造花の桜
――桜の樹の下には死体が埋められている。
いつからかそんな噂がされるようになった。
しかしそれは、華やかに煌びやかにそして艶やかに咲く遊女たちの足元には金と精気を吸い取られ、捨てられた男たちが屍のように積み上げられている、という女遊びを戒めるための比喩表現でもあった。
そのためか、いつしか桜人たちは桜を仰ぎ見るだけに留まり、桜は愛でられることを諦めた。
「いやー、れーさん元気でした?」
『近藤さん、いらっしゃいまし。お陰様で、近藤さんもお元気そうで何よりです。ささ、どうぞお上がりください』
「おお、ありがとう」
草鞋を脱いだ近藤と呼ばれた見た目三十路手前の男は人の良い笑みを浮かべながら、座敷へと上がった。
『お酒の他に何かお持ちしますか?』
「ああ、じゃあいつもの頼もうかな」
はい。いつものですね、と二つ返事で返すとれーもとい連は座敷から奥の居間へと引っ込んだ。
近藤が言う“いつもの”とは、彼の好物の卵料理のことであり、出汁の中に卵の白身と黄身を泡立てたものを入れて蒸した料理で彼が仕事の都合で袋井を訪れた時に口にして以来、虜になったのだ。
宿の主人に頼み、料理の調理法を書き記してもらったものを連に託したのである。
近藤は連が席を外している間、敷いてある布団を畳み、幾分広くなった座敷に胡坐をかいて辺りを見渡した。
すると彼の目に、見慣れない花器が床の間に飾られているのが映った。
陶器の花器に活けられた遅咲きの桜は逞しくも凛としており、しかしどこか悲しげに佇んでいる。
(……あんなもの、あったか?)
彼が心の中で独り言で呟くと衣擦れの音が廊下から聞こえて来、近藤はそっと襖を開けた。
いきなり開いた襖に一驚した連だったが、すぐに柔らかい笑みを浮かべて、
『ありがとうございます。――ささ、おまたせしました、熱いうちにどうぞ』
と、酒と拵えた卵料理をのせた膳を彼の前に置いた。
「おお、うまそうだ」
『火傷なさらないようにお召し上がりくださいね』
連は近藤に杯を渡し、これまた近藤が気に入っている酒を注いだ。
まずはそれを美味しそうに一つ飲みほした彼は杯を膳に置き、湯気がのぼる好物を口に運ぶ。
「うん、うまい!」
『そうですか、よかったです。近藤さんは本当に美味しそうにお召し上がりになるので私も作り甲斐がありますよ』
「もーう! れーさんったら褒めるのうまいんだからー! こんなに美味しい料理作れるんだったら絶対いいお嫁さんになれますよー。たくさん求婚とかされてるんでしょー?」
『いえいえ、そんなことないですよ。私、娼婦ですし。みなさんそこら辺はきちんと弁えていらっしゃいますので……贔屓にはして下さるんですけどね』
それに娼婦を嫁に迎えるなんてなかなかしませんよ、と伏し目がちに連は言い足した。
自嘲にも見えるそれに近藤は言い知れない気持ちを抱き、何とも言えない苦々しい表情をした。
『娼婦や遊女を嫁に取るというのは、やはり世間体が悪いですからね』
「……じゃあさ! もしさ、俺がその、俺がさ、れーさんに、その、け、け、結婚してくださいとか何とか言っちゃったりしちゃったりしたら、どどどどどどうする?」
『あら、どうしましょう』
「いやー冗談だよ、冗談だってー、俺ゴリラだしー、もしも、もしもの話だから!」
茶色の髪を掻き、落ち着かない手が頭と胸部を行ったり来たりする。
自分が言ったことに羞恥を隠せない近藤はその場凌ぎのために酒を呷った。
連は空になった杯に酒を酌み足しつつ、
『お気持ちは嬉しいんですけど、……でも近藤さんはお侍さんですしお偉い立場の方ではありませんか。そんな方が娼婦とだなんて……』
と、彼の発言に顔色一つ変えずにそう言った。
「俺ア気にしねーけどなあ。そもそも俺は女を抱きにここに来てるわけじゃないんでね」
『……ふふふ、娼婦を前に何も手を出さないってなかなか変わっていますよ』
「そりゃあ、その、なんだ、俺はれーさんを……」
言葉に詰まった近藤に小さく笑いかけながら連はすっと立ち上がり、衣擦れの音を立て、しなやかにそして流れるような仕草で花器に活けられた桜を抜きとり近藤へ手渡した。
『これ、造花なんです』
「なるほど、どうも珍しい桜だと思いましたよ。こんな時期にまだ咲いてるなんて」
『ふふふ、見るだけなら本物だと思いますでしょう? みなさん偽物だって気付かないんですよ』
「そんなの俺にバラしちゃっていいんですか」
連は何も言わず慈しむように微笑んで近藤の横に腰を下ろした。
空になった花器を一瞥し、すぐさま横にいる近藤の顔を上目づかいで見上げた。
『……ねえ、近藤さん。私の戯言を聞いてくださいます?』
その仕草に近藤は一瞬どきりとした。
それを連に悟られないように、彼はゴツゴツとした筋肉質の手で造花の桜をくるくると回す。
「お、おお。戯言でも嘘でもなんでも聞きますとも」
『――私、近藤さんのお嫁さんになりたいです』
深山がくれのこの遅ざくら
手折るお方は主ひとり
***
(この人は私を生花のように愛してくれるんだもの)
冒頭の桜の話は、梶井基次郎のもの。
遊女云々はオリジナル。