ジョーカー
「あっ、煙草きれてた…」
「……ざまぁ」
職場の喫煙所に来て早々、内ポケットの煙草がきれている事に気付いた。一緒に来た同僚はそんな俺を見て喉の奥でククッと笑った。
「一本よこせ」
「残念、俺もこれで最後なんだ」
ポケットから取り出された煙草のパッケージを見せ付けるように握り潰された。俺はわざとらしく溜め息を吐いてネクタイを緩めた。
隣で笑いながら煙草を吹かしているそいつの煙が鼻腔を擽る。余計吸いたい衝動に駆られる。
「なぁ、ちょっと吸わせろよ」
「……ちょっとだぞ」
ん、と渡された煙草を受け取って、ゆっくりと吸った。肺に煙を入れて低く吐いた。ああ、たまらない。
細く笑うと煙草を持っている手首を捕まれて口元まで近付けられた。何事かと思えばそのまま煙草を吸いはじめたのだ。
「悪趣味野郎め、やめろ」
「センスないなー、ほらよ」
手首は捕まれたまま。今度は自分の口元に煙草が来た。俺はそれを黙って吸い、肺に通してから煙を吐いた。少し苦みが増した気がする。
それを交互にやっていくうちに、煙草を今か今かと待ち侘びていて捕まれている手首なんて気にしなくなっていた。ただ純粋に煙草を味わっている。
一人で吸うより半分の時間で煙草は消費され、どちらともなくキスをした。彼とはそうゆう仲ではないし、もちろん俺は男とのキスは初めて。二人の中で出来た異様な雰囲気に惑わされて至ったものだと内心冷静であった。
「初めてか、男とのキス」
「…ああそうだよ、つかお前、そっちの奴かよ」
違う、と否定しつつ再びキスを仕掛けて来たそいつが嘘をついたのだと直ぐに分かった。それでも、何となく拒む雰囲気ではない、とキスを受け入れる俺は彼からみたら嘘吐きなのだろう。
キスは次第に深くなっていき、さりげなく腰に回されていた手が厭らしい手つきで動いていくのが分かった。俺は女としか寝た事がないがキスの段階でその気がある事を示すようなものでもあった。手を当てられている部分から僅かに体温を感じてスーツとワイシャツが擦れる度に厭らしい気分になってきた。
「ンん、…やめ、ろ…って」
やっと彼を押して拒んだ。俺の咥内に彼の舌まで入っていて、お互いの唾液が混じり二人の間を確かに繋げていた。不意に落ちた視線。生理的に溢れた涙が重力に伴い今にも落ちそうだ。そんな気は全くないのに。
「あーわりぃ、でもよかったろ」
「煙草だけだよ、ばか」
その場から立ち去ろうとしたらいきなり突き飛ばされた。軽く浮いた俺は狭い喫煙所の壁に体を打ち付け少し延びた。睨み付ける前に彼は目の前にいて、まだ痛む体を労る事無く壁に押し付け、俺の頭の上で両手首を片手で束ねた。彼はやっぱり嘘をついていた。
「おい、何してくれてんだよ…っ」
「最後の一言は余計じゃないか?」
全く会話が噛み合っていなかった。彼は去りぎわに言った俺の台詞に腹を立てていた。短気は損気だと言ってやろう。馬鹿に馬鹿と言って何が悪いんだ馬鹿。大体にして俺たちそんな事で喧嘩するほど若くはないんだよ。
「…俺が悪かった、すまん」
「煙草やったんだから感謝しろよ馬鹿」
癪に触った。馬鹿に馬鹿と言われる筋合いはないぞ馬鹿。感謝はしている。煙草を吸っている時は俺にとっては数少ない至福の時間である。だけど恩着せがましく言われて腹が立たない奴はいない。
「てめぇ、いい加減に、ンっ」
鳩尾を蹴ろうと片足を上げたら、覆い被さるようにキスをされた。膝頭が鳩尾を捕えているが体で押さえ付けられているのと、キスされて力が入らない。男としてこんな屈辱的な事はない。
唇を押し割って入ってきた生暖かくてざらついた舌を前歯で噛み付いてやった。そしたら額を強く打ち付けられた。酷い眩暈が襲う。
「っ…わるかった、わるかったから」
「…いや、もういい」
そう言うと彼は俺からゆっくり離れていった。無様にも俺は壁にもたれたままずるずるとその場に座りこんだ。浅い呼吸を紛らわすように肩で呼吸を繰り返す。
彼はスラックスのポケットから煙草の箱を出した。そして慣れた手つきで煙草を咥え火を点けて煙を吐き出す。
「…いっぽん、くれ」
「……ん」
「ありがと…」
「いえいえ」
一本だけ飛び出た煙草を受け取り、すぐに口に咥えてライターを探した。胸ポケット、内ポケット、スラックスのポケット。すべて探したが小銭しか見当たらなかった。なんだ俺、煙草吸う気はなっからなかったのかよ。
彼を盗み見ると目が合って反射的に目を逸らしてしまった。ゆっくりと顔をあげた拍子にまた目が合った。今度は彼の顔がもっと近くある。思わず顔が火照った。
「ほら、火」
「………ありがとよ」
渡されたのは彼の吸っていた煙草。俺は呆れて声も出なかったが、彼の機嫌を損なわないようにじっくりと燃えている煙草の先端に煙草を押しつけた。次第に煙が上がりはじめたので軽い会釈をして煙草を咥えた。
冷静になっていく頭。吹かした煙草の煙に酔いしれてきた。この短時間で起こった濃い出来事は夢のような。なんだか段々と現実味がなくなってきた。
「うまいな…」
「俺のお気に入りだからな」
心なしか誇らしげに言った彼は黙って隣に腰をかけてきた。俺は乱れたスーツを直しながら座り直した。気を落ち着かせる為に大きく吸い込んでゆっくりと吐き出した。
「…キスだよ、ばか」
「……だから最後の一言が、っン」
キスした拍子に俺は気付いた。最後の一本だと言って煙草を交互に吸った。そしてキスをした。煙草を分け合った時に生まれた異様な雰囲気に流れて。じゃあなんで俺は最後の一本だと言ったそいつから煙草を貰ったんだよ。そして、なんで今気付いたんだよ。
ああ、なんて悪趣味野郎だ。
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氷柱様に捧げます。
こんなもので申し訳ないです。