始まり



窓もなく底冷えする部屋を裸足で歩けば足の裏から体温が奪われていく。左足首に繋がった鎖が歩くたびにジャラジャラと煩く音をたてて床を傷付ける。その鎖もこの部屋から抜け出せる唯一のドアの二三歩前までの長さしかない。

笑顔も涙もへったくれもなく憂いだけがある。


「食事持ってきたよ」


ドアが開きながら入ってきたのは常に不気味な笑みを浮かべて自分をこんなところに閉じ込めた張本人。昔の友達。パスタとワインにワイングラスが二つ持たれていた。一日三度、食事時になるとこうして運んでくれる。この食事の中に毎回少量の毒物が混入しているかもしれない。それでも目の前に置かれた食事を見るとたちまち唾液が分泌され胃が、身体が食事を欲する。


「……ありがとう、ございます」
「呑もうよ、注いであげる」


彼はワインを揺らしながら言った。部屋の真ん中でパスタを挟んで向かい合って座る。それは所謂、儀式のようだ。グラスを受け取ると心臓みたいにドクンドクンと赤紫のワインが入ってきた。


「…乾杯」


強引にグラスが触れ合う。彼が呑んだのを確認してからグラスに口付けをした。美味しいのかどうかもわからない。ワインのラベルは剥がされていた。この部屋に来てから味覚が分からなくなった。痛覚もきっと鈍くなったと思う。

彼は事ある毎に手をあげる。暴力だけではなく性欲処理をする事もある。それらが習慣のように繰り返されるのだから慣れてしまったのかもしれない。

彼は最近彼によって出来た頬の痣に手を伸ばし、触れると痛みが走る部分を何度も擦った。


「…可哀相だな、僕に気に入られて」
「…そう、なんですか」


やっぱり自分は可哀相なのか、この男に気に入られているのか。もう一度グラスに口付けた。顔をあげれば目が合って、逸らしたら顎を捕まれて性急にキスをされた。そうして何かを注がれた。先程のワインだった。それを飲んだ。一瞬だけ軽い眩暈を感じた。


「……んっ、ふ」


唇から溢れたワインが、顎を伝い、首筋に流れた。肌が粟立つ。鎖が鳴る。彼に押し倒された。床の冷たさが背中からダイレクトに伝わってきて、抱かれる、と悟った。


「素っ気ないね、つまらない」
「ぁあ、…すみませ、っン」


首にざらつく生暖かい舌が這う。思わず喘ぐ。そう躾けられたのだ。短い髪が頬をかすめて腰を浮かせた。


「あっ、あ、あ…きもちぃ、です…」


身体に合っていない服が脱がされたら、自分はすでに生まれた時の姿へとなる。これからを期待しているのか、性器からは先走りした透明な液が分泌されていて、彼はそんな自分を見て嘲笑った。


「いつから君はこんなに厭らしくなったんだろうね」


他人事のように、彼は言った。自分とこの男は元から赤の他人なのだが、今更、そういう口振りをされると、人並みに傷付いた。ここから抜け出したいと、逃げ出したいと、呆れるほど思っているのに、自分は何故か葛藤している。


「この前のお詫び、優しく抱いてあげる」


けれど自分は知っていた。彼の手首に走る赤い線の事を。幾重にもつけられた跡。それはきっと心優しい彼なりの罰なのだと、償いなのだと、視界に入れば釘付けになってしまう程の傷に、自分は本当に愛されているのだと、思い知らされる。本当に、この男に、気に入られているんだ。

髪を撫でる彼に向けて自分はおずおずと舌を出して目を閉じた。彼の衣服が擦れる音と共に体温が近づいてくる。自分はその体温にしがみついた。

それが始まりの合図でした。





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