部屋に、ひとり。たったひとりだ。
ようやく。
ようやく、ケイは肩から力を抜いた。指先は開き、音がするほど深々と息を吐く。苦しい程に、肺を空にした。
「なんで夢なんだろう」
いっそ殺してしまえれば、きっとずっともっと楽になれたのに。
出来ないと知りながらもそう思う。
夢とは言え、あの感覚を忘れることは出来ない。許容した笑みを、受け入れてはいけない。
もうどうにもならない。
「嗚呼、夢で良かった」
返すのは反響ばかりの部屋でようやく、ケイは喉を震わせた。
丸まったまま寝てしまっていたらしい。ケイは強張った肩や首を回しながら体を起こす。山際の朝は薄ら寒く、ゆるりと見渡した部屋の中に中野の姿はどこにもない。
一晩帰ってこなかったのか。
昨晩の自分の態度は流石に善意に対するにはひどいものだったと自覚はある。反省はしていないが、ほんの少しだけ、後悔。
中野は怒っているだろうか。いや、別にどうでもいいけど。
のろりとベッドから立ち上がり、雑な衣服入れから適当に服を着替えて伸びをする。
ドアノブは朝の空気に冷やされて冷たい。内開きの扉を引くと、何故か押し込まれた勢いで開いて慌てて飛び退く。
開ききった扉から、ころりと転げた茶色い塊。
「………いって、なんだ!?」
びくりと顔を上げたのはどこかに行ってしまった筈の中野で、打ち付けた頭を軽く押さえてきょろきょろと周りを見渡す。
「あ、永井」
「…なにやってんだよ、中野」
ケイを見留めてへらと笑った中野は昨晩のことを全く気にしていないようだった。むしろ、あっけらかんとした中野にケイの方が戸惑ってしまう。
ケイが中野の立場であったならば、絶対に許さない。顔も合わせないし言葉も交わさないし存在を記憶することすらしないだろう。なのに、なんでだ?なんで中野はこんなにざっくらばんなんだ?
そんなケイの葛藤も知らずにパンパンと埃を叩いて立ち上がった中野はケイの爪先から頭の先まで一通り眺めて、よし、と破顔する。
「永井、元気出たみたいだな」
「は?」
「さーメシだメシ。腹も満たされりゃきっと怖い夢も吹き飛ぶぞ!」
バシバシとケイの肩を叩いた中野はそのままケイの腕を掴んで歩き出す。
起き抜けからテンションの高い中野にどうにもついていけなくて困る。足が縺れそうになるのを必死に立て直してついていく。
「…なぁ、おい、中野」
「ん?」
ずんずん歩く中野は振り返らなかった。いつもだったら顔を見るのに。
そう思いながらも、それをありがたく思う自分がいる。
「お前、怒ってないの?」
あの理不尽なビンタに、結果的に一晩追い出してしまったこと。
いや、追い出したとは語弊か。中野が勝手に出ていっただけでケイになんの責任はない。責任はないけれど──やはり、原因は自分だ。一抹の申し訳なさがない訳でもない。
相変わらず振り向かない中野の後ろ頭が答える。
「怒ってない」
冷えてしまった中野の腕。嘘だ、と瞬発的にケイは反論した。どう考えても扉の前で寝るのは大変だったと思う。それを怒らないなんて、嘘だ。
嘘じゃねーって、と中野は軽く笑い声を上げた。
「俺だってさぁ、分かるよ。お前、触られるのとか嫌いだろ。一人がいいだろ。知ってるよ。だから、いいよ」
永井が元気になれたんなら、いいよ。
大丈夫だよ、よかったな。
いつもは騒がしいけれど、囁く程のささやかな声音に乗る気遣い。
静かな朝に足音が続く。分かられていることが悔しい。
「なぁ、中野」
「んー?」
悪かった。小さく呟いたそれに驚いて振り返った中野の頬を、ケイは思い切り張り飛ばしたのだった。
こっちを見んなよ、バカ。
160314
鬱話が続くと思った?
残念!友情エンドだよ!!!
そしてコウくんの頬張り飛ばしエンドだよ不憫!!!!!!
最終的に張り飛ばしたのは、最後の最後で顔を見ようとしてしまったから。振り返らなければ終われたのにねオチ要員。赤い顔は見せられませんぞ!