いとしき
彼は、仕方がない人なのです。
「なにお前、腹立つ」
何の前触れもなく本当に何かを思い立ったかのように、ただ、そうとだけ言って握りこぶしを振り上げた彼に私は短く「ヒィ」とだけ鳴いて、痛みと衝撃に備えて、目をつぶって、奥歯を噛んでいたら「なんそれ、お前めっちゃかわいい」と低い声で笑って、それでもすぐに「でも殴る」と付け加えて、本当に、殴った。
理由なんかないのです。
痛い、だけではない。
来ると分かっていてもビクビクと怯えてしまう。拳が迫る瞬間、目を瞑る。現実との決別。ぶたれた。皮膚を震わせ、筋肉を痺らせ、神経が悲鳴をあげる。殴られた衝撃は凄まじいもので心臓がバクバク痛いのと、やっぱり殴られた周辺が痛い。涙が滲む。
「どう?…少し嫌いなった?」
ジンジンと熱く痛む頬を押さえて涙の冷たさにびくびくして、だけれども嫌いになんかなれるはずもなくて、ぶるぶるとかぶりを横に振った。
「あっそ…、俺もそうやで」
そう言うと彼は私の身体を溶かしてしまいそうなほど優しく抱き留めて、頭をゆっくりと撫で、「痛かったやろ?もっと嫌がれや」と赤くなったであろう頬を、静かに眠る小鳥に触れるみたいにして、心配そうに触ってくるから、「ううん、平気」とだけ言って胸に顔をすりつけた。
これが彼なりの愛情表現なのだから。