erste Liebe

――恋に落ちた日を今でもよく覚えている。
否、それを恋と呼んで良いのかは不明だが、俺の知っている言葉の中で当てはまるものがそれしか見つからず、便宜上そう呼んでいるに過ぎないが……。

毎晩眠る前に必ず、昔のある場面がフラッシュバックのように去来する。

「兄さん、何か落ちたぞ」
「お、おお! ああ、そういやーお前には見せてなかったな」

いつものように過保護にも俺をベッドに寝かしつけに来た兄貴の懐から1枚の写真が床に落ちた。
裏返った写真には「die Republik Yesso」と兄貴の字で書かれており、兄貴はそれを拾い上げると僅かに頬を緩ませて、ベッド横の椅子に腰を掛けその写真を俺に渡した。
モノクロの写真には、黒い軍服を着たあどけない東洋人の少女が写っていた。
憂いを帯びながらもどこか強い意志を感じられる表情に釘付けになった。我が国では見かけない顔立ちをしており、新鮮だ。

「Wie süß!(おお、可愛いな)」

そう言うと、兄貴は一瞬驚いた顔をした後ニヨニヨと彼の特徴的な笑い声を上げた。
そして椅子に座ったまま、俺の手の中にある写真を覗きこむ。

「それにしても東洋人なんて写してどうしたんだ?」
「記念だ、記念。大変だったんだぜ? 日本ではカメラで写真を撮られると魂抜かれるっていう噂があるらしくてな」

話からするとこの少女はどうやら日本人らしい。しかしながら俺は日本がどこにあるのかは分からない。
その後兄貴が「いい子はお休みの時間だぜ、Gute Nacht!」などと言って写真を取り上げ、俺に掛け布団を被せた。もう少しその写真を見ていたいような名残惜しさを感じたがまた頼めば見せてくれるだろうと、その晩は諦めることにした。

「Gute Nacht.……ああ、兄さん。明日も、そ、その写真を見せてはくれないか?」
「ケセセセセ、気に入ったのかー? いいぜ、ご所望とあれば焼き増ししておいてやるよ」

快く返事をした兄貴は写真を右手の人指し指と中指で挟み持ち、ヒラヒラとさせた後に今度は大事そうに胸ポケットの中に仕舞った。

「現物をやりてーとこだがこの写真は俺様にとっても大事なモンでな。……こいつの、連の、生きた証拠なんだ」

最後の方は独り言に近い小声だったため聞き取りづらかったか、確かにそう聞こえた。
バタンと扉が閉められる、真っ暗な部屋の中で目を閉じる。先ほどの兄貴の言葉が脳を回る。
俺にはまだその言葉の意味がいまいち理解出来ていない。
だが、心臓が強く握られているような苦しい感覚に陥ったのは確かだ。



「おい、ヴェスト! お前の部屋、掃除してたら懐かしいのが出てきたぜー。俺様マジ優しすぎるぜー!」
「俺の部屋は俺がやると言っているだろ……まあいい……で、なんだ?」

兄貴は人差し指と中指で挟み持った1枚の写真をいつかのようにヒラヒラと靡かせて俺に差し出した。
それは俺が兄貴に頼み、焼き増ししてもらった少女の写真だった。戦時中の鍛錬で失くさないようにとサイドテーブルの中に保管していたはずなのだが戦後処理により行方が分からなくなっていた。ただ、失くしてからは毎晩思い出すあのシーンがより一層虚しく感じるばかりだった。

「すっかり色が変わっちまったなあ」

ぽつりと兄貴が言う。
俺の脳裏に焼き付いている彼女の写真は濃紺のモノクロだったが月日が経つにつれてそれはセピア色に変色しており、俺の認識とは異なる姿へと変わっていた。

「そういえば何度も菊の家に行っているのに、この国の姿を見ないな」
「……あ、ああ、そうだな」
「今日と明日は折角の休みだ、今から菊の所へ行って聞いてみるとしよう。兄さんも行くか?」

そう問うと兄貴は元気よく頷き、自室へと走っていった。


◇◇◇


「菊! 来たぞ」

時差により菊の家に着いたのは、太陽が高く登っているときだった。
雪が降り始め冬を迎えた俺たちの国とは対照的に、日本はまだ紅葉が美しい秋の装いだ。
インターホンを押すと和服を着込んだ菊が現れ、俺を客間に通す。
兄貴は日本に着いた時に用があるとかで別れ、俺に先に菊の家に行くように言い残してどこかへ消えてしまった。

「長旅でお疲れでしょう、ルートさん。それにしても珍しいですね、うちに観光だなんて」
「急ですまない。迷惑だったか?」
「いいえ、全然」

むしろうぇるかむです、と菊は親指を立て俺を歓迎してくれた。
昨日出したという炬燵で暖まりながら俺は本題へと切り出した。
炬燵机の上にセピア色の写真を置く。
すると間もなく菊はへにゃりと笑って、
「おや、懐かしい写真をお持ちですね」
と、言った。

自分のことを「爺」と称しているとあってか、菊は昔を慈しむようにその写真の中の少女を見ている。

「ルートさん、よくこの子のことをご存知でしたね」
「い、いや……今日はそのことについて聞こうと思って来たんだ」
「ああ、なるほど。そうでしたか」

そして菊は湯呑みに入った湯気の立つ緑茶を啜り、飲み込んで、口を開く。
「どこまでこの子のことをご存知かは見当つきかねますので、すでにご存知でしたらすみません」と前置きされ、俺は頷いた。

「彼女は蝦夷共和国と言いまして、1869年の1月で……そうですね、ルートさんがまだお生まれになっていないときに私の家の北の方でできた国です。と言っても、国家ではなく内乱によって生まれた独立政権ですが……」
「今もあるのか?」
「いいえ。彼女は同年の6月に滅亡しました。彼女が国として生きていたのは5ヶ月間ほどでして……」

俺は言葉を失った。
ある程度は予想していたこととはいえ、心の何処かでこの写真の少女と再会することを望んでいた自分がいたのだ。
彼女のことを知ることが出来てよかったと思うのと同時に、知らなければよかったとも後悔した。
しかしこれで、兄貴が言っていた言葉の意味が理解できたのも確かだ。

「あぁ、ルートさんの上司の方が私に記念碑を贈ってくださりましたでしょう?」
「たしか、白虎隊の……」
「そうです。彼女はその一連の戦いの最後の砦と言うのでしょうか……そういう位置付けとなっています」

菊は意気消沈している俺を横目に炬燵机の上の菓子に手を伸ばす。
ルートさんもいかがですか、と勧めてきたがとても食べる気にはなれない。
菊は小さな個包装の醤油煎餅を口に含み、彼の咀嚼音だけが部屋に響いた。

「あら、いけない。私としたことが! もうそろそろ帰ってきますのに……今日はルートさんたちがいらっしゃるということでおやつに焼き芋をしようと思っているのですが、お使いに行ったのがまだ帰って来なくて」

そう菊が言い終わると、見計らったように玄関の引き戸が開く音がした。
直後、「菊ー! 来たぜー!」という兄貴の声。
玄関まで菊が出迎えに行く。何やら2人で話しているがここからではよく聞こえない。

襖が開かれて冷気が頬を撫でる。

「よぉヴェスト! 話は聞けたかー?」
「……あ、ああ」
「そうか! そりゃーよかったな!」

そう言って、兄貴は炬燵を捲り足をねじ込んだ。
兄貴は俺の顔を一瞥し、
「きーくー、ヴェストが泣きそうだぜー? どういう説明したんだー?」
と、客間に戻ってこない菊に叫ぶ。

「なっ、泣いてなどいない! 兄さん訂正しろ!」

俺の抗議も空しく、兄貴はケラケラと笑っているばかりだ。
少し間を置いて、客間の襖が開く。菊と……そしてガーネット色の羽織を着込んだ少女が菊の後ろから顔を覗かせた。

「心外ですね、ギルベルト君。私は事実をお話ししただけですよ」

ふふふ、と笑って菊は後ろに隠れている少女の背中を押した。
「さ、挨拶なさい」と菊が言うと少女は俺の前に三つ指をつき頭を下げた。

『はじめまして、蝦夷共和国です。今はもう滅亡しているので連とお呼びください、ドイツさん』

写真の少女と同じ顔をした少女が俺の目の前にいた。
兄貴がまた一段と意地悪く笑い始めたが気にならないほど俺は動揺していた。

「あ、ああ。その……なんだ……」

俺は炬燵から足を抜き出し、少女に向き合った。
直後、彼女は俺の腕の中にいた。
外にいたせいで冷たくなっている彼女の体温が俺の腕と胸を通じて感じられた。

「会いたかった」

俺は今、自分が何をしているのか理解できていなかった。
無意識の内に彼女を抱きしめ、言葉を紡いでいたのだ。
そして、菊の「若いっていいですねえ」という言葉で我に返った。

「す、すまない!」

慌てて離すと少女は目を潤ませ、その小さな手で紅潮した顔を隠していた。
そんな姿も愛おしく感じられ、この瞬間、俺は昔からずっと胸に閊えていた名の知れない物の正体が分かった気がした。

「俺はドイツだ。名前はルートヴィッヒ、好きなように呼んでくれ」

俺は連に会いたかったのだ。
俺は毎晩思い出す写真の中の彼女の声を聞き、はにかむ顔を見、その息吹を感じたかったのだ。
――嗚呼、俺はやはり恋をしていたのか。



***

Q.ギルベルト(プロイセン)は蝦夷共和国が滅亡していることを知らなかったの?
A.旧幕府軍(および奥羽越列藩同盟)の敗戦は知っている。が、1870年7月からプロイセンはフランスと普仏戦争(フランス側にはナポ公の甥ナポレオン3世)をおっ始めてるので両国とも蝦夷共和国降伏を見届けてるわけではない。ここでは、ギルは「蝦夷共和国は敗北した」という事実のみを知っている設定。
ちなみに、普仏戦争によってドイツ統一がなされたよ!
ギルベルト自身も亡国でありながら生きているから「蝦夷(夢主)は敗北したって聞いたが、もしかしたら……」という希望を持って来日した。

Q.ギルベルトが日本に来てからすぐにルートヴィッヒと離れたのはなぜ?
A.遠目に蝦夷(夢主)の姿が見えたから。弟を先に菊の家に行かせ、自分は夢主と再会を果たし、一緒に帰ってきた。
だからルートが聞こえなかった玄関での菊とギルとの会話は、
「菊ー! 来たぜー!」
「おや、ギルベルト君いらっしゃいませ。連も一緒だったんですね」
「おうよー! ちゃんとエスコートしてきたぜー!」
っていう感じ。

Q.ドイツ統一の年は公式じゃないよね?
A.はい。公式ではないです。公式で発表されていませんが、ドイツ統一が1871年なのでここではその年をルートの誕生年としました。

「die Republik Yesso(蝦夷共和国)」
→当時駐日していたプロイセン人(ブラント)によると「蝦夷」の表記は「Yesso(イエッソ)」。


戻る