僕がキスをした理由
「テスト期間って絵が描けないのが何より辛いよね」
そう言って彼女は水彩の筆を口に咥えて、赤ペンでミトコンドリアと書き出した。僕は別に、その単語ば十回書かなくても大丈夫だろうと思いつつ、数学のワークを取り出した。
「教科書に載ってる絵じゃ覚えられないって事で、デッサンしていいかな、ミトコンドリア」
左右非対称な短いツインテールを揺らして、顔より大きな縁の太い黒い眼鏡を顔に押しつけて、顔にできたソバカスを気にしつつ彼女は笑った。僕は静かに首を振ってワークに書かれている数式をシャーペンで突き刺して彼女の方を向いた。
「…確かにそれも美しいけど、見る人によっては不快なんだよ」
渋い顔をして何かの輪郭を描きだした彼女。それは確かにミトコンドリアだった。
僕は黙って数式を解いていく。一見難しそうに見えても、一つひとつ丁寧に解いていけばとても簡単な問題。記号と数字の羅列。時折、目を閉じて脳内で算盤勘定をする。僕は暗算が得意だった。
「貴方は数字が友達だからね、分からないでしょうけど、とっても変態よ、ムッツリなんでしょ、スケベ」
彼女はミトコンドリアではなく、僕を描いていた。それは本当に似ていて、色を映さないモノクロの鏡を見ているかのようだった。こんな短時間で、まだ僕は長文問題を三つしか解いていないというのに。目の下にある小さなホクロまで忠実に描かれていて、彼女はやっぱり天才だと思った。だから僕は肩をすくめて笑った。
「ほら…そうやって……貴方はテストも楽しいでしょうけど、絵描きの私にとっては大変なの、辛いの」
そう言いながら僕の似顔絵に「数字は友達」と吹き出しを付け足して、また赤ペンでミトコンドリアと書き出した。僕は黙々と数式を解いていく。
「……ほらみて、どうやら私はミトコンドリアより、貴方に興味があるらしい…」
顔を上げて彼女を見つめる。そうしてノートに視線を落とせば、ミトコンドリアの単語の羅列に僕の名前が書かれていた。確かに、彼女はどうしてミトコンドリアをデッサンしないで僕を描いたのか不思議に思ってはいたけれど、まさか、そんな事だとは誰が予想していたのだろうか。確率としては零に限りなく等しくコンマ以下の零を数えていたら眠りこけそうなほど低いというのに。
「また難しそうな顔して…どうせ数字の事しか頭にないんでしょうけど、どういうわけか、私も同じくらいに貴方の事で頭がいっぱいなのよ……何がミトコンドリアよ、何が数字が友達よ、じゃあ私を恋人にしてよ」
僕は瞬きを三つした。彼女は数えきれないほどミトコンドリアと書いたのに、どうして脳内にその単語が焼き付いていないのか理解に苦しんだ。ほんの少し首を傾けて、彼女が咥えていた水彩の筆を取ってあげた。歯が食い込んでいて、塗装下の木が見えていて唾液が糸を引く。
「……絵描きの私にしか分からないけど、こうゆうのってフィーリングが大事……考えないで、感じるの」
静かに目を閉じて唇を控えめに突き出し、彼女が何をしたいのか、何を期待しているのか、僕には到底わかりそうにもなかった。きっと、これが、フィーリングなのだろうか。人体にも健在するミトコンドリアを感じたいのだろうか。そうやって彼女はミトコンドリアを覚えるのだろうか。彼女はやっぱり天才で、天才の考えていることは数字では表しきれないことは既に実証されていた。
だから僕は唇を重ねたんだ。