□いつか至る彼方へ




司書が、急死した。
平穏そのものであった僕らの図書館は、その日、停止した。
その日、司書は確かに笑っていたのだ。寝癖を跳ねさせて、誤魔化しにもならない薄笑いを浮かべて。真顔で三秒見つめればすぐに塩をかけた青菜のようにしんなりとする司書に耐えきれず僕が笑うと、彼はふてくされたように頬を膨らまし、けれども照れ臭そうな笑みを浮かべて。
それが僕らの日常で、そんな彼がまさか錬金術師としてはそれなりとは誰が思うだろうか。
でも、そういえば彼はそんな不思議な能力があれども首が胴と離れたら壊れてしまう普通の人間であったのだった。
僕らは戸惑った。そして憤った──彼が死んでしまったのは政府から回された黒い本が原因だったのだから。
彼は、司書は、決して頭が良いとは言えず、顔も良いとも言えず、でも憎めない性格をしていた。お調子者でおっちょこちょいだったが、それでも人が良くて優しい子だった。こんな道半ばで亡くすには惜しいいい子だったのだ。
まだ二十歳を少し過ぎた頃の彼にはもっともっと遥かに続く人生が、あった筈なのに──。

侵蝕の激しい、黒い本。
それはこの世に物理的な干渉を出来ない筈だったのだ。物語の改竄、存在の消去。伴う文化の変化や衰退という一種の時代改変。それらが侵蝕者の驚異とされていたというのに──だからこそと言うべきか。

無造作に卓の上に置かれたその本から汚泥のような闇が放たれた。

一直線に伸びた闇は揺れて文字を象ると崩れて消えた。まるで燻る煙のようだが、しかし、司書の首を絞め上げるそれがただの煙である筈がない。
「ぐ、が、」
理解が出来ぬまま落ちた沈黙。そこに落ちた司書の苦し気な呻き声。
首を絞め上げられている彼は二、三と空を蹴った。爪先が辛うじてつく程度に浮かされた彼は自重でぎりぎりと己の首を絞めてさえ行く。
「──ッ、司書さん!」
ようやくにして動いたのは犀星であった。朔太郎の世話の為、突拍子のないことに慣れているのだろうか。飛び付いた煙は、けれども犀星の指にはひとつとして引っ掛からなかった。
「クソッ! なんだよこれ、触れない!? ふざけんな…ふざけんな! 司書を離せ!」
「犀星、司書さん!」
犀星の声を合図に皆が動き出そうとも首を絞められている司書の顔がどんどん赤黒く変色していく。ひゅうひゅうと音を立てる司書の口端からは飲み込めない唾液が伝った。
「館長! これは一体どういうことだ!?」
「その本は一体なんなんだ!?」
文豪からの詰問に厳しい顔を崩さないまま館長は司書と黒い侵蝕本を睨み付けていた。ネコも毛を逆立てて威嚇している。
それは一瞬のことだった。
司書が闇に引っ張られた。あんなにも戦い慣れた筈の僕らは、それでも誰も動けなかった。たとえば泥水の中にいるかのような。そんな、不思議な体の重さがあったかのように思う。
「あ、」
闇が。
闇が司書を食べてしまった。
なんとも陳腐な言い方だけれど、まさにその表現がぴったりだった。引き摺り込まれた本にぱくりとかじられてしまったあの子は、まるで嘘のようにその細首から血を噴き出して、勢いに負けて後ろへと倒れ込んだのだ。
滴る血はそれでも本を赤くは染めなかった。より深い闇がそれを飲み込んでしまったから。
──正直、その後のことを僕はよく覚えていない。
誰かの声が聞こえた。
悲鳴だった、怒号だった。
何故を問う声が、途切れて、消えた。どさりという音と共に。
振り返れば死屍累々と倒れる仲間達。彼らも一様に驚いた顔をしていてその状態が彼らの望むものではないと知れ──僕もまた、膝をつかなければならない程に体から力が抜けている。
「なに……これ………?」
誰かの呻き声。それもまたすぐに弱くなり。
「…そうか、徳田の転生は司書の力だけではなかったな」
霞ゆく意識に響いたのは館長の声。
だからなんなの、それがどうしたの。問おうとしたのに声は出ず。
「徳田、ここは封印させて貰う。本は回収していくぞ」
「まっ、ぁ…」
館長の声に胸元を抑えていた手を伸ばす。霞がかる視界にも確かに館長は見てとれた。おおきい。おおきいひとだ。手が。てが。のびる。てをのばす。
ぼくのゆびをすりぬけててがのびた。おおきい。くろい。くろいのはなんだ、ぼくは。
「お前らを満たしていた力の素が消えてしまった今、お前らがどう変質していくか予測がつかん──すまない。だが、俺は館長として最悪を防がねばならんのだ」
「──……」
しかいをおおったてのひらに、しろい、らせん、が、うかんだ。もようをえがく□□に、ぼくは、□□は、もう、□□をみて□るこ□□でき□に──僕はそこで意識を失ったのであった。





意識を取り戻したのはそれからそう時間は掛からなかったと思う。
錬金術師の粋でもって封鎖されたらしい扉は、高々転生させられ作られた僕たちには到底破れそうもない代物だった。
だって仕方がないではないか。
僕らはみんな、数奇な生を与えられたとは言え、錬金術などといった異能を持っている訳ではない。…異様な、戦闘能力は付与されたけれど。
しかもそれを施したのがあの子、司書よりも経験豊富な館長や猫の手によるものなのだから。いや、彼ら以外にも優秀な手を揃えていたのかも知れないが。
それら全て、閉ざされた図書館に閉じ込められた僕らには知る由もないのだ。
意識を取り戻した文豪たちに経緯を説明すれば、哀惜に涙し、恐慌しに荒れ、泣き喚き、憤っては怒り狂う者もいたけれど、箱庭の生活は存外に穏やかに過ぎ、僕らは日常に戻った。
といっても必須であった潜書の仕事はなくなった。溜まりに溜まった食料はどうやら錬金術の技術で以て傷まず腐らずという具合なので食事に心配もない。一部の文豪が趣味で行っていた畑も今となっては市民権を得、拡張に精を出している。そんな風に僕たちの日常はゆっくりと回り始めたのだ。平穏な、なにもない日常が──と、そう思えていた日々が懐かしい。
日は昇りそして沈み、時には雨が、時には雷が。現実と同じく気まぐれな天気。不思議とよく育つ中庭の畑は季節の野菜を実らせて、余りある本を緩やかに読む。まるで変わらぬ平穏な日常だけれど、ロの字に囲む建物の外側に向かう窓の外は暗黒だし、玄関扉は開くものの中庭の用具入れに通じている異空間だ。
でも僕たちは、なんだかんだで「生き返らせたから、これから侵蝕者ってのと戦ってね!」と言われてさえ諾と応えた猛者たちなので、そんなことから簡単に目を逸らすことが出来るのだ。

さて、僕らの身に起こった異常の話をしよう。
これは推測であるが、僕たちの肉体は作り物であり、維持に必要なのは司書が持つ「錬金術師の力」とその彼との繋がりであったのだと思う。
洋墨を使った補修は肉体の損傷だけを直していたのではないのだ。洋墨を変化させて僕たちに接種させる、そのことが出来る司書によって作られていた僕たちの心身の安定は維持されていたのだろう。
また、あの時に皆から力が抜けてしまった件に関しては、たとえば操り人形を想像してほしい。突如、支えを失った故に人形は倒れてしまった。けれど、人形自体に不備はなく、言うなればあれは外部供給されていた活動エネルギーを自家発電に切り替える為の仕様だったという訳だ。
それがいつまで続くのかという不安は皆、持っていたと思う。自家発電にも限りはあるだろう、と。
日が経つにつれ失われていくらしいそれに初めに体を壊したのは、司書が急死する数日前に転生してきた者であった。図書館が封印されてから二ヶ月程経った頃辺りだろうか。皆が、ようやく平穏を本心から受け入れ始めた頃であった。
彼は身体の異常を訴えた。異常な痛みやじんましん、幻覚、幻聴。はたまた原因の見えない心神喪失、躁鬱といった症状。彼の前には侵蝕者がいるらしい。狂乱の中振り回される武器は空を切っても彼の意識が途切れるまでは止まらない。
司書の作りおきの精製薬を飲ませれば数日は効いたけれど、それを作っていた司書がいないのだから補充ができない。案外すぐに品切となってしまい、森先生と頭を抱えたのは記憶に新しい。
そう、新しいのだ。然程時間は経っていない。どうにかしようと僕らがなにをやっても洋墨に変化は見られなかった。しまいには洋墨をそのまま飲み下し、精神を狂わせた男が口も胸も青に黒に染めて笑い悶える姿をただ見るより他ない。
僕らにはどうすることも出来ず、ただ、気がつけば──終わっていた。
前日まで苦しいまでに生きていた筈の彼は、まるでネジのの切れた人形だ。精巧に作られた人形、というのは僕らの存在からすれば間違ってはいないのだけれど。不思議と腐ることのない肉体はまさに錬金術といった感じか。まぁ、司書という歯車が欠けたのだから同じことなのだが。
それでも、生に疲労した様子を見せていた彼がそうして穏やかな終わりを迎えたのを見て、僕は、僕らは確かに安堵したのだった。

発狂。そう言って然るべき醜態。
ふたりめの転生の若い順に壊れたその人に、順番が確定されてしまった悲劇。しかしどうやら錬度も関係あるらしかった。開花の具合も含め、総じて育成が後回しにされた者は異常に抗う力も弱いようだ。精神の安定感というものが足りなければ魂との定着も弱いということなのだろう。ひとり、ふたりと見送ってそう秋声は結論付けた。もう青洋墨の精製薬は残っていない。つまり、もう誰も救えないという訳だ。
それは秋声以外の全員、分かっていただろう。だからといってもうどうすることもできないのだ。絶望とか憤怒とか、人間、こんなものをこんなにも山と積むことが出来るのだなと思った。
そんな中、醜態を厭う人がいて、自身の手で終わらせてしまった者がいる。まるで散歩に行くかのように気楽に手を振って。落ちた有碍書の隣に動かなくなったイレモノだけを残して。
今度は一緒に、と指を交わした者、終わりの一瞬を側にと望んだ者。輪を作って、空を飛ぶ。軽やかに揺れる足先。ひしゃげた指先。震える手と手をつないでこれで寂しくないと笑って、涙に流されていった。
その苦しみの深さのあまりにもに見てもいられず、そっと、終わらせられた人もいた。
怖い、と思わない人はいなかったと思う。
それでも僕らは「二度目だからね」と強がって、さいごの日まで、確かに生きた。
泣いたり、笑ったり、悔いたり、嬉しがったり。
終わりが決まっているからこそ、惜しむことが出来ると言ったあの人は、いつもと変わらぬ笑みで手を振ってこのいびつな生に幕を閉じた。
また置いていくことになるなと申し訳なさそうな友を師を、今度は看取って貰う側かと苦く笑む弟子を友を、見送って。
ひとり、またひとりと終えていく。





「やーぁ、静かになりましたねぇ」
「そうだね」
閑散とした図書館のエントランス。
人手が足りずもう十分な手入れは出来なくなった。埃が隅に溜まっていて、まるであの子と三人だけだった時のようだと僕は笑った。
エントランスの階段に脚を投げ出して座る僕らで、もう、さいご。
僕らはふたり。はじめのふたり。
数日前から、相棒とも言えた彼の体が壊れ始めてしまったのだ。あれれーおかしいぞぉ?なんてテレビで見たキャラクターを模して笑うものだから、僕はたまらなくなって理不尽に怒鳴り付けてしまったけれど──それでも彼は僕に大丈夫だって言って背中をさすってくれて──だから僕はまた泣けてしまって──あんまりの醜態に、もしかして僕も壊れているんじゃないかななんて思いもした。
でも、そんなことはなくて。
「…覚えとります?センセたら、ここで盛大にこけはったん」
「なんでそんなどうでもいいこと覚えてるの?!」
「ケッケッケッ、そりゃあ、大切な秋声サンとの思い出ですもん」
こどものように脚をばたつかせた織田くんに僕はむせた。盛大にむせた。僕の肩に頬を預けていた織田くんはパッと身を起こすとそっと背中を撫でてくれる。その骨ばった手は彼らしい少しだけ冷えた手で、触れられているとじわりじわりとあたたかくなってくる。
嗚呼、生きているんだな。
「…僕も覚えているよ」
溜め息混じりに僕も言う。
「こけた僕を助けようとして、結局君も一緒に転んだんだよね」
「そうそう! 司書サンの初めての補修はそれやったんですよね! で、忘れろ〜て司書サンに詰め寄る秋声サンの剣幕と言ったら!」
「当たり前だろう、あんな黒歴史。しかも、口止めはふたりだけで良いときた……ふふ、あのね。僕、実は君が誰かに言うんじゃないかと思っていたんだ」
関西人だからと偏見を口にすれば織田くんががっくりと肩を落とした。
「イケズなこと言わんとってやぁ。関西人、冗談は言うけど嘘は言わんですぅ。
……ワシなぁ、センセのこと、初めて会うた時取っ付きにくそうなお人や思て緊張したんよ。でも、あれがあったから考え変えたんやで」
「取っ付きにくいとはよく言われるね」
異もなくただ頷く僕に織田くんは破顔して「可愛いお人や思たんや!」と言うものだから、僕は「なんで?」と真顔で問い掛けることしか出来ないのだった。
そんな、他愛もない会話を僕らは延々と繰り返した。もう終わりが見えており少しの時間も勿体無かった。不意に溢れる涙も無視して唇は動く。ペンで走らせる言葉とはまるで違う、拙い感情。
次第に、微睡むように。
ゆっくりとした呼吸は正に眠るかのように。
「君のみつあみの、はじめての被害者は僕だったね」
膝の上に乗せた頭、その柔らかな髪を撫でながら僕は言った。
彼が動く度に合わせて跳ねるそのみつあみはしなやかで、鞭が如く、周りの人を襲っていた。いつも大体一緒にいたし、また、認めたくはないが身長差からして誰よりも食らったのは自分だろうと確信している。
「君のそれは立派な武器だった。いつかいつか、それを切ってやろうかと思っていたよ。それでも、あまりに君に似合っているものだからついぞ鋏を持つ手は君に伸びなかったけれど」
また明日、と言えればよかった。もう終わり、さようなら、なんて淋しすぎる。
折角出会えたのに。
一緒に笑って怒って、悲しんで泣いて。時に悪戯をされて、時に一緒に悪戯をしたこともあった。驚く周りにしてやったりと顔を見合わせて笑ったのは懐かしく、大切な思い出のひとつだった。
本来は有り得ないこの延長戦。失くしたもの、置いていったもの。置いていかれたもの。のこしたもの。全てが入り交じる夢の世界と言えたこの四角い箱の中、積み重ねた全ての記憶が、叫ぶ。
──ひとりは、いやだ。
さみしい、かなしい。つらい。
それだけは、どうしても言いたくなかった。
遺す苦しみも遺される苦しみも、僕はよく知っていたから。
嗚呼、でも、もう。
「僕はもう、ひとりか…」
つるりとした頬を撫でる。もう睫毛一本震わさない。
まじまじと相棒の顔を見直す。何度も見た、むしろ自分の顔よりも多くの時間みていた顔だ。穏やかな寝顔。嗚呼、生きていたのにな。
ほたりと落ちた涙。不思議なことに涙は尽きることを知らない。本当に、川ができてしまいそうだ。
「ありがとう」
気難しいとよく言われる僕に、めげずによく付き合ってくれた。
愛嬌があってこんな僕を慕ってくれて、可愛いと言えば君の方がよっぽどで。
「……おやすみ、織田くん。よい夢を」
僕は君を確かに愛していた。
君の眠りが。みんなの眠りが。
どうか、穏やかなものでありますようにと祈る。


ともしびをなくした文豪たちはそれぞれの部屋に還していった。
いつか目覚める時が来る、という期待もあったと思う。みんなそんなことあり得ないと分かっていても、それでも願わずにはいられなかった。それだけ、あのあたたかな日々が大切だったのだ。
けれども、繰り返される苦痛と哀惜を前に僕はそれに疑問を抱く。
──生きるということは無条件に歓迎されるべきことなのか?
僕は織田くんを部屋に戻してその胸元にかけぶとんを引き上げた。
風邪を引いたらいけないから、なんておにんぎょうあそびのおままごと。
そして僕は部屋に帰って身支度を整える。胴着に袴だけの簡単なものからきちんとマントかけて脚絆の位置も調節して。
──予感があったのだ。



「やぁ、随分とご無沙汰だったね」
「……徳田」
中庭の用具入れに繋がっている筈の異次元玄関扉から現れたのは灰の毛の毛並みの猫──見慣れた、あのネコだ。
僕に対して警戒を見せる彼へ、僕は気にせずゆっくりとエントランスの階段を下りていく。司書の首根っこを掴んで引き摺るように進む僕の隣の織田くんが荷物を持って「しょうもな」と笑った記憶が甦る。館長はおおらかだから少しの遅刻は気にしない、まるで親戚のおじさんのような親しみのある笑顔で出迎えてくれていた。しかしネコは館長とは違って気が短いから、たしんたしんと床を尻尾で叩いたかと思えば、未だ目も開ききらない司書に「遅い!」と叱りつけたりしたことも一度や二度のどころではない。僕や織田くんはネコと一緒になって司書を非難して、最後にはいつも司書を甘やかしすぎだと三人で正座をさせられたことだって懐かしい──そんな日常がかつてはあったのだ。
「もう僕らのことは忘れてしまったものだと思っていたよ。…なんてね。
キミだけかい? 館長は?」
そう笑って僕は首を傾げた。刺々しかったがそれでも味方の側に立っていた筈のネコは、今、僕を敵だと認定してその背の背をにわかに膨らませている。それを少し寂しく思いながら、僕は話題を続けた。
「さて、このタイミングでやってきたということは、僕たちを観察していたってことでいいよね。いや、観察しない筈がないのだけれど。
で、結局、なにか結論は出たのかい?」
僕らしくない長台詞。
「僕には知る権利がある筈だ。何故なら、さいごのひとりなんだからね。みんなと一緒に壊れることもできないのは──キミたちの所為なんだから、さぁ…!」
取り残された男の怒りが悲しみが、静かに言葉を震わせる。
あの日、館長は言った。僕だけは司書の力だけで転生したのではなかった、と。
順番が一番最後──はじめのひとり、だからではなく、僕がひとり今、立つのは──司書だけの影響を受けて転生した訳ではないから──つまり、ネコが生きている限り、みんなと一緒には逝けないということだ。
ひくつく頬に、知らず鋭くなる視線に、ネコはそっと両足を揃えておすわりをした。
きっと犀星なら可愛いと言っただろう、お行儀の良い姿。でも今のささくれだった僕には腹立たしさが増すばかり。
「……まずは」
ネコが言った。
「結論を言おう。確かに、我輩たちはお前たちを経過観察していた。そして文豪は司書を失う、または手入れが行き届かニャイと心身喪失することを確認した。
また、消失の順序は時間経過のものが要であり、しかし錬度もまたその侵蝕に関係する。それだけ魂と肉体の結び付きが強いものにニャるのだろうという推測ができる。
自傷行為は確認されたものの、司書代替がうまくいけば統制は取れるものと政府は判断した」
「……つまり、もし次に似たようなことがあった時、僕たちみたいな封印指定にはしない、ということ?」
恐る恐る聞いた僕に、ネコはゆると視線を下げると小さく首を振る。
「……いや、まだ未定だ。方向としては継続方式を検討しているが、サンプルケースが少ニャすぎる。それに、馴染んだ司書以外の能力や手法で文豪がどのような変化をするかが未知数だ。確約するには早すぎる……」
そう言って暫く言い淀むと、ネコは顔を上げた。
「この図書館の文豪は今、言うニャれば動力とニャる司書の力、エネルギーが不足しているが故の休眠状態と言える。だから、他の錬金術師の力を注いで」
「──いやだ!」
咄嗟に僕はネコの言葉を遮った。
そんな怒声とは裏腹に、青白く血の気の引いた顔で僕はネコを睨みつける。わなわなと震え、全身が拒絶を示している。
「いやだ! いやだいやだいやだ! そんなの絶対許さない!
君たちは! 何度、僕らを殺せば気が済むんだい!? 勝手に転生させられて、そして戦えって言われて! で、危ないかもだからって閉じ込めて? そして僕らが死ぬのを死んでいくのを眺めただけ。みんな、みんな、苦しんで死んだというのに、今度はそれを叩き起こすと言う訳? どうせうまくいかなければ、いや、違う。うまくいったとしても、実験の一環で、また殺すつもりなのだろう?そうでなければ実験とは言えないものね。分かるかい? この、喪失感が! 虚無感が! 置いていく、置いていかれる、この虚しさが寂しさが──君たちにはわからないのだろうけれど…ふざけないでくれ……!
どうして、どうして僕らが……ッ!」
ひ、と喉を鳴らした僕は、知らず溢れた涙をぐいぐいと袖で拭いた。
そうだ、昔から僕は涙腺が弱くて感情が昂るとぼろぼろと溢してしまうやつであったのだ。
努めてゆっくり息を吸い、吐いて、ごくりと唾を飲み込んだ。
「どう、して。僕らが、こんなにも、苦しまなければならないんだい………ッ」
顔を上げた。やっぱり涙は止まらなかったけど、そうしないといけないと分かっていたから。
ネコをまっすぐに見て、彼と目を合わせてそう言う。
ネコはやはり感情のわからない顔で、じっと僕を見返していた。
「……お前たちの文学だからではニャイのか?」
猫の表情など分からない。元々、動物の表情など読もうと思ったこともないし、このネコは人間の感情を理解していない部分があることを知っていたけれど、それでも心底不思議そうに、真実を告げているだけのような顔に思えた。
ふ、ふ、と喉が震える。
「おかしなことをいうね。それを守れなかった後世の──君たちが不甲斐ない所為だろう?」
間違えないでくれ、と僕は笑った。
涙に濡れて、あまりにも情けなく間抜けな笑みであっただろう。
「僕はね──僕の文学が消えても構わない」
時代、思想、主義。それらを反映する歴史と文学。
守るとは言った。守りたいとは思った。
でも、それは引き継いでいかなければならないものでもないと思う。時代時代に埋もれていった数々の作品がある。僕の文学もそれと同じだ。朽ちるのが運命と言うならば、いつか、廃れて消えてしまうと言うならばそれも仕方がないことなのだ。
それが流れと言うならば。
──ただ、それが。誰かの意図によってというのが気に入らないだけ。
だから抗う。
昔、文学を守る為に立ち上がった者が確かにいたのを知っている。拷問死という無惨な結末を迎えた者もいたけれど、それでも覚悟を決めて立ち向かったのだ。
そして大切な人の文学だから守りたいと願った。
だから戦う。
──ただ、それだけ。
「取り違うなよ。我が身で戦えない不甲斐ない自分たちを恥じろ。その責を先人に、なによりも死者に作者になすりつけるなんてみっともない真似をした、その自分たちを恥じろ。
命を弄ぶ自分たちの恥を政府は知るべきだ!」
感情のままに吠えた激昂にネコは言葉を飲んだ。突き付けられたその言葉に驚いているように思える。
そんな責任転嫁を本当に気付いていなかったのか、それとも目を背けていただけなのか。
それを見て僕は大声で笑い出したい気分になった。
知らなかったのならば教えてあげよう、キミタチの傲慢さを。情けなさも情けの無さも。
その背にいるだろう館長や政府の──神様気取りの人間に、僕の気持ちは、その犯した罪は伝わっただろうか。
「……僕は、許さない。彼らをこれ以上苦しめることを」
ぱちりと瞬いたまつげに涙が弾けた。す、と熱が引いた気持ちで背を正す。
「このままにして、なにか君たちに負担はあるかい?」
たとえば保存の為にかかる費用や労力などだ。
問えば、一度完全に閉じてしまえば内側で設定されているプログラムが自動稼動・維持するということであった。なんとも不思議な造りであるが、空間拡張の技術で作った異次元なので独立性があるらしい。
「ならば僕は求める。僕たちへのこれ以上の干渉をするな。朽ちるに任せ、捨ててくれ」
駄賃くらいもらっても良いだろうと言えば、ネコは「お前の一存で皆の生を捨てるのか」と言った。
「仲間の命を、文学の未来をお前の我儘ひとつで捨てて、それで満足か。徳田」
「…我儘、か。勘違いしないで欲しいね。僕はこの図書館の話をしている。ここだけの。そう──こことは違う図書館の話はしていないさ」
詰るネコに僕は肩を竦めた。
「先に捨てたのはどちらだい? どうせ、僕らの代わりは数多にあるのだから、捨てたものを拾うだなんてみみっちい真似をしないでどこぞに新しい図書館でも建ててしまえば良いじゃないか。新しい僕たちにはこんな苦しみが刻まれてはいないのだから、君たちの望むべくに愚かしくとも頷いてくれるんじゃないかな。過去の僕たちと同じくね?」
それか、意見を問わず、有無を言わせず全て壊してしまえばいいだけだ。
「捨てられた者の気持ちがネコには分かるまいよ。捨てる者には分かるまいよ。今更…願望を聞き届ける形にすれば、君たちの罪悪感が薄れるといった狙いだろうか。
でもね。知る者、知らぬ者の溝を政府はもっとよく知るべきだ」
一度付いてしまった傷はなかったことには出来ない。たとえ塞がり、外からわからなくなったとしても、痛みの記憶、苦痛の過去は消えやしない。見えないから「ない」ということではないのだ。
施してやったからいい、だなんて思ってもらってしまっては困るのだ。
「僕はもう苦しみたくない。し、苦しませたくない。ここにいる彼ら以外の仲間を欲しいとも思わない。あの、僕らの司書さん以外の司書さんもね。
平穏を味あわせてしまった君たちの落ち度だよ。苦痛を強いた君たちの落ち度だよ。もしも政府が真に実験をしたいと望むなら、真っ白な僕たちに無体を強いれば良いだけだったのさ」
だから。本来なら壊してしまえばいいだけのものの意見が通るかは万一にしか確率がない。練度が惜しいと言えどそれは時が解決してくれる問題だ。反感を抱くものを擁するよりも作り直した方がコストも不安も手間も罪悪感もなくて楽だろうに。
それでも痛ましい顔を見せた館長に。
譲歩のような形を取る政府の反応を見る限り、罪悪感を持って──贖罪という名の恩着せ目的ともとれる──この場に臨んでいるのであれば、そうと伝えるだけの価値はあるだろうと思って僕は言う。
「もういいじゃないか。僕たちを解放してくれ」

静かに、眠りたいだけなんだ。





ネコはそうして、一度持ち帰ると言ってその背を向けた。
ごごん、と響く扉の音。
重たい脚を動かして、もうこちらから開くことは出来ない扉に額を擦り付ける。
「……これで、よかったのかなぁ」
ほたりとまた雫が落ちた。
ネコの言ったことは尤もだ。
死なせたくない、苦しませたくない──こんなもの、僕の我儘にしか過ぎないのだ。
戦いたいと願ったものもいるかも知れない。
勝手に決められて腹を立たせる人もいるだろう。
それに──ただひとり自壊できない秋声であるが、他と同じく──ただ壊れようと思えば、可能なのだ。
──有碍書への潜書と、それによる侵蝕。
自我を喪失してなお先へと進めば、僕たち、作られた存在でも死ぬことは可能なのだ。
先に逝った、あの人たちが実例を示してくれたから。
それでも僕はこの道しか選べない。
「ごめん……」
さいごまで僕を笑わそうとしてくれたオダサクくん。
先にいってると笑った花袋。
たくさんのごちそうを食べて、満足そうに眠った多喜二くん。
怖くなんかないさと笑った志賀さん。
ごんとふたり、仲良く並んだ南吉くん。
またも、見送ることとなった師匠と、今度こそ見送れた、鏡花の整ったその死に顔。
「ごめんね、みんな…」
他所の図書館が戦ってくれているおかげで、僕らのところひとつが朽ち果てても文学の侵蝕は瀬戸際で食い止められている。
本当は壊れてしまった方がいいのだろう。その方が余計な面倒はない筈なのだ。政府としても、自分としても、眠る彼らの屍も。
こだわるのはただ思い出に縋る秋声の身勝手の為。
捨て置けと言いながら──いつかの来るその時に、真の平和を知りたいが為のただの我が儘に過ぎないのだ。
揺れる爪先の上に垂れる銀髪も、壊れた眼鏡をそのままに大切なものを壊さないように壊した男も。
また、あいつは俺を置いていくんだなといつもは顔を上げて笑うあの人の落ちた肩も。
君たちを生き返らせることも、全てを終わりにさせることも選択できない自分が情けなくて、その場にうずくまって僕は泣いた。
いいよ、と言って欲しかった。
だめだよ、と言って欲しかった。
泣いて、泣いて、泣きまくったけど、その背を撫でてくれる人はもういない。
笑い飛ばしてくれる人も、叱りつけてくれる人も、心配してくれるも、もう誰ひとり。









閉ざされた世界に暫くして光が差した。
人ならざる人の身には睡眠も食事も特に必要ない。あの日あのままエントランスで寝入ってしまったままに任せてぼんやりしていた僕は、「そこでニャにをしている。だらしニャい格好をして」と呆れるネコの声に久々に体を動かした。
「やぁ、ネコ。久しぶり」
訝しそうなネコの視線を気にせず小さく笑えば、彼はネコなりにひきつったような顔をしてみせた。ひどい。
「待っていたよ、結論は?」
「───」
「そう。すまないね。」
伝えるだけ伝えたネコはさっさと踵を返す。扉を越えた彼の尻尾がひらと一度振れ、まるでさようならの合図のようで。
「僕はね」
その背中に声を掛けたのは、それこそ僕の罪悪感の現れだったのだろう。
「僕たちはね。司書さんのことが好きだったよ。館長のこと、アカやアオのこと。そして、ネコ。君のことも。大好きなんだ」
──君たちを手伝えなくてごめんね。
きっと、辛かったのは僕たちだけじゃなかった筈だ。あの日の苦渋に満ちた館長の顔が、今、まざまざと思い返される。
君たちは決して非道な人ではなかった。個人としての優しさで歯車としての決断力を鈍らせない人であった。それは、小を犠牲にして大を救う意思だったのだと思う。
そもそも、自分たちの存在自体からしていくつもの失敗の上に作られた存在なんだということをそれなりに理解してはいるつもりだ。
…あのあと、アカとアオは大丈夫だっただろうか。年齢の割に大人びていて、年齢の割にもっとこどもでもわかるようなことを知らなかったあのイビツなこどもたち──嗚呼、悲しい想いをさせて、ごめんなさい。
思わずそう呟いていたのは、ともすればただひとり残る自分への哀れみと親愛の名残だったのか。
「僕はここでお別れだけど──君たちの健闘を祈ってる。どうかネコよ。長生きしておくれ」
そう言って手を振れば、ネコは振り返って小さく開いた扉の隙間から顔を覗かせる。
「我輩が長生きをすれば、それだけお前が死ねないと言うことだぞ、徳田」
「そうだね。君こそ知っているかい?長生きとは──必ず死ねという願いだよ」
そう言うと、ネコは驚いた様子で毛をぶわと膨らませた。
それに笑いながら僕は一歩一歩と足を進める。
「君が死ぬ時は文学を守ったその後だ。そうだろう?──僕は君の死を願ってる。でも、同時に君の幸福も祈ってる」
言っただろう、君たちが好きなんだと。
こんな目にあってしまってさえ、君たちを憎みきれやしないんだ。
喋る猫という見るからに異常な存在はきっと自分たちに近しいものであろうと推測している。そう簡単に死ねないものではない。もしかしたら、死という概念を個として持っていない可能性もある。この目の前にいるネコという存在が壊れたとしても大元の存在というものが倒れない限り第二第三のネコがという昔ながらの敵の典型のような存在なのではないか。
僕たちが司書や政府という存在に命を掴まれているのと同じように、このネコもまたそれらに管理されたデバイスのひとつなのだろう。
きっと、死にたくても死ねないのはお互い様なのだ。
きっと、僕が唯一、責めてはいけない相手がこのネコだったのかも知れない。
「ねぇ、忘れないでね。未来は、僕たちと、君たちの屍の上に成るものだ。君たちの努力の末に成るものだ。
だから、……そうだな。君たちは、不思議な力が使えたって、せいぜい凡人だってことを忘れずに生きなよ。それが分相応ってものさ」
僕は扉の前まで来ると膝をついて猫に近付いた。少しだけ近付いた視線。そっと伸ばした手を猫には拒まず受け入れてくれた。
柔らかな毛並み。小さな頭。顎の下をくすぐれば、反射だろうか、ネコの目が少し細くなる。
久々の、生きたもののあたたかさがそこにあった。
「僕は、君に死が来るのを、ここで待っているよ。ずっと、ずっとね」
それが穏やかなものであるように。
世界が、死者の墓標が。本が。本という人生の道標が。平和で、平穏で、幸福な夢に浸かっていられますように。
見開く灰の瞳にさようなら。
ネコがなにかを口走ったようだったが、構わずに自ら扉を閉じてしまう。ごごんと大きな音が響いた。
そら、これでもう終わりだ。
僕は、ふは、なんて間抜けな音で笑った。あの日の涙はもう流れない。
寂しい。
でも、恨みも辛みも悲しみも、持っていくには重すぎる。
「嗚呼…鏡花にもっと素直になればよかったな」
後悔とは後に悔いるから後悔だ。
もう僕に先はない。ならば無為に振り返り誰かを恨むより、優しい人を惜しみたい。
「師匠にもっと深く教えを乞えばよかったな。花袋と島崎と国木田と…みんなと旅行、行きたかったなぁ…」
そら、これが僕の分相応。後悔を引きずって、それでも生きるのだからこれくらいが丁度いい。後悔ではなく哀惜を。愛惜を。
閉じられた世界と裏腹の、優しくあたたかな光が降り注ぐ。

「嗚呼、僕は独りだ」

この狭い箱庭の中、終わりが来るまで。
いつか至るその彼方の時まで。



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