突然、来るはずのないお兄さんがお店に来た。

早いうちに会いたかった。会って、お礼をして、食事に誘いたかったのだが、仕事がないから今日はダメだと思って、ハァ、と溜め息をついた矢先の事だった。

浮き足が立つ。昨日の自分を挽回しろ、と背中を押されたみたいな勢いで帰ろうとしたお兄さんを引き止めて食事に誘ってみた。

まだ断られた時のことを考えていなかったので、少々強引に誘ってみたが、手応えはない。というか、完全に困らせてしまった。


──やって、さっきから目が合ってへん…

帽子を深く被った状態で無言で俯かれてしまっている。

──やっぱり迷惑やったんや。

人の話も碌に聞かないで、花に無実の罪を与えて、嘘を吐いた性格の悪いヤツが、と悪態をついて涙が滲む。

──お兄さんにだって用事とか彼女とか色々あるやろうし、優しいお兄さんの事やからきっと今は断る理由を探してくれてんのかな、なんて考えたら悲しくなってきた。

──アホみたい……。
──一人だけ盛り上がって。


「す、すまん………」


垂れ下がった頭を持ち上げる元気は、今の俺になかった。きっと、こんなんばっかりやからお兄さんに迷惑かけてるんや。もう、いやや。


「……おれ、仕事終わるの遅いっすよ」


耳にやや低めの声が、触れた。


「へ……?」
「せやからメシやなくて、酒なら……」


気の抜けた声と同時に顔を上げたら、深くかぶった帽子の奥でお兄さんと目が合った。そう思った途端に逸らされた。


「それがアカンのやら、」
「う、ううん!ええよ!そうしよ!」

「あい…、」
「せ、せやったらどこ行く?」


──やっと、目が合った。

柄にもなく、それがちょっと嬉しくって、あちこちに目配せをして自分を落ち着かせようとした。心臓が、跳ねる。

自分から誘っておいて、いく場所なんて全く決めていなかった。お酒を呑めるお店なんてもっと毛頭になかった。本当は今の時間、どこに行こうか思考を巡らせないといけないのに、俺はなんにも考えられず、ただ駆け足気味の心音がお兄さんに気付かれないかどうかだけを気にしていた。

──同じ空間にいるんやから、もしかしたらバレてるんとちゃうのかな?


「じゃ…、ここらで最近できた居酒屋、分かります?」


お兄さんの優しい声色がした。
鼓膜を駆け抜けて脳から心臓へと響き、自分が緊張しているんだと認識させられた。


「わ、わかるで!昔ラーメン屋やったところやろ?そこ、俺の住んでるマンションの近くなんや」


何もかもが突然な事で何にも追い付かない。ただ、口だけは達者になって、いらんことまで喋っていた。

あまりの余裕のなさに、ついお兄さんの前でテンパってしまい、「あぅ、う……」などとわけの分からない言葉を言ってしまう始末。カラカラの喉で吸い込んだ空気が痛い。

身体が熱くなってきた。手が汗ばむ。体温が上がってきた。顔が赤くなっていくのを自覚する。大人には程遠い言動の恥ずかしさのあまりに謝ろうとしたのだが、それすらも「す、すまん…」と。なんとも歯切れが悪くなってしまい、今度は俺から視線を逸らした。


「えと…9時は過ぎると思うんで、……じゃ」


お兄さんはそう言うと運転席に戻ろうとドアを開けて車に乗り込もうとした。

──もう行ってまうの?
──気分でも悪くしてもうたかな?


「ま、まって!」


咄嗟に、声が出てしまった。
呼び止めて、乗り込もうとするお兄さんと目が合って、困ってしまった。

反射的に、そう言ってしまった。
本日二度目の『待って』。

お兄さんは車に乗り込むのをやめて、ジャリっと石を踏んだ。


「あ…っ、えっと、待ってて!」


そう言ったはいいものの、待って欲しい理由は曖昧で、頭も気持ちも整理しようと店内に走って逃げた。

──で、…どないしよ。

レジカウンターに手をついて落ち着きのない心臓をなんとかしようとした。

──やって、仕事以外で喋るん久々やから緊張して、いつもの自分が出てこないんやもん。だから、どう接していいのか分からない。お兄さんやって、困っているはずや。自分は迷惑なヤツだ。

──そう言えば……。

お兄さんの名前をまだ知らないでいた。なんて名前なんやろう。お兄さん、俺の名前とか仕事で覚えててくれてたりするんかな。

──そんなわけ、あらへんよな。

俺以外にもお客さんがたくさんおるはずやし、先輩も後輩も友達も多いやろうから、俺みたいな奴の名前なんか知らないんやろうな。

──名前は誘った俺から名乗るもんやろ。


カウンターに回り込んで引き出しからなるべくシンプルなメッセージカードを取り出して、ボールペンで自分の名前と連絡先を書いた。これからお酒呑みに行くんやから、教えておいて損はないはずだと自分を正当化。

ただメッセージカードを渡すだけではパッとしなかったので、視界に入った、カーネーションを一本取って、また駆け出した。

お兄さんは斜め上にある太陽を睨み付けるようにして帽子を浮かせて額の汗を拭っていた。俺より少し、太陽に近いお兄さんに、目が奪われる。

その時、初めてお兄さんを見た気がする。

黒い髪が艶やかで太陽の光でリングが浮かび上がっている。右に流された前髪に、長すぎず短すぎない具合の短髪。

重たそうな目蓋の奥にある、大きく瑞々しい黒目。きっと太陽のことがあるから表情は堅いけど、凛々しくて、勇ましくて。

シャープな輪郭に男らしい喉仏。拭う腕は鍛え上げられたようなたくましさがあり、さすが、と思った。

──かっこええな……。


「あ、あの…っ」


ずっと見ていたかったがそんなわけにもいかず、控えめに俺が声をかけたら、お兄さんは一瞥してまた帽子を深く被らせてしまった。なんか、ちょっと、残念。


「これ、俺の連絡先やねん」
「…どうも」


押しつけるようにカーネーションとメッセージカードを差し出したら、一瞬だけ戸惑った様子を見せたが、お兄さんは帽子のツバを握ってからそれらを受け取り車のドアを開けた。


「じゃあ、また後で…」
「おん!席とっといてるな」


お兄さんは車に乗り込む前に、ペコリと頭を下げた。だから俺も頭をさげた。顔を上げた時に車はブロロと唸り出し、そのまま発進していった。

ワゴンが灰色を吐き出しながら奥にある道路目指して向かい、遠くの方で小さくウインカーを光らせて車の中に消えていった。俺はそれを、見えなくなってしまった今でも見ていた。


「や…、やった……!」


それから年柄にもなくガッツポーズをした。心臓はこれでもか、というくらいに早く脈を打っている。今だに誘えた事が実感出来ないでいる。


「やっと…、お礼できんやな」


ふふん、と今にも鼻歌を歌いそうなほど舞い上がっている自分がいる。恥ずかしいな、でも、嬉しいな。

──朝の自分と今の自分がまるで別人みたいで、また自分の事を嫌いになりかけたが、やっぱり誘えた事が何よりも嬉しくて、嬉しくて。

「えへへ、たのしみやなー」


エプロンのポケットにしまいこんだ指先が、熱く震えている。


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