ふわふわ
「ちょっとドクタぁー!」
「んー?」
パタパタ、と。フローリングの上をスリッパで駆けながら、俺のもとに走ってきたマスター。
「ドクター!」
「なぁに」
「ビール勝手に呑んだでしょ」
あ、ばれたか。
新聞を読みながらソファの背もたれによっかかって、すぐ後ろに立っているマスターの怒っているけど穏やかな顔を上下反対の逆さまで見上げて、にっ、と笑った。
「あぁ、あれ?うまかったよ」
「ふざけないでよ」
「ふざけてないよ、うまかったし」
あっ、マスター起こせば良かった?なんて、言ってからかえば、マスターは、もう、とちまっこい唇を尖らせて、前髪で隠されていた額をペチッ、と叩いた。
「痛てっ」
「もうドクターにおつまみなんか作らないからね」
「えー、それは困るなぁ」
そんなこと言ったって、いつもつまみはマスターの可愛い寝顔だから、本当はどうってことない。昨夜のビールだってそうだ。まぁ、それが原因でいま怒られているんだけども。
広げていた新聞を四つ折りにしてソファから立ち上がる。マスターはまだ膨れっ面で、テレビの横に置かれた忙しい主婦の為のレシピ本を取りに行っただけの俺を、じっと見つめたままでいる。
マスターがなんでそんなに怒っているのかはよく分からないけど、きっと空き缶の不始末の事なんだろうかな、なんて思いついて抱き締めたい衝動に駆られたが、今はそんな雰囲気ではないから、ソファに座り直して今晩の献立をリクエストしようと渇いたページをパラパラめくる。
「ドクター、…話聞いてる?」
「はいはい聞いてますよーだ」
「……うそ、聞いてない」
「ねっ、マスター今晩これがいい」
後ろに振り向いて、ちょいちょい、とすぐ近くにいるのにマスターを呼んで、若鳥の親子丼のページをつついた。
マスターは、じとっと睨むような目付きで俺を見ているが、可愛い顔立ちだから何にも怖くなくて、「これこれ」とページを指で差せば、仕方ないといった表情で、どれどれ、と言うかのようにページに顔を近づけ、それだけでは物足りないのか、「ちょっと見して」と俺からレシピ本を奪おうとした。
俺はあえて咄嗟に自分の方へとレシピ本を引き寄せてそれを拒んだ。
「ちょっと、ドクター、」
「ねぇ…、マスター」
「なに?それ作ってあげないよ」
「ビールごめんね」
俺がそう言えば、また、ぶくぅ、と膨れっ面になっていたマスターの顔がみるみるうちにしぼんでいって、きゅるんと、目を丸くし、パチパチ瞬きを繰り返して、下唇で上唇を持ち上げるような控えめなアヒル口をして数秒黙った。なにそれ、かわいい。
「もう…、ダメだからね」
「おぅ、わぁかってるって」
「………………ほんとに?」
「ほんと、ほんと」
うんうん、と頷けば、ふにゃり、と目じりにシワを寄せて笑うマスター。そうそう、この愛くるしい笑顔が大好きなんだよ。マスターはソファの背もたれ越しに、ちょっとだけ身を乗り出して言った。
「あれ、新商品だったんだよ?」
「えっ、それは知らなかった」
「ドクターと呑むために買ったんだよ?」
「えっ、それも知らなかった」
俺があたふたと驚いていたら、マスターはクスッと笑って、するりと、俺からレシピ本を奪っていってしまった。
「ほら、ドクター何も聞いてない」
「え、なにが?」
「ビール買った時に言ったじゃん」
親子丼のページを指ではさんで、パタンと胸にレシピ本を抱きしめて、いたずらっ子のように笑うマスターを相手に、そんなことあったっけ、とかすかな記憶を辿ろうとしていた。
「ドクターさいてー」
「ち、ちがう、そん時は聞いてた」
「うそつき」
「いま忘れてただけだってー」
身体ごとソファで反転させて、マスターと見つめ合う。マスターはマスターで、クスクスと笑うばかり。
「許さないからね」
「え…、嘘でしょ?」
「約束は忘れるし、ビール勝手に呑むし、空き缶はそのままだし」
あ、最後のそれも、入ってるんですか、と苦く笑えば、当たり前でしょ、と怒られた。
「ドクターのに七味一瓶入れるから」
「ちょ…っ、勘弁してよー!」
「ドクターだから大丈夫だって」
「なにが!」
だってドクターじゃん、なんて言って、マスターはスリッパを引きずりながらキッチンに向かってしまった。
ポツリと取り残された俺はソファの背もたれにしがみついたまま、マスターが消えていった方をじっと見つめていた。
「てか、一緒にお酒って、…酔った勢いでってゆー、マスターからのお誘いだったのかも……」
昼間からいやらしい事を想像して、にやける。
そう考えだしたら、いてもたってもいられなくなって、慌ててソファから立ち上がり折り畳み財布を尻ポケットに突っ込んで玄関まで急いだ。
「マスター!今からビール買ってくる!」
俺は返事を聞かずに、軽い足取りで家から飛び出した。