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店の前の入り口に来て、躊躇った。
──うっさい…
それは俺に扉を開けるのに渋る理由には十分すぎるものだった。五月蝿いのは得意ではない。酒が飲みたいのなら家に帰ってでもええ。此処からなら自分の住む場所は、そう遠くはない。
──どうせ最後は帰るんや
入らない理由と、ここまで歩んできた自分を正当化しようとしている。そうでもしないと頭の隅にいるあの人になんにも言えなくなってしまう。
──……、帰ろ
振り返って歩きだしたら何とも言えない丁度のタイミングでガラリと音を立てて居酒屋の扉が横に開かれた。思わず歩くのを辞めて振り向いてしまった。
「ありがとうございましたー!」
暖簾をくぐって出てきたのは着崩れたスーツを気にできないほど酔っ払ったサラリーマンの二人組で肩なんか組ながら、大きな声で笑いながら「次はあっちに行きましょうよ」と会話をしていた。
──あん人ら、まだ呑むんかいな…
そんなサラリーマン達をしばらく目で追っていたら「良かったら、一杯どうですか?」と、どこからか声がした。
視線を居酒屋の方に戻せば暖簾を手の甲で押し上げて、俺の方を見ている女の店員さんがいた。
──え、……おれ?
俺が何もしないでいれば「良かったら」と手の平が店内に向けられた。戸惑う。帰ろうと思っていたのだがせっかく誘われたことだし、断るのも面倒くさく、俺は店内に入っていった。
中に入れば外から聞こえてきたの比べものにならない威勢のいい掛け声。炭の上に脂が落ちて蒸発する音。むさい店内。白っぽい空気。何もかもが五月蝿い。
あの人と飲む店をなんでこの店を選んでしまったのだろうか、と後悔。理由は簡単。あの時の俺は、いつもの俺じゃなかったから。
そうしたものの、あの人がここいないことだから、この店には似合わないが静かに呑ましてもらう事にしよう。
それなのに俺は無意識にあの人を探していた。カウンターを見る。それらしい人はいない。スーツを着ているわけではないだろうからすぐに見つけられると思っていたから、もう居ないんだと分かった。
──そら、そうやろうな
俺は一番奥のカウンターが空いてるのを確認して、そこに向かった。油っこい足元。嫌いではない。それに色んな銘柄のタバコの煙がするから、ちょっと面白いと思ってるくらい。
カウンターに着いて、おしぼりをもらい、ビールと適当に何かを頼もうかと改めて店内を見渡したら、居た。
──……、嘘やろ
居た、というのは、例の、あの人で、半分ほど無くなったビールのジョッキを片手にテーブルにうつ伏せて居たのだ。目を、疑う。その周りにはお通しの枝豆の殻が散らばっていて、空っぽのジョッキが2つ並んでいた。
──話し掛ける、べき…か?
ニコニコと俺の隣で伝票を片手に注文を待っている先ほどの女の人に「待っとって」とだけ言って席を立った。
──どうしたら、ええんやろ…
ゆっくりとその人に近づいてみる。気配に気付いてくれないようで、まだうつ伏せたまま。声を掛けてええんやろか、と頭が騒ぎだす。
──寝ているんやったら、どうする。怒っていたら、どうする。悲しみに浸っていたら、どうする。
──どうしたらええんや。
永遠と答えの出なさそうな問いかけばかり浮かんでは俺を困らせた。友達とは違う。仕事上の付き合い。だからこそ、どうしていいのか、さっぱり分からなかった。
──アカン、面倒くさ…
何せよ、ここに誘ったのは他でもない自分であって、俺が決めた時間に来なかったんだから、非があるのは俺。謝らないといけない。
「あの……、野澤さん」
身体を揺さ振らせることなく、周りの五月蝿い会話に負けないような声で、初めて、この人の名前を呼んだ。
そうしたら、下を向いていた顔がむっくりと起き上がった。心なしか目は潤んでいて、頬は赤く、間抜け面だった。
「あ、えと…遅れました、すんません」
浅く頭を下げたところで、その人は一瞬だけ目を丸くした。だから俺は目線を下げた。
「あっ、おにーさん、きたぁ…」
「……は?」
呂律の回っていない声がして、顔を上げたら「んふふ」と目を閉じて滑らかな弧を描いた口元がそこにはあって、嫌な予感がした。
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