おどろき片想い

私が母校である並盛中学校を卒業してから半年が経った。
やっと進学した高校にも慣れて、花の……というには私には似つかわしくない気がするが女子高生生活が板についてきた、ある秋の夜。

机の上に置いておいたマナーモードのままの携帯電話が着信を告げる。
懐かしい名前がディスプレイに表示された。

『はい、連です』
「田中連だな……?」
『そうですけど……』

山本武、そうディスプレイには表示されていたはずなのに、聞こえてきたのは携帯の持ち主の声ではなく、子どものような舌足らずの高い声だった。
私はこの声の主を知らない。

『山本武の携帯電話ですよね? あの、どちら様でしょうか』
「ちゃおっス、俺はリボーンだ」
『……リボーンさんですか、私に何か御用ですか?』
「実はその山本が大怪我を負ってな。うわ言のようにお前の名前を呼んでいるんだ」

私は自分の耳を疑った。
どれほどの怪我なのだろうか、そもそも一体彼に何があったのだろうか、私が行ってどうにかなる問題なのか、と次から次へと浮かぶ雑多な思いが私を急かす。
そして次の瞬間には箪笥から洋服を引っ張り出し、ベッドの上へ放り投げていた。

私は居ても立ってもいられず、携帯電話を耳に当てたまま寝具から着替え、携帯と財布だけを持って家を飛び出した。
外は深夜だけあって真っ暗だった。

『や、山本武は無事なんですか!?』
「ああ、命は取り留めたものの依然として危険な状態だ」
『今、彼はどこにいるんです?』
「場所は――――」


通話を切り、私は走ることに専念した。
どうして私が山本君の許へ急いでいるのか自分でも理解できない。
どうしてこんなにも必死になっているのか自分でも理解できない。
――理解できないが、息も絶え絶えに言われた通りの場所へ走る。根っからの文化部である私の身体は疲労を早々と訴え、全身から汗が吹き出ながらも、涼しくなった秋風を切った。

電話で言われた場所は和食屋といった佇まいの建物で、看板や暖簾は下げられながらも室内の電気は点いていた。
私は乱れる呼吸もそのままに引き戸を叩く。

『すみません! あの!』

すると引き戸が音を立てながら開かれ、中から甚平姿の中年の男性が顔を覗かせた。

「すみませんねえ、お客さん。今日はもう店仕舞いなんですよお」

そう言った男性は訪ねてきたのが酔っ払いの客だと思ったらしく、私の顔を見るなりすぐに人の良さそうな笑みを浮かべて膝を折り、私をじっと見た。
この男性の顔は山本少年にそっくりだ、親子だろうか。

『夜分遅くにすみません。こちらに山本武君はいらっしゃいますでしょうか』
「おお、いるとも。俺の息子だ。なんだい、武に何か用かい?」
『あの……、大怪我をしたって聞いたので、その……』

山本武の父親は、「ああ」と納得すると私を家兼店(どうやらお寿司屋さんのようだ)の中に招き入れ、少し待っているように言い残して奥へ消えてしまった。
その間に呼吸を整え、恐怖にも似た憂心をなんとか押さえこむ。
少しすると奥からドタドタという走る音が聞こえ、にょきっと目当ての人物が現れた。

私は想像していた彼の姿と現実との差に言葉を失った。

「連先輩じゃないっスか!! どうしたんスか!?」

サンダルを引っ掛け、私の許へ歩いてくる少年は紛れも無く瀕死で「依然として危険な状態」であるはずの山本武、本人だった。
彼は私の許に走って来ることができるほどの体力を有し、父親そっくりの、歯を見せる微笑を浮かべている。
…………元気そうだ。

『君の携帯から電話かかってきて、大怪我負って危険な状態だって知らされたから……その……』
「携帯? ああ、そういやあ小僧から返してもらうの忘れてた。そんでわざわざ来てくれたんスか?」

確かに彼は大怪我を負っていた。
右目には血が滲んだ眼帯を付けており、額には包帯が痛々しく巻かれ、頬には絆創膏が貼られている。白いワイシャツは所々血で赤黒く染まり、腕には鋭い切り口に薄い瘡蓋が形成されていた。

(通り魔か、それとも不良グループに目をつけられたか……)

当然野球の試合ではし得ないであろうその傷は、私を不安にさせるのには十分だった。

『何があったのかは知らないけど、……とりあえず、元気そうでよかったよ』

その場を埋めるための言葉を吐くと、少年はその怪我に反してとても嬉しそうに笑った。
彼の笑顔は何を考えているか分からないため何となく苦手だが、この時ばかりは私の恐怖心や不安心を打ち消し、私はやっと張り詰めていた緊張の糸を解した。
(――なんだ、焦ってた私が馬鹿みたい)
緊張感と恐怖心が消え去ると一気に力が抜けた。
その上、自分でもよくここまで止まらないで走ってこれた、と思うほど全力疾走してきたため足が今になってガクガクと震えだす。

「まさか連先輩が来てくれるとは思ってなくて、その、こんなかっこ悪い姿ですんません。驚きましたよね」
『驚いた驚いた。あーもうほんと、馬鹿みたい。なんだ、全然元気じゃない。心配して損した……』

明日だって学校あるっていうのに。
どっと疲れが押し寄せ、眠気も襲ってくる。もう帰ろう、明日の朝が辛い。
私は山本少年の父親に頭を下げ、踵を返した。

『私帰るわ。夜遅くにごめんね。怪我、ゆっくり治してね』
「……え、あの! 先輩、ちょっと待って下さい!」
『ん?』

腕を捕まれた私は山本少年の方に振り返った。
少年は下を向いており、もしかしたら今の拍子にどこか傷が痛んだのかもしれないと思い「大丈夫?」と顔を覗いた。

「あの……、後で殴られても叩かれてもいいので……その……」
『どうした、急に』

いきなり顔を上げられたことに驚いて私は一歩後ずさる。
包帯だらけの腕に掴まれた私の腕を無理やり引き抜くわけにはいかなかった。

少年は今度はじっと私の顔を見ると、

「抱き締めていいッスか? ってか、そうさせて下さい!!」

そう言い終わると同時に私の腕は引かれ、彼の力に任されるまま私は山本武の腕に収まった。
肌を通じて伝わる体温と、血の匂い、そして力強く拘束する彼の腕に私は訳がわからなくなって、思考回路が停止した。

(待て待て待て。どういうことだ、これは一体……)

どうしてこうなったのか未だに理解できない。
言葉を発そうにも口が乾いて言葉が出ない。

(私と山本君はそういう関係じゃない。ただの先輩と後輩だ。落ち着け、落ち着け私!
そうだ、これはきっとあれだ、奇跡の再会を果たした時のハグだ。そうに違いない。
こんな大怪我をした後だ、きっと生死を彷徨ったに違いない。そんな時に半年ぶりに私が現れたんだ、奇跡の再会と言わずしてなんと言う――)

私はこの状況をなんとか理解しようと、停止中の思考回路を無理やり起動させた。
半ば思い込むように分析結果を脳内で復唱し、納得させる。

「まさか俺、連先輩がわざわざ俺のところに来てくれるなんて思ってなくて、なんつーか、すげえ嬉しくて、すげえ幸せっス。しかもこんな夜中に……」

上から言葉が降ってきた。
喜んでもらえるのは光栄だが、数十分前の私の焦り様が鮮明に脳裏に浮かび、恥ずかしくて死にたくなってくる。
居ても立ってもいられなくなって、
『も、もう離してって……』
と声を絞り出して抵抗してみるも、野球部で鍛えられたその腕は傷を負っていながらもびくともしなかった。


「俺、今、生きててよかったって思いました」
『私が死にたくなってくるから離して!』







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