それを魔法と呼ぶのなら

何の変哲もない、放課後。教室の大きな窓から鮮やかな朱色を帯びた西日が射し込む。

「んっ…しょ…」

暖かな西日を浴びてまどろみたい気持ちを抑え、私は黒板と相対していた。
懸命に背伸びをし、黒板消しを高く掲げる。身長が低いことがコンプレックスの私にとって、黒板との相性は最悪だ。

私が黒板とひとり格闘繰り広げていると、右方からがらり、と戸が開く音がした。
音のする方へと顔を向けると、そこには大和くんの姿があった。

ウェーブの掛かった、鮮やかな橙色の髪を一つに束ねたその姿に、中等部での彼の面影はない。
高等部に進学してからの突然の変貌に最初は戸惑ったけれど…大和くんの本質は変わらない。
温厚で、思いやりがあって、常に柔和な笑みを湛える彼に、私はずっと心惹かれている。それは、今も……

「田中さん、お疲れ様です。職員室から日誌、持ってきましたよ」
「あ、大和くんっ。ありがとね」

彼はいえ、とにこやかに返事をすると、そのまま手近な席に座り、日誌を捲り始めた。
そんな彼をずっと彼を見つめていたいが、そういう訳にもいかない。自分を律し、再び黒板へと向き直る。

「んー…届かない、な」

今までは何とか消せていたものの…どうしても、黒板の真上に手が届かない。
黒板消しが虚しく宙を舞う。どうしよう、椅子にでも乗ろうか…そう逡巡していると、

「いいですよ」

不意に、彼の声がとても近くで聞こえる…と、思った矢先、私の手を包み込むように、
大和くんの大きくて綺麗な手が私の手と重なる。

「っ…きゃっ!や、大和…くっ」

突然のことで、思わず声をあげてしまった。
鼓動が勢い良く高鳴り、彼が触れている箇所から急速に熱を帯びていく。

「僕が代わります」

背後から聞こえる彼の優しい声にすら、私は胸をときめかせてしまう。

「その代わり、貴女は日誌をお願い出来ますか…?」

彼は遠慮がちにそう言うと、私の手をゆっくりと解放し、黒板消しを手にする。
先程から事もなげな態度をとる大和くん。何だか、自分だけが彼の一挙一動を意識しているような気がして妙に恥ずかしくなる。

「う、ん…わかった。ありがとね、大和くん」

私は、彼の顔を見ることが出来ずに俯きがちにそう告げた。
その答えに満足そうに、いいえ、と応じると、彼は私が格闘していた板書を軽々と消し始めた。

そんな長身の彼を横目で見遣りながら、いそいそと手近にある机と椅子を拝借し、日誌を開く。と、

「っ…たぁ」

突然、鋭い痛みが指先を襲った。その声に驚き、大和くんが心配そうにこちらを伺う。

「っ…どうかしましたか…?」
「あー…日誌で指切っちゃって…こういうのって、地味に痛いよねー…」

指先を見ると、鮮血がぷっくりと円形になっていた。ずきん、とした鈍い痛みに耐えながら、下手くそな笑顔を彼に向ける。

「大丈夫ですか…?」

彼はこちらに向かいながら、気遣うように声を掛けてくれた。

「あ、うん。でも、全然血ぃ止まんないみたい…」

私は、自分の傷口をしげしげと眺めそう言う。

「それなら」

頭上から彼の声がして、思わずそちらに視線を上げた。
私と視線が交わると、彼は少し間を置いて、言葉を続ける。

「僕が魔法を掛けてあげましょう」
「……大和くん、それどういう…?」

彼の言葉の意味を理解しようと考えを巡らせていると、彼は私の手を優しく掴んだ。それに驚くのも束の間、

「っ…!」

気付いたときには、私の指先は彼の口内へと運ばれていた。驚きのあまりびくり、と肩を震わせる。温かく、柔らかい感触に私の脳内はただただ混乱する。声を出そうにも、喉が渇いて発することは叶わなかった。時折、ちう、と強く舐め吸われる感覚に頭がくらくらする。

なんだかいけないことを、されている…否、させているようで背徳感と羞恥心、焦燥感が私を襲った。
心臓が飛び出てしまうのではないかと錯覚するほど、どくんどくんと激しく鼓動する。

「ほら、止まった」

大和くんはちゅ、と音を立て私の指から口を離すと、止血が済んだ傷跡を愛おしそうに撫でた。

「やっ、や、まとくんっ…なっ…」

彼の止血から解放され、私はやっとのことで声を絞り出した。

「何故、こんなことをするのか…ですか?」

大和くんは、普段の彼からは想像もつかないような悪戯っぽい表情を浮かべ、小首を傾げた。そして私の瞳を真っ直ぐ見据えて言葉を紡ぐ。

「すみません、わざと…です」
「…え」
「貴女のその愛らしい顔が見たくて、ね…」

蕩けるような口調でそう続けた後、彼は私の頬にそっと手を添えた。
彼の澄んだ綺麗な瞳と視線が絡み合う。こ、これは…まさか…き、き…

「……さぁ、保健室できちんと手当てをしに行きましょう」

私の淡い期待とは裏腹に、彼は頬から手を離す。

「えっ…?」
「これはあくまで応急処置です。…僕は、保健委員ですから」

さぁ、と手を差し出され誘う。私はそれに応じ廊下へと足を運ぶ。

「や、大和くん…」

彼は私の歩幅に合わせ、ゆっくりと廊下を歩いてくれる。暫くの沈黙の後、私は遠慮がちに大和くんに話し掛けた。

「…なんですか?」
「こんなこと、みんなに…してるの…?保健委員だからって、こんなこと、だめだよ…」

さっきの彼の思わせ振りな態度が気になってつい、聞いてしまった。
それを受け、大和くんは不安そうに私の顔を覗き込む。

「……嫌、でした?」
「い、嫌とかじゃなくて…その、みんな…誤解しちゃう、でしょ…」
「僕がこんなことするのは……貴女だけですよ、連さん」

大和くんの言葉を受けて、その意味を理解した瞬間、早鐘のように鼓動が高鳴った。
たった数百メートルの保健室への道程が、ひどく、遠く感じられる。

何の変哲もない放課後だったのに…彼が言うように魔法に掛かったような、気がした。





それを魔法と呼ぶのなら

    ( ど う か 、 も っ と た く さ ん 掛 け て )


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