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昨日の花屋であんな事を言ってからの俺は、どうも変だった。
慣れない事をしたからか、妙に気持ちが浮ついていて、無意識に貧乏揺すりはするし、足を何度も組み直したりもする。大好きなタバコを吸ったって落ち着かない。
──あの人の泣き顔……、
風呂場でふと思い出して、浴びていたシャワーを一気に冷水にした。
「……なんや、モヤモヤする…」
不思議な感覚だった。
今まで感じた事のないもので、辞書を引いたところで納得できるような、形容しきれないものなんだと思う。
──やって、相手は男やで?
──ニコニコして、うじうじして、なんなんや、アイツ。なんでこんな他人に自分の感情を弄ばれなきゃいけないんだ。それが女ではなくて男なのも腹が立つ。それが原因で落ち着きがない自分にも腹が立つ。
それは寝ただけでは何も変化はしなかった。むしろ俺の内側で感情が膨れ上がって、仕事が手に付かなくなっていた。
──そこまで俺を翻弄する何かが、あの花屋にはあるんやろうか?
ガタガタとワゴン車を操り、配達を済ませる。ハンドルを握る指は、車内に流れる緩やかなメロディーラインを台無しにするかのように忙しなく動く。
──今日も荷物はたいしてない。
──昨日もそうやった…。
──下手に時間があった。
もう何も考えたくはなかった。面倒くさい。むしろ毎日ニコニコしとったらロボットかっ、ちゅーに。せやから、別に、別にどうでもええやん。
──でも、
何故かそこで反語が出てしまう。
──通るだけ…。
──今日やっているかだけ…。
──あの人が笑っているかだけ…。
やっぱり気になるから、確認だけしたかった。
話かけなくていい。ただ少しだけ、見れたらこの違和感はなくなるような気がした。根拠はない。こうゆうのは理屈ではなく、感覚なのだ。
だからウインカーを光らせて、建物の隙間にワゴンを走らせる。逸る思いが、焦らすように俺を急かす。
──あ…、
──やってる。
前方の左側に細々とした花が見えた。開店してるんだったら、きっと元気なんだろうな。
少しだけスピードを緩めた。
花屋が近づく。
──あ、あの人や…。
花の方を向いてしゃがみこんでいた。何をしているのか分からない。だから一瞬、泣いているのかと疑った。だって仕事をしているようには見えない。でも、泣いているような雰囲気ではない。ここからじゃどんな横顔をしているのか分からない。
そうして見ている間にも車は走り続けているから、盗むようにしてその人を見る。
そうしていたら、その人がいきなり立ち上がるものだから、俺は驚いてハンドルを握りなおした。背筋も伸ばして、しっかり前を向いた。意味もなく心臓がドクドクと大きく脈打ち始めた。
──コワイ
知らず知らずのうちに生まれた感情だった。あの人に合うのが、目を合わせるのが、笑顔を向けられるのが。俺はどうしていいのか分からない。だから、怖い。
──でも…。
花屋の前を通り過ぎる。その僅かな間だが、あの人の姿を一目見たら、そうしたらきっと、この訳の分からない感情に振り回されずに済むと思った。
だから、左に目配せをした。
一瞬。本当に一瞬。時間にすること三秒。俺はその時間で、ガラス越しだが、確かにあの人と目が合った。きっとあの人は気付いていないと思うが、目が合った。
ただ、物を映すだけに見えた両目は、わずかに潤んでいて、笑顔は見れなかった。
「………って、なにやっとんのや俺……」
バックミラーに映る背景をまともに見れなかった。来なければ良かった。あの人を見なければ良かった。あの時、話しかけなければ良かった。こんなことで、ウダウダと自分の時間が奪われていってしまうのが惜しい。
──でも…。
やっぱり、笑顔は見たかった。普段から笑えない俺じゃあ、あの人を笑顔に出来ひんのは分かっていた。
──せやったら、どうしたらええんやろ?
分かっていても考えてしまう。いくら思考を巡らせても納得のいく答えは浮かばなくて腹が立つ。面倒くさい。何もかもが面倒くさい。
──何考えてんのや、俺。
──あの人は関係ないやろ。
──俺がどうこうする事やない。
仕事上の付き合いなのに、甲斐甲斐しく俺が心配することやない。たいして話した事もないのに、泣き顔ひとつでここまで翻弄される俺ってアホすぎる。
頭では分かっていても、どこか腑に落ちない自分がいて。あんな風に、むしろ中途半端に関わってしまったのだからだと思うが、あの人の笑顔が見たいのだ。
一回だけでもいい、一瞬だけでもいい。見れたらきっと、このモヤモヤはどこかに消えて無くなるような気がする。
「…次の終わったら、」
少しだけ、あの花屋に顔を出そうと思った。顔を出してどうするわけではない。ただ、今のままじゃ気が済まない自分がいる。面倒臭いがしょうがない。早くこのモヤモヤをなんとかしたいのだ。
──全部、全部あの人が悪いんや……
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