『先輩』



「あー…だりぃー…」


今年は一段と降った雪も溶けて、晴天の中にあるはぐれ雲を目で追うことなく、ただ左から右へと流し、目尻に涙を浮かべながら大きなアクビをひとつした。


「………」


学年がひとつ上がった実感もなく、『先輩』なんて呼ばれるようになってしまった。『先輩』というそもそもの概念からして俺は嫌いだ。バスケがどんなに下手でも年上だから敬語で話さなきゃいけない、みたいなものがどうにも納得出来ない。


「つまんねー…」


中学の時も、そのような存在もいたし、自分もそう呼ばれていたが、どうもくすぐったい響きであまり好きではない。俺の場合はバスケは出来ても『先輩』と慕われるような事は一切してないから、そう呼ぶことに抵抗を感じている奴はいるんだろう。

だからといって嘗められたくはない。例え俺が先輩らしくなくても『先輩』と呼ばれないと腹が立つ。まあ、そうゆう俺は実行してないけど。

たわわに育ったまいちゃんの胸の大事な部分を隠す赤い布切れが邪魔くさくて、どうにかして中は覗けないのだろうかと、寝転がりながら雑誌を傾けたり逆さにしたりしていたが、いつの間にか昼寝をするための日除けにしかなっていた。

鼻をツンと突くインクの臭いはたいして気にならなくなった。しかし顔全体を覆っていたら何とも言えない息苦しさがあって、わざわざ腕を起こし上げて口元だけでも外に晒そうと、そっと雑誌を持ち上げた。

その時、チラリと目を開けたら雑誌が生み出す重たい影の奥に懐かしい姿が見えた気がして、思わず上半身を起き上がらせた。


「あれ、……誰もいねーじゃねぇかよ……」


辺りを見渡したらオレンジ色に染まった背景にひし形にかたどられた網目のフェンスが張り付けられていて影を伸ばしていた。

重たい頭を垂らして無造作に首の後ろを掻いた。可笑しいな。そんなに好きだったっけ。



目を閉じれば、あれはまだ雪が残っていた季節が思い浮かぶ。

該当者すら楽しくない卒業式も終わり、新しい生活に向けて準備をする後ろ姿。俺より小さい身長なのに、膝を折り畳んでせっせと服を段ボールに詰め込むその姿が思い出された。

外から帰ってきたばっかりの俺は寒くてダウンジャケットを脱げずに両手をポケットに突っ込んだまま、その背中に近づいた。


「……何やってんだ?」
「おう、おかえり」

「だから、何してんだ?」
「お、か、え、り」


その人は顔だけ振り返り、無駄に凛々しい顔をしてそう言うもんだから、ぐぅっと屈んで険しい表情に唇を落とした。


「な……っ!」
「で?何やってんだ?」

「おま…っ、ウガイもしてないんだろ!」
「あー…だりぃ……」


顔を離したら、ぽぽぽと面白いくらいに肌を真っ赤に染まらしたのにも関わらず、唇で塞いだそこからは可愛くない言葉が投げ飛ばされる。

構うのすら面倒くさくなって、ソファにふんぞり返るようにしてドッカリ座った。その人はまだ顔を赤くしたままネチネチと何かを怒って言っているみたいだが気にしない。

さっきまで足元に散らばるようにしてあった開きっぱなしの雑誌が、今は目の前のテーブルにきちんと積み上げられている。きっと彼がやってくれたんだろう。この人の事だ、中は見ないようにして真っ赤な顔で雑誌を掻き集めて数字の小さい順に置いたに違いない。


「東北の大学に行くだろ?その為に…」
「ふーん…」


分かってた。自分から離れて行く準備をしていた事なんて。聞いておいて、答えなんて実は求めていなかった。ただ、帰ってきた時にみた背中があまりにも小さくて、寂しそうで、頼りなくて。

この人はキャンキャン煩い奴の『先輩』。背はちっせぇし、その割に声とか態度とはでっけぇし、暑苦しくて嫌いなヤツだった。

なんでこうなったのかは忘れた。気付いたら俺の家に服を置いていって、今さらになって取りにくるような仲になっていた。それが当たり前になっていた。


「思ってたより荷物多いなー」


ボケェと天井を仰いでいたら、そんな声が聞こえて視線を送った。

山のように積み上げられた雑誌の奥にある段ボールから溢れている服を見つめて、どうしようかと困っていた。


「他に段ボールないのか?」
「うーん、貰ってくるしかないな…」


んしょっ、と立ち上がってソファのひじ掛けに畳まれて置かれたコートを取り、羽織った。俺はその一連の動作を見続けた。

この人は東北に行ったら『先輩』と呼ばれなくなるんだな、となんとなく思った。柄にもなく、似合わないと思った。

俺の視線に気が付いたのか、コートのボタンを留め終えたら「なんだよ」と不機嫌そうな声で言った。それに対し「別に」と応える。


「あっそう」


やっぱり機嫌が悪いみたいで、そんな短い言葉も早口気味に言った。特に俺も気に留める事無く目の前に置いてある雑誌の一番上をとって何となくページを開いた。

谷間を強調させている写真だった。何とも思わない。何してんだろ。

ガチャリと扉が閉まる音がして雑誌から目を離した。さっきまでいた人の姿がない。テーブルの上には携帯がボロンと置かれていた。きっと近くのスーパーで段ボールを貰いに行ったんだ。

急に何もかもが嫌になった。パタンと閉じた雑誌の右端には1月号の文字。雑誌の山を見下ろしたら次は2月号。今は3月。山はまだ高かった。



「あっ!何やってんだよ、おい!」
「あー、おかえり」

「何やってんだって聞いてんだよ!」
「……おーかーえーりー」


ガチャリとまた音がしたと思ったら、大きな声。さっきまで音のない空間だったから、突然の声に頭にガツンと響いた。


「…ただいま、」
「おー」


面白くないといった声色で、そう言われて、なんだか照れた。それからすぐに「お前、せっかくしまった俺の服散らかして何してんだよ!」と怒鳴ってきた。小脇には段ボールが二つ抱えられていて、青いTシャツを持って俺のすぐ後ろに立っていた。


「あ?んなこと決まってんだろ」
「なにがだよ!」

「雑誌しまってたんだよ」
「はぁ?」


意味が分からないといった顔をして床に胡坐をかいている俺の隣まで来て段ボールの中を覗いた。


「…これ全部棄てるのか?」
「ばか、そんなことするかよ…」

「ばっ、ばかぁ?」
「邪魔だったからしまっただけ」


そう言うとその人は肩を落として深い息を吐いた。ガタンと段ボールが床に落ちて、呆気なく横たわった。


「またやり直しかよー…」


また、ハァ…と息を洩らし、ペタンと大人しく座り込んで、あちこちに散らばった服を畳みだした。何これ、つまんねー。


「そんなに面倒くせぇならやらなきゃいーだろぅが」


俺がそう言うと、ピタリと畳む手を止めてしまった。ゆっくりとうなだれた頭。俺は肩を掴むと下から覗きこむようにして唇を重ねた。ゴツンと勢いがありすぎたみたいで口の中が鉄の味を主張しだす。

だけど、そんなことにも気に留めず上唇を啄むようなキスを繰り返す。目立った抵抗はない。顔は無理やり上げられ、やや俺が覆うような態勢。しばらく唇を味わっていたら、おずおずと口が開かれた。それを合図に俺は本格的に覆い被さった。



目を開けたらソファに寝転がっていた。ぼやける視界にふらつく意識。寝起き独特の浮遊感に苛立ちながらも彼を探した。


「……あ?」


上半身を起こしたらテーブルにあるはずのない、しまったはずの雑誌が置いてあった。夢でも見ていたのだろうか。あの人の姿がない。コートもない。スーパーに段ボールを貰いに行ったのだろうか。携帯も、ない。

部屋に違和感を感じた。すぐに飛び起きた。さっきまで散乱していた服が跡形もなく消えている。やけに綺麗になった部屋。あの人が、いない。

玄関に行っても靴はなかった。なんにもなかった。携帯を耳に当てた。数コールがあってから留守電に繋がってしまった。可笑しい。もう一度繰り返す。また、留守電。


「段ボール3つで足りたんだな…」




それから、その人の姿は見ていない。連絡もとっていない。執拗に気にするのも面倒くさい。目を開けた。

殺風景。コンクリートの床に、オレンジの空、黒い影。なんにもない。

嫌なことを思い出した。少し湿った風が吹く。雑誌がパタパタと音をたててページをめくる。煩くて雑誌を閉じた。いつの年の1月号か分からない。

もうここにあの人はいない。分かってた。探したっていない。だから答えを求めていたわけではない。虚しくなるだけだった。


「あの…、先輩」


遠くの方で控えめに声をかけられた。返事をすることなく目線で返す。


「そろそろ部活、はじまります…」


俺は名前の知らない後輩に、慕われる事無く『先輩』と呼ばれているのに、あの人は向こうで『先輩』と呼ばれていない。それは、当たり前の事なんだろうが、やっぱストンと腑に落ちない。前から思っていた事だが、ここまでこの世は不公平なものなんだろうと思った。


まあ別に、あの人を『先輩』だなんて呼んで慕ったことは一度もないんだけどな。


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>>徠々さん
企画へのご参加ありがとうございました!
リクエスト遅くなって申し訳ありません。黄笠か青笠が読みたいな、との事でしたので青笠っぽくしました。敢えて名前は出しませんでしたが、まあ、雰囲気だけ味わってくれたら幸いです。季節感を出したかったのです。書き始めは1月。寝そべってるだけを書いて暫く放置していて、何気なく書き出していったら『先輩』のワードになり、ハチャメチャな感じになって収拾がつかなくなり無理やり終わらせました。深い意味はありません。

楽しく書かせていただきました!
お粗末さまです!
ありがとうございました!




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