王子とつばめの幸福論
「幸福な王子になりたい」
「は?」
食欲もわかず、三分の一程食べたパスタの皿にフォークを置いた。
そこから視線を目の前の人物へと戻すと、裕介は怪訝な顔でこちらを見つめている。
ざわざわとした空港にある店内には、日本人だけでなく外国人も多い。そんな中でも玉虫色の長い髪を持ち奇抜なファッションに身を包んだ彼は異彩を放っていた。
「いきなり何言い出すっショ?」
「私が幸福な王子なら、旅立とうとしているつばめさんを引き留められたかなって」
テーブルの上に置かれた航空券。そこにはあと一時間半後の時刻と、イギリス行であることが大きく記されている。
裕介がイギリスに行くと言い出した時は正直もうこれで終わりだと思った。だけど、ここで終わりたくもないという感情も本当で。お互い同じ気持ちでいたからこそ、頑張ろうと決めることもできた。
だけど覚悟を決めた今でも、遠距離恋愛なんてできるのだろうか、近くにずっといて欲しい、どうしたら一緒にいられるのか――そんなことばかり考えている。
「王子もつばめも最後には死んじまうじゃねぇか」
まぁ、王子は死ぬも何も像だけどな…と裕介は呟く。
「そうだけど、最終的には王子の鉛の心臓とつばめの死骸を天使が一緒に連れて行ってくれるもん…」
「そんなグロテスクな結末オレは嫌っショ」
ごもっともなツッコミが返ってきた。私だって普段ならそう思う。
でもそう考えていても、裕介と離れることを考えただけで身が引き裂かれるのではないかと思うほど辛いのだ。
困らせると分かっていても、どうにもならないと分かっていても、最後まで足掻いてしまいたくなる。
「ごめん…、ちょっとわがまま言いたくなっただけ……」
この空気にいたたまれなくなり、残したままのパスタへとフォークを向けた。
何かしていないと涙がこぼれそうで、もっと自分勝手なことを言ってしまいそうで怖い。
あのなぁ…と裕介は長い髪をがしがしとかき混ぜた。
「わがまま言ってるのは本当はオレのほうっショ。兄貴の手伝いをしにイギリスに行きたい。でも、おまえのことも手放したくない。待たせるし会えねぇし悲しい思いさせるって分かっていても、別れようと言えないオレのほうがよっぽどわがままショ」
裕介はもう冷めてしまったであろうコーヒーを飲み、一息ついた。
「すまねぇ、連。俺にはもうお前以外考えられないんショ」
右手を取られ、握っていたフォークがプレートに落ちカシャンと甲高い音を経てたが、この喧騒の中でこちらに気を留めたものなど殆どいなかった。
裕介は私の右手の薬指に口づけを落とす。
「約束。今はまだこっちな」
それは、つまり。この先の未来で二人の道がまた重なると信じて良いと言うことだろうか。
期待を込めて裕介を見やれば、慣れないことをした羞恥心からか朱色に染まった目元を隠すように少し俯く姿があった。
好きだなと改めて思う。何があっても別れたくない、強い感情が身を焦がした。
そうだ、どうせもうどうしようもないのだ。この時間を暗く悩みながら過ごすよりは、少しでも幸せな時間を送りたい。
一度開き直ってしまうと、なんだか心が軽くなったような気がした。
「うん、裕介のこと待ってる。だから――」
私は笑う。しばらく会えない大切な人の中に笑顔の自分を残しておいてほしいから。
「つばめさん、つばめさん、私の大好きなつばめさん。どうか私のくちびるにキスしなさい、私はあなたを愛しているのだから」
珍しく呆けた顔がこちらに向いた。そして数秒後、独特なクハッという笑いを漏らすと、裕介はテーブルに手を付いて私のほうへと身を寄せた。
「オレはあのつばめみたいに優しいキスはできないけどいいのか?」
言葉で答える時間すら惜しくて、彼の長い髪を引く。
これから待ち受けるであろう切なさや困難は今だけは見ないふりをして、私は口づけを受けながらいつかくる幸福な未来を思い描くことにした。
王子とつばめの幸福論
参考:オスカー・ワイルド『幸福な王子』新潮文庫、2003年。