拝啓、愛しい人

恋に落ちた日を今でもよく覚えています。
黒く艶やかな髪、そこから覗く切れ長な目。
面白いことなど何もないとでも言いたげなその瞳は何を映すのだろう、そう思うと同時に私を映して欲しいと思ったものです。
一目惚れなんて絶対ないと思っていた私があっさり一目惚れをするなんて。これではまるで顔につられた馬鹿女のようだと自己嫌悪したり思い悩んだりもしましたが、それでもあなたが好きなのです。
何かと理由をつけては傍に行き、話しかけ、少しはあなたに近付けたのかなと感じていますが、それでも私はあなたの心には入れていない気がしました。
それなら友達でいよう、そう思ったからこそ、この気持ちを伝えて前に進もうと思います。
財前くん、あなたのことがずっとずっと好きでした。
あなたは私の初恋の人でした。
そしてこれからは――



***



「この恋を忘れる努力をします。……なんや、これ?」

絶体絶命のピンチであります。
女子がときめくと噂の壁ドンをされているこの状態は、昨日の私なら舞い上がるほどの事態だったはずである。
けれど、今は違う。
今朝机にラブレターを仕込んでおいた相手に、図書準備室に不機嫌な顔で連れ込まれている。

「な、なに…?」

「何はこっちの台詞や」

事の次第は数分前。
他クラスと言えど会う可能性は十分にあるので、鉢合わせないように一日逃げ続け、漸く放課後になったというのに。
ホームルームが終わり図書室に本を返しに向かうと、財前くんはそこにいた。
彼の担当は今日じゃなかったことは知っていたからこそ来たというのにいったいどういうことなのだろう。

「あんたのそれ、今日が返却期限やで」

引き返そうと踵を返した瞬間言われ言葉に答えを悟った。多分カードでも見て私が今日本を返しに来ることを予想していたのだろう。

「あ、ご、ごめん。……お願いします…」

仕方なくカウンター越しに本を差し出した。受け渡しの瞬間、指先がほんの少しだけ触れ合い、思わず手を引いてしまう。
カウンターに本の落ちた音がこの静かな空間ではとても大きく響いた気がした。

「ご、ごめんなさい…っ」

拾おうと伸ばした手を掴まれる。
不機嫌そうな顔とは裏腹に私を掴む手は優しいけれど、逃がしはしないという意思が伝わってきた。
舌打ちと共に財前くんは立ち上がると私の手を引いた。カウンターの入り口から中に引き入れそのまま図書準備室の扉を開く。
彼は言葉すらでない私を連れ込むと背後で閉まったばかりの扉に押し付け、ドアに手をつくことで逃げ道を塞いだ。
そして、今に至るのである。

「な、何…?」

「何はこっちの台詞や。あんたは言いたいこと言って気がすんだのかもしれんけど、自己満足とか迷惑なんやけど」

心底腹立たしそうな表情と声音。
今までにないほど近い距離いるというのに、財前くんがとても遠く感じる。

「こっちの話聞かんとか自分嘗めとんのか?」

ほんまムカつくという言葉に胸が痛んだ。
もう友達としてもいられない、そういうことなのだろうか。

「……一回しか言わんからよぉ聞いとけ」

財前くんの端正な顔がより近づく。

「田中のことを好きか聞かれたら、そんなこと考えたこともあらへんし分からんとしか答えられん。せやけど、自分が傍にいなくなるんも、自分がほかの男の傍にいるんも嫌やとは思っとる」

それは想像していた言葉とは全く異なるものだった。
驚きで思わず凝視すると、財前くんは気まずそうに少し距離をとり、私から視線を逸らした。

「だいたい自分俺の何を見てきたん?俺はどうでもええ奴が傍にいるんを許すほどお人好しやない」

気付かなかっただけだったのだろうか。私は、財前くんの心に多少なりとも入り込んでいた。
面倒くさがりで口数の少ない彼が、これだけ饒舌に話してくれるくらいは大事に思われていたと驕ってもいいのだろうか。

「財前くん、あなたのことを好きでいていいですか?好きになってもらえるように、頑張ってもいいですか……?」

「勝手にせぇ」

珍しい、本当に珍しい笑みが私に向けられた。財前くんの笑顔を見たのはこれが初めてだった。
顔に熱が集まる。その顔に見惚れる。この恋を忘れようと思っていたついさっきまでの自分が嘘みたいに、今まで以上にこの人に溺れている自分がいる。
私は今日を忘れない。
改めて、恋に落ちた今日この日のことを――





拝啓、愛しい人



「おかえりなさい」

懐かしい思い出に浸っていると、リビングのドアが開き愛しい人の姿が現れた。
コートと鞄を預かり、寝室に向かっていく彼を呼び止める。

「はい、光」

「なんや、これ」

「最初の結婚記念日だから手紙書いてみた」

ふーんと呟く光が封筒から手紙を抜きだし中を開いた。
気だるげな瞳が少しだけ見開かれたのを見て笑みが広がる。
手紙を書こうと決めた時から、書き出し文は決めていたのだ。

恋に落ちた日を今でもよく覚えています。


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