17.寝苦しい夜の過ごし方

「さあさ、お上がりくださいませ。――ほら、お客様のご到着だよ! 早く盥をお持ちしな!」

夕暮れ時、じりじりと照りつける太陽が傾いたとはいえ体中から汗が流れ落ちた。
前の旅籠屋でも隣の旅籠屋からも客引きの声が飛び交う。
飯盛り女が旅姿の侍の腕を引き、誘われるように宿内に入っていく姿を横目で見ながら薬売りと連は今宵の宿に足を踏み入れた。

中からは「はい、ただいま!」と女中たちが忙しそうに駆けまわりながら返事をする。
そして間もなく、二つの湯を張った盥を持った女中たちが玄関先へと現れた。


『宿確保ですね! 薬売りさん』
「そう、ですね」

高下駄を脱ぎ足を湯で洗った後、女中に通されるまま薬売りは座敷を上がっていく。
連も続いて後を追うと、こじんまりとした小奇麗な奥座敷へと通された。

「夕餉はいつ頃お持ちいたしましょうか」
「いつでも、構いませんよ」

その後、二三宿の案内を口にすると女中は「では、ごゆっくり」と締めくくって襖を閉めた。

『薬売りさん人気ですねー』
「どうしたんです、藪から、棒に」
『さっきの女中さん、絶対薬売りさんに一目惚れしてましたよ』
「ほう……それはそれは」

朱色で隈取りをした目を涼しげに細めて、口角をにんまりと歪ませる。
薬売りは「よっこいしょ」と重量のある薬箱を下ろし、女中に洗わせた脚絆を縁側に吊り干した。

「やかれ、ましたか?」
『え?』
「いいえ。なんでも……」

◇◇◇

夜の帳も落ち、蚊帳の中に敷いた布団へ寝転ぶもじわりじわりと汗が流れ出る。
連の隣の布団で横になる薬売りは、この熱帯夜の中でも涼しげに眠っている。

(あついあついあついあつい)

無風なのか、窓辺に吊るされた風鈴は無言を貫く。
眠ろうにも眠れない連は、

『薬売りさん、薬売りさん。起きてますか? 起きてください。暑すぎて眠れません』

と、隣で眠る男を揺り起こした。
しばしの沈黙の後、「――ああ」とうめき声に近い掠れた声が彼の口から発せられ、のそのそと起き上がった。

「……うるさい。寝ろ」
『暑すぎて眠れないんですってばー! ねー、薬売りさんー!』
「――――あぁ、まったく。目が、覚めてしまった」

小さく溜め息を吐くと上に掛けていた夜着を羽織り、薬箱から紫色の手拭いを取り出すとそれを頭に巻いた。

「散歩にでも、行きますか」
『え、あ、はい!』

連も夜着を羽織り、手早く身支度を整えると縁側から出、履物を履くと先を歩く薬売りを追った。

『わっ、わ、真っ暗!』

提灯も持たず月明かりだけを頼りに薬売りを追うも、少し離れてしまえば見失ってしまうほどの闇夜。
そして彼の香りを運ぶ風すら吹かない中、雌を求める蝉の痛切な鳴き声が彼の声を掻き消した。

『薬売りさん? どこ?』
「こっち、ですよ」
『待って、どこ? 薬売りさん。見えない』
「闇夜に、呑まれそう……ですか?」
『意地悪言ってないで――』

すると連の右手首を誰かが掴んだ。
言葉にならない悲鳴を小さく上げると、「叱」と聞き覚えのある男の声が優しく制した。

「闇夜は、モノノ怪が、好む」

手を引かれるまま足を進めていくと、纏わりつくような暑さが和らいだ。
せせらぎの音、いくつもの閃光。足元から伝わる冷気。
高下駄の音が鳴り止み、連も足を止めた。

「さあ、着きましたよ」
『うわあ、蛍! 蛍がいっぱい!』

闇夜に映える黄金の閃光が川の周りを走る。
幻想的な風景に目を輝かせた連の顔を蛍のぼんやりとした光が照らした。

『薬売りさん! よくこんな場所知っていましたね!』
「――ええ、まあ」

今度は連が薬売りの手を引き、足だけでも、と川に入ろうとするが彼は「いけませんぜ」と手を引き返した。

「川に入れば、連れて、行かれる」
『え?』
「まだ、様子見、ですがね」
『じゃあここにもモノノ怪が?』
「――いいや、それは、違う」


『それってどういう……』

それ以上は話す気が無いのか薬売りが口を閉じたため、連はそれに従うように彼の側で飛び交う蛍を見るだけにとどまった。
突如、虚空に薬売りの腕が伸び何かを掴むと「ほら」と言って連の前でゆっくりと開く。
手の中からは微かな光を発する蛍が現れた。

『うわ! 薬売りさんすごい!』

すると手の中の蛍は飛び立ち、光の軌跡を描いた。

『蛍ってどうして光るんでしょうね! 薬売りさん分かりますか?』
「さてね」

「不思議ですよね」と閃光が描かれる方へ首を動かし、目で追っていく連を横目に

「羨ましい、か――?」

と、薬売りは呟いた。


『え? 何か言いました?』
「いいえ、何も」

そして、目を閉じて彼は静かに笑った。



◇◇◇



「ほら、起きなさい。連」
『ん……』

蝉が煩く鳴いている。
太陽が東の空から昇り、旅籠内が騒がしくなる。

薬売りはすでに身支度を整えており、干しておいた服もきっちり着込んでいた。

「おやおや、そんなに、夢の世界は楽しいか」

二三度、眠っている連の頬をペチペチと叩くとゆっくりと彼女の目が開いた。
今にも閉じそうな思い瞼に必死に抵抗して連は眼前の薬売りの顔に焦点を合わせる。
彼は口元を微かに歪ませ、「よっ」という掛け声と共に連の頭を乗せていた枕を引き抜くと、刹那、ゴチンという音が部屋に響いた。

「朝餉が、来ますよ」
『……はい。今起きます』

いきなりの鈍痛に涙目になりながらも連はのっそりと起き上がり、朝支度を始める。
連が起き上がったのを確認した薬売りはその足で蚊帳の外へ出て、縁側に腰を掛けた。

『ねえ、薬売りさん。私、夢を見たんです』

着替えながら連は思い出したように口を開いた。

「ほぉ、一体どんな……?」
『川へ行ったんです、蛍が飛んでて――』

「それはそれは、風流ですねえ。――――ああ、そうだ」

連の言葉を遮り、薬売りは庭を眺めたまま

「そこの籠の中身、放してやってください、ね」

と、言った。

『籠?』
「そう、籠」
『……あ、これか』

枕元には小さな竹籠に入れられた――黒い蛍が二匹。

「帰り道に世話になった、子たち、ですよ」


寝苦しい夜の過ごし方


***
夢主、帰り道は寝ちゃって薬箱よろしく薬売りさんに負ぶわれて帰ってきました。

薬売りさんの「羨ましい、か――?」は蛍に向けて呟いた言葉。
蛍は相手を求めて発光します。

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