No.3-1
仕事は難なく終わった。
時刻を確認したら8時過ぎを指していた。辺りをあちこち見渡す。何もすることはなかった。
──まだ早いけど、行こかな…
身につけていたエプロンを折り畳み、たくさんの花達に「おやすみ」と告げて店のシャッターの鍵をかけた。
それからとぼとぼ電柱の光を頼りに歩き、なるべく何も考えないでいたら、あっという間に居酒屋についた。開店してから三ヶ月も経っていないので、外装は綺麗である。木材を多く使われていて、暖簾の後ろから漏れる灯りが自然の温かさを思わせている。明日も平日だと言うのに外からでも随分と賑わっている様子がうかがえる。
──なんや、緊張する……。
お酒の席はこれが初めてではない。だけど、いつも誰かに連れて来られていたから一人で入るのはこれが初めて。それもあるし、あのお兄さんとこれからここで、仕事抜きで初めて呑むんだと思うと、もっと緊張してきた。
──ここまで来たんやから、あとは呑んで…、呑んだらなんとかなるやろ……
「いらっしゃいませー!」
ふぅ、と一呼吸してから思い切って中に入ると威勢のいい声が響く。それからすぐにたくさんの音。ノイズとは違う賑やかさがある。
ぼやける視界。タバコの煙なのか焼き鳥を焼いた時に出た煙なのか、はたまた自分が疲れている所為なのか。白っぽい煙が漂う店内では普段聞き慣れない音ばかり溢れていた。
怒鳴り声で会話が繰り広げられているみたいだが、時折笑い声が聞こえてくる。呆気に取られて立ち尽くしていたら、網の上の焼き鳥をひっくり返している店長さんらしき人と目が合ってビクリとした。
──はっ、はよう座らな……
小さな会釈だけをして、白い煙の中を見渡せば、壁ぎわで店の奥の方にあった2人掛けの小さなテーブルを見つけた。ここに入ってすぐだと気付かないような場所。カウンターの方も見たが、空席はひとつしかなく、しかも両サイドには仕事帰りらしいサラリーマンがそれぞれお酒を楽しんでいて、どちらもまだ帰るような様子ではない。
──あそこで、ええかな…?
このままずっと立っているわけにもいかないから、その席を目指す。お酒とタバコの匂い。両方とも嫌いな臭いなわけではないが、鼻がまだ慣れずいい気分にはなれない。
「いらっしゃいませ!ご注文は何に致しましょうか?」
椅子の背を掴んで手前に引いたところで、声がよく通る女性店員さんに声をかけられた。ニコニコと営業スマイルが輝いてる。
分かっていても突然の事でビクリと身体が跳ねた。でも店員さんはそんな俺の様子を気に留める事もなくニコニコと俺の発言を待っている。
──えと……ど、どないしよ……
あまりにも唐突すぎて、自分でもどうしていいのか分からず、救いを求めようにも術は何もなくて取り敢えず店内を見渡す。
「えと…、生ください…」
「はい!以上で宜しかったでしょうか?」
「は、い……」
「かしこまりました!」
それからすぐさま振り向いて「生ひとつ入りましたー!」「はぁーい!」と声だけで伝達して、店員さんはヒラヒラと人混みの中で手の平を泳がせている人に向かって「今行きまーす」とまた声を張っていた。
──す、すごい……
そう圧巻して席に着けば、テーブルの上にはいつの間にかおしぼりが置いてあった。きっと、さっきの店員さんが置いて行ってくれたものなんやろな。
暖かいそれで手を拭い、店内を改めて見回した。タバコのヤニで黄ばんだ壁や天井。手書きのメニュー表は油塗れで変色していたが、やっぱりまだ新しい。
「はい、生ひとつです!」
「ありがと、ございます…」
お通しの枝豆と一緒にジョッキ並々まで入り、白い泡が表面張力ギリギリまで盛られて出てきた。壁に掛けられた時計を見たら、9時にはまだなりそうにはなかった。
──やっぱ、迷惑やったかな…
それはまた唐突なまでの不安が訪れた。どろり、どす黒い気持ちが心臓を泥濘に沈める。
──お兄さんには俺より前に何か用事があったかもしれへん…
俺がしつこくしたから、ワガママ言ったから、あの優しいお兄さんだったから、俺に付き合ってくれたんや。それやったら連絡先も、カーネーションも、全部迷惑やったんやろうな。なんや、寂しくなってきた。
──だから、今日は、来ないかもしれない…
もしかしたら、無理して来てくれるかもしれない。仕方ないからって、仕事上の付き合いだからって。ちょっと断れなかったから、仕方ない、行かないとって、来るかもしれない。
──それでもええ、…来てくれたら嬉しいな…
「ちょっと、呑んでよ……」
たくさんの思いを出さないように、唇を締め切って、息を止める。ジョッキを持ち上げた時に片腕だとやや不安定だったので、底を支えるような形で一口呑んだ。白い泡に紛れて喉を通り、胃に流れ落ちる。
キンキンに冷えたビール独特の苦味。それと気持ちいいのど越し。久しぶりのお酒。何もかも飲み込もうと、一口のつもりだったのだが気付いたらジョッキの半分を呑んでいた。
「プハァー…うんまっ!」
付け合わせの枝豆を手元に引き寄せて、口元にあてがい、指で押し出すように鞘から豆だけを取り、ジョッキを傾けた。
アルコールが後頭部を溶かす。意識がふらついてきた。身体が温かくなってきた。なんや、ええ気持ち。
──お兄さんと何喋ろう。何呑もう。何食べよう。どうしたらええんやろ。なんも考えてへんわ。あかん。誘ったのこっちなんやから、なんか考えんと。あかんやろ。
どうしよう、と悩んでは酒に逃げた。一口、また一口。あかん。調子上がりすぎや。でも、いつもの俺やったらきっと何も言えへんから、少しお酒の力を借りよう。
──もう少し、もう少し。
のど越しを楽しむ。ホップの独特な香り。弾ける炭酸。冷たい。ノイズが遠退く。あかん。もうクルクルしてきた。落ち着かな。
そうしてビールと長いキスをする。
「あれぇー?もうあらへんのかー?」
ひっく。視界がぼやける。ジョッキの中は、わずかに残ったビールの泡だけ。
──うまぁ…
お酒って、こんなに美味しかったっけ。てゆうか俺、こんなに酔うのはやかったっけ。
お酒は好き。中でもビールが一番好きかもしれない。最初は苦かったし、美味しいとも思わなかったけど、昔お花の講習会で仲良くなった人からビールは喉で楽しむものだと学んでからは、よく呑むようになった。酒癖はどうなのか分からないが、呑んだ次の日には記憶が飛んでいることが多く、自分がどうなっているのか分からなくて、怖くて、最近はあまり呑まないようにしていた。だからこそ、今日は気をつけないといけないのだが、俺はそう上手く出来ていないので、久しぶりの酒が進む。
時刻は9時を回っていた。
──ああもうお兄さんは来られへんのや。
ぐわんぐわん、揺れる意識の中で確かにそう思った。溜め息が落ちる。仕方ない。俺みたいな寂しい人やないんから、仕方ない。
──今日、お店に来てくれたことだけでもありがたい。
ふわり、と香るアルコール。脳天を泳いでいるような感覚。誘いを断ってくれなかっただけでもありがたい。それだけでもありがたい事なんや。
重たくなった目蓋を三度、閉じる。
──そういや、なんで今日お店に来てくれたんやろ…
ジョッキに口づけをする。
辛うじてまだ働く頭の中に意識を巡らせる。
──俺のこと、心配してくれたんかな。
ぼんやりとしている。何もかもがお酒で曖昧。もしそうだったら、嬉しいな。でもそこまで心配かけさせてたなんて申し訳ないな。やっぱりお兄さんは優しいな。そんな優しい人が、俺なんかと一緒に食事だなんて、お酒を呑むなんて、友達になってくれるなんて、ありえへんな。
「………俺って、」
そこまで呟いて、涙が込み上げてきたのが分かった。もう何も考えない方がいいのかもしれない。
垂れ下がった頭が重い。目頭が熱くなる。ヤバイ、と思って咄嗟に目を閉じたら、温かい頬に冷たい涙が伝った。
「…こんなん……イヤやわ…」
一人になりたい時もある。
一人の時間も好き。
──せやけど、『独り』はイヤや…
長袖の裾を伸ばしてグリグリと目元を押さえ付けた。じんわり。滲む指先。その感覚が遠退いていく。
──自分、湿っぽいな…
こんなんだから、友達が居らんのや。頭の中では反復するくらい分かっている。しかし、どうすればいいのか検討が付かない。だったら、今ぐらいはお酒に溺れよう。
ズル、と鼻をすする。
「すんません!生、おかわり!」
今の自分を振り払うように声を張って空のジョッキを高々と上げた。
──お礼は、またお店に来てくれた時にでも改めてしよう。
──無理に誘わないで、飾らないで、言おう。
それからすぐに店員さんの明るい声が頭に響いた。明日仕事あるけど、今日の朝は失敗してしまったから呑んで自分を慰めよう。次のが呑みおわったら、帰ろう。きっと、まだ一人で帰られるはずだから。
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