ななめ
私の右斜め前の席はいつも空いている。そこは不登校の男の子の席だ。何が原因で学校に来ないのかわからない。私は学級委員長だけど肩書きにしか興味がなくてクラスについてはよくわからない。だからイジメで来なくなったのか、ただ単に学校に来ることが嫌になったのか。私たちの年頃ならあり得る。そう、本当に繊細で、小難しくって、それでいて複雑。何かが拗れて情緒不安定なんじゃないのかな。まあ、どーでもいいことなんだけど。
例に依って私は名ばかり委員長。担任がついに彼に対して重い腰をあげた。私と担任で自宅訪問をすることになった。夏休み一週間前。これまでのノートのコピーと学級通信と宿題を持って。どうやら最初っから学校に来ていなかったみたい。席替えはクラスの人が気を利かせていつも参加させていたみたいだ。本当に私は興味ないな。
せっかちな太陽は私たちを焦がさないように、それでいてコンガリ焼き目をつけようと意地悪をする。閑静な住宅街。不自由を知らないといった感じの家ばかり連なっていて中指を立てたくなった。
ひとつの表札の前に立って担任がインターホンを押す。誰も出てこない。ガレージには車が一台もなかった。それでも担任がもう一度インターホンを鳴らした。不登校の人間が外出するはずないという理屈だった。なるほど、チャライ奴ではないのか。
しばらくするとゆっくりと扉が開いた。太い黒縁の眼鏡が似合う男の子、というより男だった。見慣れないその人に担任は気さくに話し掛けていた。なるほど、この人が。
担任が、もう停学は終わっているだろう、と言った。前に不祥事を起こした生徒なのか。担任の後ろにいた私は影から足元から頭までその人を見た。なんだか、チャライとまでは言わない人で、暴力を振るうような人ではないと思ったが飲酒や喫煙や余裕でしているような人だった。というか、似合う。
その人は今まで寝ていたのか、うつらうつらとただ頭を下げているだけだった。本当、こいつ、タメなのか、と疑った。だって、なんかおっさんみたいな仕草ばかりしている。てか、暑いから家の中に上がらしてほしい。
プリントが入った大きな茶封筒を弄んでいたら担任が私を見て、目でその人に渡すよう言われた。一歩前に出て「良かったら学校おいでよ」なんて言った。なんだか少し的外れな台詞を言ったみたいだったが、私は別にこの人が学校に来ても来なくてもどーでも良かったから気にしない。
うん、じゃあ気分が良かったらそうする、なんてその人は言って受け取った。あら、話がわかる人ね。私は頬が引きつらないように笑って頷いた。その人からほんの少し、甘い香りがしたからアルコールを含んでいたんだとすぐわかった。
そうして担任が、待ってるからな、と言うとドアが閉められた。結局、家には上がらせて貰えず太陽の思惑通り肌を焼かした。もうこんなこと二度とやりたくないと本気で思った。だから、あの人には学校に来てほしいと思った。まあ、夏休み挟んだらまた来なくなるんだろうけども。
それから二日後、その人は学校にきた。あと三十分で昼休みだという時間に来た。堂々と黒板の前を横切って、ただひとつ空いてる席に向かって爪先が動いていた。どよめく教室に全く無関心といった感じ。肝が座っているというか、なんというか。席に着く前に私の存在に気付いたらしく軽い会釈をされた。私も短く頭を下げた。変な人。
それから間もなく授業が再開された。やっぱり、この人が来ても何も変わらなかった。ただ、明らかに皆の注目の的にはなっていた。視線と交わらないようにか、眠たいからか、わからないが机に伏せている。私は構わずノートを取り続けた。
そうして昼休み。やっぱり、この人に誰も近づこうとはしない。でも話の中心にはなっているようだ。その人は机に伏せたまま。私は構わず一人で弁当を食べ進める。形の崩れたおにぎりにかじりつこうとしていたら、ねぇ、なんて話し掛けられた。それは斜め前の席の、その人。
あのノートって君のコピー?上半身を起こしてアクビなんかしながら聞いてきた。うん、そうだけど。字が読みにくかっただったら、謝らないといけないけど、分からないから勉強教えてなんて言われたら、断る理由がないからそうしなきゃいけない。厄介になると思ったから言葉は続けなかった。
そうしたら、その人は、ありがとう、なんて言ってきた。あら、好い人、と思った。いいよ、そんな事、と返した。そういえば、気分が良かったら学校にくると言っていたな、と思い出して、今日は気分が良かったんだね、と言った。担任に、この人を構ってあげてほしいと言われていたからだ。
そう、目覚めが良かったからね。そう言って笑った。そういえば、制服を着ている。初めてあったのがヨレヨレのスウェットだったから印象はよくなかったけど、制服がきちんと着こなせていて、なんだろう、タメだと感じた。
ねぇ、それちょーだい、お腹空いてるんだ。…食べかけ。大歓迎。オカカに到達したばかりのおにぎりを差し出した。その人はゆっくりとそれを受け取った。そうして控え目に食べた。目が離せなくなっていた。
なんだか、顔が熱くなってきた。
私と、この人の距離。
右ななめイチメートル。