No.2-1
被ったワークキャップから生まれた影に飲み込まれた両目。とぼとぼ、足を引きずるようにして帰路を辿る。
──今日の俺はおかしかった。
──何が?
──仕事中に泣いたことや。
どうして泣いたのか、そこに行き着くまでの経緯を思い出そうとしては辞めた。また泣いたら、なんて思考がちらつく。
花の前で泣くなんて、情けない。
「ハァ……」
吐き出した息は思ったより小さく、余計惨めな思いに苛まれる。電灯に集まった夜光虫の羽音のノイズが鼓膜近くでずっと鳴っているみたいだ。
お店の近くにあると言う理由だけで借りたマンション。その大きさに改めて怖じ気づいた。こんな化け物みたいな所に住んでるんやな、そんな事を思いながら口の中に入っていった。
高級マンションではないからセキュリティはそこそこで、すんなり部屋に帰れる。自分の部屋番が書かれたシルバーの郵便受けを開けて、何もないのを確認してからエレベーターに乗り込む。
──何も考えんとこ
内臓が持ち上がるような浮遊感の中、頭上で光る「5」のところでランプが止まり動きが落ち着く。間抜けな音と共に扉が開き、エレベーターを後にする。
ジーンズのポケットの中から鍵を取り出して鍵穴を埋める。ガチャリ、と金属音。鍵を抜き取り、流れるように部屋の中へと入っていった。
「あかん…つかれた……」
ドアの鍵を閉めるより、靴を脱ぐことよりも先に膝から崩れて玄関でしゃがみこんだ。
膝を抱えて顔を隠した。静かに閉じた瞳の奥では黒目が泳いでいるみたいで、水面が揺らぐ。だからギュッと力をこめて目蓋の隙間を無くした。いやや。こんなんで泣きたくない。
──迷惑かもしれへんど、笑っとった方がええですよ──
ふと、頭の中で再生された声。これは、今日、宅配便のお兄さんに言われた言葉。胸にじんわりと響く。
──物静かで、あんまり表情に変化のない人やから、怖いなって思ってた。
──だけど、高い所にある物を取れなくて困っていた時、黙って取ってくれた事。留めていたトラックの近くに野良猫が寝転がっていたら、避けるまで黙って見守っていたりしていた事。
まあ、それは猫がすぐに人の気配を感じて逃げて行ってしまったのだけれど。
重たい荷物にも関わらず、軽々と持ち上げてみたり、何より、あんな大きな車を運転しているから、同性ながらカッコいいなって思ったりもしていた。
──ああゆうん人が、男らしいって言うんやな、きっと。
それは俺にはない要素。今日俺が泣いてしまった要因である。仕事中に、花の前で、しかも宅配便のお兄さんの前で泣くなんて、情けない。溜め息が絶える事はない。
「笑っとった方がええですよ……て、あの人、笑うの下手やったな」
控え目に笑ったその人は、恥ずかしそうにしてお店を後にしてしまった。俺はただ立ち尽くしたまま。言われた言葉を自分に言い聞かせていた。
かっこいくて、優しくて、あんな男らしい人やったら、きっとたくさんモテるんやろうな。なんて思った。
──モテるのが羨ましいのではない。男らしいのが、羨ましい…
男らしいとは、俺も一概に説明は出来ひんが、俺みたいにニコニコせんで、黙々と仕事をこなして、なんか、こう、背中で語る、とは言わないが、俺が守ったるから黙って着いて来い、みたいな感じがあって、かっこええなって思う。
──何してんやろ、おれ。
それからガハッと目が覚めたようにして顔をあげた。うん、なに玄関で蹲ってんだ自分。それからすぐに立ち上がってドアの鍵を閉め、靴を脱いで荒れた手を洗う。
──今日はメシいらんな…。
うがいを済ませてから日課のハンドクリームを塗る。手首から指の間まで丁寧に伸ばして、まんべんなくクリームをつけた。花屋は毎日が水仕事だからよく切れてしまう。それから葉や刺でも手を傷つけてしまうから、クリームは無くてはならない存在なのだ。
──多分、こうゆうところが、女々しいんやと思う。
あんまし男の人でハンドクリーム塗る人なんておらんからな、と一人で塗りながら笑ってしまう。
そう言えばあのお兄さんも、───重いものとかたくさん持つから、手とか荒れたりしーひんのかな。
「……って、なに考えてんのや、きも」
友達でも何でもない男の人の事を考えている自分が気持ち悪いと思った。そんなんでも、何でもないのに、お兄さんに失礼や。
でも、あのお兄さんにお礼しないとな、なんてやっぱり考えた。
──わりかし料理が得意だから家に招いてご馳走するのはどうだろうか。いいや、それこそ迷惑や。だって、まだあんまり仲良くないし。じゃあ仲良くなればええのかな。だったら食事に誘うのはどうやろう。てゆうかお兄さん、俺と仲良くなりたいと思ってるんかな。
そこまで考えて、やっぱり辞めた。俺はただ、お兄さんにお礼したいだけや。なんで仲良くなりたいとか考えてんのや。
「……でも、」
ハンドクリームの蓋を持て余しながら、お兄さんの顔を、言葉も、顔を隠す仕草も、ぎこちない笑顔も思い出して、顔が熱くなって、なんや、自分アホらし…。
「…ともだち、くらいには……」
友達。それはどこか懐かしい響きにも思えた。
──そうか、友達か……
少しだけ考えてみたら一緒に食事を行くような友達なんて、自分には誰もいないことに気が付いた。
電話帳にある名前はあくまで仕事上の付き合いばかりで、昔から男の子と遊ばなかった俺は、数だけの友達しかいなくて、女の子だっていつまでも、おままごとなんてしないから自然と離れていって。
──友達おらんて…寂しい奴やな……
瞬きをしたら悲しくなった。改めて電話帳をみたら、文字がぼやけて何も見えなくなっていた。
──おれ、友達おらんって……
「ふっ…うぅ……」
今日は涙腺が弱い日だった。
そう自分に言い聞かせて、泣いている自分を正当化する。そうでもしないと今の自分の説明がつかないのだ。これでいい。
──明日泣かないから…
──泣かないから、今日は泣かせて…
──明日はちゃんと笑顔で頑張るから…
声はあげずに、黙々と泣いた。
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